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三、知らない男
その時、ざああっ、と強い風が吹いた。
珠生ははっとして、目を開く。男もぴくと身体を揺らし、珠生の肩を掴んでばっと身体を離した。そして、呆然と見つめ合う。
――な。なに? 今の……。
徐々に頭が冷えていくにつれて、今自分が陥っている状況に血の気が引く。
目の前にいる男もぱちぱちと目を瞬かせて、じわじわと顔を強張らせ、だらだらと冷や汗をかきはじめている。
「な、何するんですか! や、やめてください……!!」
珠生は、青くなりながらそう喚いた。すると男はぎょっとして、ぱっと珠生から手を離す。尻もちをつく珠生に向かって男は慌てて手を振ると、あたふたと立ち上がった。
「いやいやいや! ちゃう! ちゃうねん! 俺は、お前がしんどそうにしとったから手を……貸そうと……」
「だ、だって、今……」
さっと、珠生は唇を押さえた。
今、俺、この人とキス……した!? は、初めてだったのに……!?
珠生は愕然としながら、その男を見上げた。
色褪せたデニムを履いた長い足と、泥だらけの珠生の手によって汚された青っぽいシャツ、目力の強いはっきりとした顔立ちを蒼白にして佇んでいる男のことを……。
俺、知らない、こんな変質者知らない……!!
なのに、何だ、さっきのあの気持ち……。
「……いや、すまん。なんか、あの、すまん!」
男はがばりとそこに土下座をして、平謝りしてきた。珠生は呆然とそんな男のつむじを見つめる。
「ごめん! ごめんなさい! なんやよう分からんけど、ごめん! 俺は怪しいもんとちゃうねん!!」
「あ、はぁ」
男がもの凄い勢いで土下座してくるものだから、逆に面食らってしまった。悲壮な顔をしている男を見ていると、何だか逆に哀れになってくる。
「あの、もう、いいですから……」
「ごめんな、ほんまに。なんやろ、ちょっと頭がぼうっとしてしもて」
「はぁ……」
「た、立てるか?」
差し出された男の手は大きくて、とても男らしかった。差し出される手のひらを見つめつつ、珠生はじっと考えた。
何だったんだろう、今の気持ちは。他人に対して……しかも初対面の相手に、こんなに強く揺さぶられるなんて。
あの白い姿や、さっき感じた激しい切なさ……。でも今は、何も感じない。
この人も、あの時は確かに妙な目付きをしていた気がする。まるで何かが乗り移ったような……。
そこまで考えて、ぞっとした。
――え、幽霊が、乗り移ったとかそんな感じ……ってこと?京都は古戦場だったっていうし、お寺も多いし、そういう霊的な何かが起こりやすい……なんて聞いたことあるし……。
「う、嘘だ……」
「え?」
「あ、いいえ……。なんでもありません」
「……大丈夫か? 顔、真っ青やで」
改めて差し伸べられた男の手を、珠生はおずおずと掴んだ。ぐいと力強く引っ張りあげられ、幾分気分に張りが戻る。
並んでみると、その男もかなり背が高かった。父親と同じくらいだろうか。しかしひょろひょろに伸びた物干し竿のような父親とは違い、この男はとても体格がいい。スポーツマン的な雰囲気を持った爽やかな男だ。
「服、どろどろやで。大丈夫か?」
「あ、はい……。家近いので、問題ないです」
「そっか。身体は、どうもないんか? 顔色……悪いけど」
「……ああ」
そう言えば、頭痛は収まっている。あれも一体何だったんだろう。
「もう大丈夫です、ありがとうございます」
あれ、何で俺はこいつに礼を言っているんだろう。冗談じゃない、唇を奪われたばかりだというのに……と、珠生は釈然としない思いを胸に抱えつつも礼を言う。
「なぁ、さっき……なにか見たか?」
男はさっき白い少年が立っていた辺りを見つめながら、珠生にそんなことを聞いてきた。はっとする。
――この人にも、見えていた? それなら、幽霊じゃない……ってこと?
「い、いいえ……。別に……」
しかしこれ以上さっきの怪奇現象について考えるのが嫌で、嘘をついた。男は苦笑すると「そうか。見間違いやんな」と言う。
「これ、やるわ」
その男は、ズボンの腰に引っ掛けていたタオルを珠生に寄越した。
「手とかドロドロやし、それで拭いとき」
「いや、いいです。大丈夫です」
「いいって、やるわ」
「でも……洗って返します。よく、この辺りに来るんですか?」
「あ、おう……。うん、俺、そこの学生やから」
「あ……え? そうなんですか」
タオルを受け取り、汚れた手を拭う。そしてふと目を上げると、珠生が掴んで汚したシャツが見えた。
「あ、それ……シャツも、すみません」
「え?ああ、いいっていいって。安物やし」
「でも、それもきれいにして返しますから」
「そんなんええよ。具合悪かったんやからさ」
「でも、そういうの俺、気になるし……」
「……そうなんか?」
男は物珍しい生き物でも見るように珠生をまじまじと見ると、苦笑を浮かべて厚手のシャツを脱いだ。下に着ていた半袖の黒いTシャツ姿になると、男は服を珠生に渡す。
「ほな……お願いします」
「はい。あの……」
「ああ、俺、相田舜平 っていいます。生物科学科の各務研究室にいることが多いから、もし届けてくれるんやったらそこに来てくれるか? けど、もしアレやったら連絡先……」
「各務!?」
父親の研究室のゼミ生ということか?数百人の学生がいる大学なのに、何と世界の狭いことだ。
「わ、分かりました。じゃあそこに届けます」
「マジで届けてくれんの? でも……」
「大丈夫です、キャンパス内のことは分かりますから」
「そうなんか? んー、こんなん気にせんでいいのに。真面目な子やな。きみ、名前は?」
「沖野……珠生です」
「珠生くんか、ありがとうな。ほな頼むわ。気ぃつけて帰りや」
舜平は爽やかに笑うと、土手の斜面をひょいと駆け登って、行ってしまった。
珠生は預かったシャツを握りしめ、ざわざわと不穏にさざめく心を持て余しながら、もう一度辺りを見回した。
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