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三十、平和な学園生活は?

 珠生は家庭科室や音楽室など、専門教科の教室の並ぶ四階まで一気に駆け上がると、奥まった場所にあるトイレへと駆け込み、洗面台に手をついて、はあはぁと息を整えた。  自分の取った行動が、信じられなくて、混乱する。別に皆の前で外見をいじられることくらい、慣れているからどうということもなかったのに……。  珠生はざぶざぶと顔を洗い、鏡に映った自分の顔を見た。 「何なんだよ……あれ」 「沖野ー? ここか?」  鏡に向かってぼんやりと佇んでいるところに、がちゃりとトイレの扉が開いて、正也が顔をのぞかせた。珠生ははっとして、鏡に映った正也を見やる。 「……おい、お前すげーじゃん! なに、剣道やってたの?」  トイレに入ってきた正也は、目を輝かせて珠生を見つめてきた。 「え……いや、俺はやったことないけど……」 「そうなん? 滅茶苦茶強かったじゃん! 俺びっくりしたよ! 沖野っていかにも文学少年ぽかったからさぁ、いやーびびったわ」 「……う、うん。もう行こう」  珠生はそのことには触れず、正也を促してトイレを出る。長い廊下を歩きながら、正也は嬉々として「すげー」とか「かっけー」などと囃し立てていたが、珠生の耳には何も入っては来ない。 「あの人、剣道部の主将の真壁美一(よしかず)っていうんだけど、これがまぁ、評判の良くない人でさ。あの人もスポーツ推薦組なんだけど、親がなんか偉い人らしくてさ、先生たちも何も言えないんだって」 「へ、へぇ……」  面倒な奴に目をつけられてしまった……と、げんなりした。平和に淡々と高校生活を送っていこうと思っていた初日に、これだ。 「美術部もいいけどさ、なんか運動部入れよ! そうだ、陸上やんない? さっきの身軽さなら、ハイジャンプでも幅跳びでも……」 「あ、いや……そんなのいいからいいから。ほら、授業始まるし、いこ!」 「そう言うなよ〜、なぁ、沖野ー!」  先に立って階段を急ぎ足で降りていく珠生を、正也が早足に追いかけてくる。  三階にある一年生教室に降りてくると、同級生たちの視線が、一斉に珠生に集中した。珠生は思わず、固まってしまう。  ひそひそと何かを話し合う声、女子生徒のきらきらした目線、男子生徒の好奇心いっぱいの目線が……痛い。  珠生はぎこちない足取りで廊下を進み、教室に入って自分の席に座る。そこでも、彼らから注がれる好奇の目線は変わらない。 「おはようさん。あれ、珠生どうしたん?」  ふらりと入ってきた湊が、珠生の強張った顔を見つけて、呑気な口調でそう尋ねた。朝の出来事を何も知らないらしい、湊の普通の対応にほっとする。 「お、おはよう……湊」 「何だよお前らー! 俺が帰った後に名前で呼び合う仲になったわけ!? ずりー、俺もそうしよっと」  正也のけろりとした声がしんとした教室に響く。それと同時に、授業開始のチャイムが鳴った……。   ✳︎ 「沖野くん、おはよっ」 「おはよ……」 「沖野くん、消しゴム、落ちたよ」 「あ。ありがとう……」 「沖野くん、理科室、一緒に行かへん?」 「あ。いや……俺は……」  一時間目が終わると、クラスの中でも積極的な女子のグループが、珠生の周りをうろつくようになった。  中等部から明桜学園に通う女子達は、学校生活にもすでに慣れているしグループも出来上がっているため、集団の勢いで珠生に近寄ってくるのだ。  朝の出来事は、一瞬で学校中を駆け巡っていた。その場にいなかったはずの女子も男子も、すでに全員がその出来事を知っていた。  ただでさえ珠生の華やかな容姿は目を引くのに、そういった風評が加わったことで、珠生の名は学校中に知れ渡ってしまったのである。 「珠生、理科室教えたるわ」  そんな女子の誘いを断ることができない珠生のことを、湊は背後から声をかけて救い出そうと試みた。が、女子達は打って変わって剣呑な顔で湊を振り返り、ギロリと睨んでくる。 「柏木、邪魔やで。あんたは一人で行ったらええやん」 「そうやで。うちらが沖野くんに学校案内してあげるんやから」 「……」  気の強い女たちのどすの利いた声に、湊はムッとしたような顔をして口を噤んだ。湊はこの手の女子が嫌いなのである。 「珠生ー! 次行こうぜ!」  トイレから戻ってきた正也が、女子と湊の戦いになど気づく様子もなく、さっさと珠生の腕を掴んで教室を出た。珠生は安堵して、ため息をつく。 「ありがとう、正也」 「え? 何が?」 「ええときに帰ってきたな」  と、湊もすぐ後をついてくる。 「ここの女子、皆頭ええからプライドも高くってな。めんどい女ばっかりやねん」  と、湊はげっそりとした顔をして眼鏡を押し上げた。 「へ、へぇ……」  珠生も、それにはぞっとした。 「そう? 結構皆可愛いじゃん?」  と、正也は一人で楽しげだ。 「はぁ……」  珠生はため息をついた。階段一階分上がるのに、矢のように突き刺さる生徒たちの視線に晒されて、異様に疲れた。  ――あと三年、まるまる三年……。どうなっていくんだ、俺の平和で平凡な高校生活は……。  珠生らとは入れ替わりに、上から降りてくる上級生の集団がある。珠生はその中に真壁がいるのではないかとぎょっとしたが、その気配はないようだ。  ただ、上級生の目付きも珠生には痛かった。「ほらほら、あの子……」「へー、めっちゃ可愛いやん♡」など、珠生に聞こえようが聞こえまいが関係なく、無遠慮に投げつけられる女子たちの声と目線には、恐怖すら覚えてしまう。……平和な学校生活……どこへ行く。 「沖野くん、ちょっとおいで」  不意にすれ違いざまに腕を捕まれ、珠生はぎょっとした。目を上げると、そこにはあの斎木彰の笑顔がある。 「あ、はい……」  湊と彰は軽く目を合わせた。湊はぐいと正也の腕を引っ張って、先に理科室へと入っていった。階段に取り残された珠生は、彰に階段の踊場へ押し留められてしまった。  彰の不気味さをよく知っているから、当たり前のように制服を着て、教科書を抱えた彰の姿は何となく違和感があった。珠生は、普通っほく学生をやっている彰を、ついまじまじと観察してしまう。 「今朝は大変だったね。真壁にはこっちから注意しとくから」 「あ、はい……。俺も、あんなことしてすみませんでした」 「いいんだよ、あれくらい。入学式の後もね、あいつは部員をいびり倒して、顧問にも厳重注意されていたところだったんだ。生徒会としてもそれなりの対応しておかないといけなかったことだし」 「はぁ……。ありがとうございます」  ふと、彰はまわりに人気がなくなったのを確認すると、にっこりと笑顏を作り、珠生の耳元に口を寄せた。 「千珠の力が現れたみたいだね。君の身体から、千珠のにおいがする」 「……そうなんですけど。こんなの俺、困りますよ」 「ふむ、あとでゆっくり話そう。昼休み……は無理か。放課後、生徒会室においで。あの賑やかそうな大北くんは部活に行くだろうし」 「……はい、分かりました」 「楽しみにしてるね」  と、彰はひらりと手を振って、階段を軽やかに降りていった。背が高く、ブレザーを脱いでワイシャツの袖を捲くっている彰は、いかにも爽やかな高校生という感じで、なかなかにかっこよかった。  さらりとした髪を揺らして小走りに去っていく彰の姿が見えなくなり、珠生はひとりため息をついた。前世である佐為の姿を思い出しながら、「何であんなにうまいこと転生してるんだろう……」と呟きつつ、珠生は理科室へ向かった。

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