10 / 533
九、山中の寺
梨香子を一応家まで送り、ようやく解放された気分になる。舜平はがっくりと肩を落として、ため息をついた。
ーー俺、何であいつとまだ付き合うてるんやろう……。
昔はそれなりに楽しかった。東京育ちの梨香子は、関西で知り合う女たちとは少し空気が違ったため、刺激的で飽きない女だと思っていた。
しかし、付き合いが長くなるにつれて、徐々にその刺激は単なる我儘でしかないということに気がついた。
疲れるが、『別れる』ために割く労力を考えるとまたそれも面倒で、ただただ流れるようにその関係を続けているだけなのだ。
苛立ちながら車を運転し、珠生の家の前に着く。昨日珠生が自分で入力していたアドレスに、メールを入れて待っているうちに、ようやく少しずつ心の乱れが落ち着いてくる。
程なくして、ジーンズに白いシャツを着て、モッズコートに片手に抱えた珠生がマンションから出てくるのが見えた。姿を見ただけで胸がとくとく高鳴るという事実に、舜平はまたまたぎょっとしてしまう。
珠生は昨日よりも顔色が良いようだ。車に乗り込んで来ると、舜平にぺこりと一礼する。
「こんにちは」
「お、おう。こんにちは……」
珠生は舜平を見上げたまま、無言で紙袋を差し出した。受け取って中を見ると、昨日渡したシャツがきれいに畳まれて収まっている。
「ありがとう。もう洗ってくれたんや」
「はい。あの、どうかしました?」
「え?」
「なんか、イライラしてました?」
舜平はその台詞に少なからず驚いていた。まるで心のなかを見透かすような透明な目で、珠生はじっと舜平を見上げている。
その瞳から、目が離せなかった。あまりに美しく澄んでいて、そこはかとなく懐かしいような、切ないような気持ちにさせられて……。
「舜平さん?」
「あ、いや。大したことじゃないねんけど……」
ーーっておい! 下の名前で呼ぶんかい! めちゃ照れるやんか!
舜平はいちいち珠生の言動に右往左往する自分に呆れて、ぶんぶんと頭を振った。珠生は胡散臭げな視線を舜平に向けている。
「ちょっとな、さっき彼女と喧嘩したもんで」
「彼女いるんですね。いいんですか、俺と遊んでて」
「いいねん。別に約束もしてへんのに勝手にバイト先に来た挙句、喧嘩ふっかけて帰って行きよったわ」
「へぇ、会いたかったんですね、舜平さんに」
「どうなんかなぁ、俺はあいつといても最近……息苦しいねんな」
「彼女なんでしょ? 好きだから付き合ってるんじゃないんですか?」
「……好き……か。今となってはよう分からへんな」
「ふうん。大人って大変ですね」
珠生はぽつりとそう言うと、移り変わる車窓を眺め始めている。
珠生と過ごしていると自分の気持が凪いでいく……舜平は、そんなことを感じていた。珠生の纏う静かな空気が、さくさくと刺だっていた舜平の心を撫でるように落ち着かせてくれるのだ。
「珠生くんは好きな子、おらへんのか?」
「……いません。いたこともありません」
「へぇ、そうなんや」
「あんまり、他の人に興味なくて。自分にもあまり興味ないけど……」
「ふうん……そうなんや」
「俺……本当に千秋の影みたいに生きてきたから、自分がどうしたいのかとか、そういうのよく分からないままここまできてしまったような気がします」
「千秋?ああ、双子の子か」
「はい。千秋は何でもできるし、明るくて活発で、俺とは正反対の人間なんです。千秋が目立つから、比べられて余計に俺も目立つわけです」
「だから高校は京都にきたんか?」
「そうです。ちょっと、離れてみようと思ったんです。でも……いざ離れると寂しいって、今朝思いました」
「そっか」
「すみません、どうでもいい話です」
珠生は相変わらず淡々とそう言うと、そっぽを向いて窓の外を眺めた。舜平は微笑むと、左手を伸ばして珠生の頭に手を置いた。
びっくりしたように、珠生が舜平を見上げる。舜平は前を向いたまま、何度かぽんぽんと頭を撫でた。
「もっと聞きたいけどな、俺は。珠生くんの話」
「……そんな」
「こうしてるのも何かの縁やしさ。……昨日は、ほんまに悪かったな」
「……いえ」
重なった唇の感触が身体に蘇り、珠生はふと自分の唇に触れた。
暖かかったのを、覚えている。
「初めてが男の人ってのもまぁ……。事故みたいなもんですしね」
「……初めてやったか。そりゃ、尚更悪かったな」
舜平は、自らの唇に触れている珠生を見てまたまたどきりとした。いちいち行動が絵になって美しく、目が離せなくなってしまうのだ。それに、初めてのキスを自分が奪ってしまったという罪深さにすら、どうしてもときめきを抑えきれないでいる。舜平はため息をつき、自分の変態的な思考を戒めようと首を振った。
「……カウントせんかったらええねん。人工呼吸みたいなもんや」
「そうですね」
珠生は苦笑して、山道に入り始めた車窓を興味深そうに眺めている。通学に使う道であるため、舜平には慣れた道だ。うねうねと曲がりくねった細い道をしばらく登ると、比叡山スカイラインの入り口が見えてくる。そこを通り過ぎ、舜平はもうしばらく山道を走った。
「こんな所にお寺があるんですか?人が住んでるんですか?」
珍しく矢継ぎ早に質問を投げかけてくる珠生に、舜平はははっと笑いかける。
「住んでるで。もう少しで着くわ。まぁ俺も、小学生にあがる時に引っ越してきたんやけどな」
「そうなんですか?」
「親父は坊主やけど次男坊でな、自分の実家の寺は継がへんかってん。しばらく会社勤めしとったらしいけど、ここの寺、預かり手がおらへんていうのを聞いて、ここに越してきたんやって」
「そんなこともあるんですね」
「せやし、ここに住んで十五年くらいかな。ほら、着いたで」
舜平はじゃりじゃりと砂利道を進んで車を停めると、エンジンを切った。
珠生は車から降りると、山の中に佇む荘厳な雰囲気の法堂を見上げる。そこの空気は外界よりも冷たく、下界では満開が近い桜たちも、ここではまだ三分咲きといったところだろうか。鳥の声が響き渡る以外は、何の音もしない静寂に満ちた世界だ。
珠生はただただ、その雄大な自然の中に浮かび上がるように現れた寺を見回して、息を呑んだ。
「……きれいだ」
ぽつりと呟いた珠生の言葉に、舜平は微笑んだ。自分の実家を褒められて喜ばないものはいないだろう。
珠生は目を閉じて、その清涼な空気を胸一杯に吸い込む。肺の中が、透明になっていくような清々しい感覚。珠生の唇が自然と綻んだ。
「いい所ですね」
「そうか? ただの田舎や、田舎」
そう言いながらも、舜平は笑みを浮かべて珠生を法堂の中へと誘った。
ともだちにシェアしよう!