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二十九、波乱の予兆
翌日は、朝から土砂降りの雨だった。珠生は傘をさし、革靴を雨水で濡らしながら、学校への道のりを歩いていた。
舜平とキスをしたおかげだろうか、あれだけ高かった熱はすっかりと下がり、健介がどたばたと帰ってくる頃にはいつもの体調に戻っていた。
熱にうなされている間に長い長い夢を見た。千珠としての自分の過去を、辿るような夢を。
戦のさなか、手傷を負い、迷い込んだ青葉国 。千珠を匿い、鬼の力を貸して欲しいと、自らの命を対価に盟約を誓った、青葉の主たる男・大江光政の姿。舜海との出会い。半妖でありながら、数えきれない数の人間をこの手で殺めたこと。
激しい感情。鬼の本能と、人としての血がこの身を苛み、迷いに堕ちた時に見た幻影。そして、かつての両親の姿……。
戰場で、光政に抱かれたこと。その時に初めて、人の温もりを知ったこと。
半妖であるがゆえに、千珠は満月の夜に人の姿となった。その心もとなさを埋めるため、舜海の温もりに溺れた。何度も、何度も。そしていつしか、舜海の存在はかけがえのないものとなった――。
……なんて夢だ。
珠生は横断歩道で目を閉じて、少し呼吸を整えた。あまりに膨大な過去の記憶を一瞬にして追体験したのだ。穏やかにごくごく当たり前の生活を送ってきた珠生には、あまりに衝撃が強すぎた。
前世の自分は人間ではなく、鬼だった。誰よりも強く、誰よりも美しいと謳われたこの世の軍神だった……そんな過去を。
――そんなの、まるで実感がない。でもあれは、確実に俺だ。
あれは発熱が見せた夢だったのではないかと思うほどに、月曜の朝は日常のままだ。それがまた、珠生を混乱させる。
「おはよ!」
背後から水たまりを蹴散らしながら駆け寄ってきたのは、大北正也だった。たった二日会わなかっただけなのに、この同級生がえらく遠く幼く感じられるのは、数百年の時を超えて、千珠の人生を体験してしまったからなのだろうか、と珠生は思った。
「おはよう」
振り返って微笑む珠生の顔を見て、正也ははたと足を止めた。
「……沖野だよな? あれ、なんか金曜と雰囲気違くない?」
「えっ、そうかな? そんなことないだろ」
珠生は意外に敏感な反応を見せる正也にぎょっとしつつも、引きつった笑みを浮かべた。正也はそこまで頓着する様子もなく、珠生の横を歩き出した。
「気のせいか。まーいいや。あのさ、こないだの体育館の傷な、土日で業者が慌てて修理してたぞ」
「へぇ、そうなんだ」
「ほんっと、あそこだけガラスがバキバキに壊れてて、コンクリの壁にもな、なんか重機で引っ掻いたような傷があちこちについてたんだと」
「……へぇ」
珠生はテレビで見た映像を思い出した。紫色の靄の中に浮かぶ数千の人の顔……彼らが、その傷をつけたというのだろうか。
「……怖いね」
「だろだろ〜!! そんでさ、今朝のニュース見た? 御所でも事件があったって話!」
「え? なにそれ」
正也は、何も知らない同級生に情報をもたらすことが嬉しくてしょうがないような表情を浮かべながら、饒舌に喋った。
「御所にもな、体育館についてたみたいな傷がつけられてたんだと! 行ったことある? 京都御所。昔、天皇がいたとこな! そんで、その事件後に近くを警備していた警官が、惨殺されてたんだって。仲間の警官たちもすごい悲鳴を聞いたって」
「……惨殺?」
「何だろうな、京都って古戦場じゃん? それだけにさ、やっぱこういうホラーちっくなことってよくあるのかな」
歴史ロマンに思いを馳せるような表情で、正也はうっとりしながら話をしていた。そんな正也を不謹慎だと感じるものの、これが普通の人の一般的な反応だろうとも理解出来る。非日常的な事件に興奮するのは、現代人としてはよくある反応なのだろう。
正也はそれだけ喋って満足したらしい。昇降口に着き、二人は傘を畳んで校舎へと入ろうとした。
「おい、そこの茶髪、止まれ」
全学年が利用する混みあった昇降口に、三人の大柄な男子生徒が立ち並んでいる。彼らはまっすぐに珠生を見据えながら薄ら笑いを浮かべ、歩み寄ってくる。
正也が息を呑んで固まるのが分かった。珠生は無表情に、見たこともない上級生を見上た。
「やべ……あれ、剣道部の主将の真壁先輩だ……」
少し後ろにいた正也の怯えた小さな声が耳に入ってくる。
「……俺ですか」
「そう、お前や。新学期早々、えらい茶色い頭やなぁ」
中心にいる、ひときわ背の高い男子生徒が、珠生を威嚇するように顔を近寄せてくる。短く刈り込んだ黒髪と、鍛え上げられた体格の男で、武具と竹刀袋を持っているところから見ると、剣道部の上級生だろう。
珠生は内心ため息をついた。華やかな外見ゆえ、昔からこの手のいちゃもんは慣れていた。しかしこの名門校は、成績さえ良ければ、校則などあってないようなものだと聞いていたのに、こんな目に遭うとは思っていなかったのだが……。どこの学校にも一人はこういう古風な先輩がいるらしい。
「……すみません。地毛なもので」
珠生は淡々とそう言って、ぺこりと小さく真壁に頭を下げた。
「こんな色が地毛なわけあるかぃ? なぁ」
真壁は後ろに控えるように立っていたもう二人の男子生徒に同意を求めた。二人の男子生徒もにやにやしながら頷いている。
「……そう言われましても」
「へぇ……お前、綺麗な顔しとるやんか。きみなら、坊主になってもきっとモテるやろうな」
「坊主、ですか」
「校則違反の一年生は皆そうすんねん。知らんかったんか?」
真壁はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら、小柄な珠生の頭を鷲掴みにしようと、ぬっと手を伸ばしてきた。
その瞬間、珠生の目の奥で、何かが光った。
ばしっ……!!
新学期恒例の後輩イビリで、しんとしていた昇降口に鋭い音が響く。
珠生は、伸びてきた真壁の手を、鋭く片手で払いのけたのだ。ごくりと、周囲で見ていた生徒たちが息を呑む音が聞こえてくる。
当の真壁も、一瞬何が起こったのかわからないという表情を浮かべて、珠生を見下ろしている。
しかしながら一番驚いているのは珠生だった。自分の意に反して、勝手に体が動いたのだから。
――え、何、これ……!?
「俺に触るな」
――え、何?なに言ってんの?俺。
さらに意に反して口が動いた。珠生は訳も分からず、じわじわ怒りで顔を赤くする真壁を見上げている。
「上等やないか。お前、随分と生意気な一年坊主やな」
真壁はすっきりと出した額に、ぴきぴきと青筋をいくつも立てながら不気味に笑った。珠生は動けず、ただ呆然と真壁を見上げることしかできなかった。真壁は竹刀袋を取り上げて竹刀を荒々しく取り出すと、ぴたりと珠生に先端を向ける。
――ええぇ……!?
「おい、そこ座れ。何も知らへん他の一年にも、よう分かっといてもらおうか。校則は守らなアカンてことをな」
「はぁ……」
「自分で座れへんのなら、俺が座らしたるわ!」
真壁が素早く竹刀をしならせ、珠生の膝を打とうと狙ってきた。女子生徒の小さな悲鳴が聞こえる中、珠生もまた激痛を覚悟した。ところが、そんな痛みはいつまでもやっては来ない。
珠生はとん、と軽く地面を蹴って、下段を払ってきた竹刀をかわしていた。
「!」
真壁はぎょっとした表情を浮かべたものの、振り切った竹刀をすぐに構え直し、怒りにらんらんとした目で珠生を睨みつけた。
「……てんめぇ……」
すぐさま顔を狙って、鋭く竹刀を打ち込んでくる真壁の動きに、珠生の目つきが鋭くなる。珠生は手に持っていた傘を顔の前に横に掲げ、その竹刀を防いだ。
バシィッ!! と鋭い音がして、振り下ろされた真壁の竹刀をびたりと受け止める。真壁は、自分を真下から見上げてくる珠生の鋭い目線に、背中がゾクリとするのを感じた。
「触るなと言ったはずだ」
真壁にだけ聞こえる小さな声で珠生はそう呟いて、真壁の竹刀を押し返す。
「うお!」
小柄な身体からは想像もできない重い剣を受け切れず、真壁は思わず尻餅をつく。瞬きをした次の瞬間には、珠生の傘が真壁の目の前に突きつけられていた。
真壁は、じっとその新入生を見上げた。その目が、一瞬黄色っぽく見えたような気がしてゾッとする。
昇降口にいた誰もが、何も言葉を発することもできずに、二人を見ていた。ただただ雨の音だけが、広い下足室に響きわたっている。
「……あっ」
一番最初に我に帰ったは珠生だった。真壁に突きつけていた傘を、ぱっと取り落とす。ぱさ、と軽い傘の落ちる乾いた音が、下足室にこだまする。
「あ……。あの……すいませんでした! 失礼します!」
珠生はばっと頭を下げると、慌てて靴を履き替えてばたばたと階段を登る。
珠生が動いたことで、固まっていた下足室の空気が、ざわめいた。
「あ、おい……大丈夫か?」
真壁の後ろにいた生徒が、真壁の肩を叩いた。真壁ははっとして、慌てて立ち上がる。
「どうしたんやお前、あんなひょろい一年に」
「……う、五月蝿いわ。おい! 何見てんねん、お前ら!!」
真壁は苛立った口調で、立ち止まっていた他の生徒達を威嚇すると、皆がそそくさと靴を履き替え始めた。正也も慌てて珠生の後を追って階段を駆け登る。
真壁は弾かれて転がった自分の竹刀を拾い上げ、珠生の傘をひょいと拾い上げた。
ただのコンビニで売っているようなビニール傘だ。こんなひょろひょろした物体で、自分の竹刀を押し返したことが信じられなかった。
怒りに任せて、真壁はそのビニール傘を真っ二つに折り、ぐにゃりと曲がった傘を乱暴に床に叩きつける。
「あんのクソガキ……!! 覚えとれよ……!」
憎々しげにそう言い捨て、真壁は濡れた尻を払いながら校舎の中へと入っていった。
そんな様子を、斎木彰は登校してきた生徒に交じって眺めていた。
そして、さも楽しげに目を細めて笑みを浮かべる。
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