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八、不毛な恋人
次の日、目を覚ますとすでに父親はいなかった。時計を見ると十時、いつもより寝坊してしまったらしい。
昨晩はあの後、父親が戻るのと入れ替わりに舜平は帰宅していった。健介はにこにこ笑いながら、珠生に新しい友人ができたことを喜んだ。
「彼は良い学生だよ、見かけによらず真面目だし、なかなか研究のセンスもいい」「ふうん。ほんと、見かけによらないね」「ははは、彼に言わないでくれよ」なんて会話を寝る前にしたことを思い出しつつ、珠生はぼんやりとする頭を抱えて、気持よく晴れた窓の外を見た。昨日あった出来事が、全て夢だったような気になってくる。
携帯電話が光っているのを見て、珠生は二つ折りの携帯を開く。千秋からのメールだった。
彼女は昨日が入学式だったらしく、新しい学校と友達のことが軽く書いてあった。しかしそのメールの主たる用件は、父親との暮らしについて知りたがっているのがありありと分かる。
ーー千秋……俺の新生活は、ちょっとおかしなことになってるんだ。幽霊は見ちゃうし、ファーストキスは男に奪われるし、今日は寺でお坊さんに霊視をされるなんていう、妙な用事が入ってて……。
珠生はふと、片割れを恋しく思った。
千秋はきっと一緒になって背負ってくれる。軽く笑い飛ばしたり、考え過ぎなのよ、って言ってくれるだろう。
……ホームシックなのかな、これは。
珠生は返信する内容に迷い、諦めて再びイーゼルの前に座った。
昨日見た風景を思い出しながら、目を閉じて筆を握る。目に浮かぶのは、桜の舞い散る中佇んでいた、あの白い姿。美しかった。きらきらと輝く銀髪や、あの琥珀のような色の瞳……。
珠生は眼を開くと、筆をそっとキャンパスの上に置いた。
❀
「相田くん、今日はもう上がっていいよ」
と、アルバイト先の正社員の男がそう言った。
舜平はバイク便の配達のアルバイトをしている。京都で育った彼にとって、京都市内は庭のようなものだ。そこを自由に駆け回るのが好きで、バイクの免許をとってからはすぐにこのアルバイトに就いたのだ。
「あ、はい。お疲れっす」
舜平はバイクを車庫に入れると、腕時計を見た。正午過ぎだ。
昨日知り合ったばかりの珠生という少年との約束を思いながらユニフォームを脱ぎ、車庫の階段を登って二階の事務所へと戻る。
「相田くん、どうしたん? なんか嬉しそうやな」
五十路がらみのチーフが、パソコンから顔を上げて舜平に声を掛けてきた。
「え、そうですか?」
「なんや、これからデートか?」
「そ、そんな顔してます?」
舜平はぎょっとして、思わず顔を両手で叩いた。チーフはにやにやと笑って椅子に背中をもたせかけると、ギシギシと椅子を揺らす。
「若いっていいねぇ」
「いや、デートとちゃいますよ。この後は家の用事で……」
「照れんでいいって、外で彼女が待ってるで」
「え?」
舜平は事務所の窓から下を見た。階段の下に、舜平が今交際している女子大生、吉田梨香子が立っていた。舜平に気づくと、笑顔で手を振っている。
「……なんで」
舜平は手早く荷物をまとめて、挨拶もそこそこに事務所を出た。カンカン、と小気味いい音を立てて下に降りると、梨香子の前に立つ。
「今日、約束してへんやろ? どうした」
「何よ、約束してないと会いに来ちゃいけないわけ?お昼、一緒に食べようよ」
梨香子は東京出身で、一人暮らしをしながら京都大学に通う学生だ。舜平とは同じ年で、大学一回生の新歓イベントの時に知り合い、何となく付き合い始めた。かれこれ一年ほどの付き合いだが、徐々にお互いの熱は冷めつつあるものの、別れる理由もないため惰性で付き合っているような関係性である。
「ねえ、そこのパスタ屋さんに行きたい。行こ!」
「あ、ああ。うん」
梨香子は舜平の手を握ると、ぐいぐいとその手を引いて歩いて行く。
二人は町家風のカフェに入り、各々ランチを注文した。運ばれてきた水を飲みながら、梨香子はじっと舜平を見ている。
「ねぇ、なんで昨日は電話、かけ直してくれなかったの?」
「昨日? ああ……昨日はバタバタしててな」
「ばたばたって?」
梨香子は隙のない目付きで、じっと舜平を見据えてそう尋ねてきた。梨香子は常々、舜平が他の女に興味を持っていないかどうかを確認する癖があった。それは舜平を思う余りの行動というよりも、自分の所有物が他の者に取られやしないかと心配しているようなものでしかないと、舜平は息苦しく感じていた。
「各務先生の息子と知りおうて、ちょっと留守番頼まれた」
「ふうん……。舜平は先生とほんとに仲がいいよね。屋代くんといい。普通そんなこと学生に頼むかな」
「俺らは先生と仲良いから」
舜平も水を飲むと、今の精神状態とは裏腹に気持ち良く晴れ渡った空を見上げる。梨香子はまだ納得していないような顔で、じっと舜平を見据えている。
「ねぇ、このあとは?」
「用事がある」
「どんな?」
「……その子と京都観光、かな」
「なにそれ! 私も行きたい」
「やめとけって。あの子、人付き合い苦手な子やから」
「……男の子でしょう?」
「そうやで。もうええ加減にせぇ、どうせ週末に会うやん」
舜平はさすがに苛々した口調になると、たん、と水の入ったグラスを乱暴にテーブルに置いた。少し水が溢れ、陽の光を受けてテーブルに光の輪を作る。
梨香子は不機嫌そうに口をつぐんだ。
「今夜うちに来てよ」
「何で? 明日からまた授業始まるんや、週末でいいやん」
「いいじゃない、最近全然私のことかまってくれないじゃん。エッチしようよ」
ちょうど皿を運んできた男の若い店員が、動揺したのかガチャンと音を立てて皿をテーブルに置き、すみませんっと謝ってそそくさと立ち去った。舜平は呆れたようにため息をつく。
「……お前、こんなとこでそんなん言うなや」
「待ってるからね」
梨香子はなおも不機嫌な顔のまま、運ばれてきたパスタを食べ始めた。
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