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三十二、憑依

 梨香子は雨の中、怒りに顔を歪めながら走っていた。  ――悔しい。  男を捨てるのは、いつも梨香子の方だった。いつもいつも、梨香子が優位に立っていた。  ――私の言いなりにならない奴なんて、いなかったのに。男からあんな扱いを受けるなんて、プライドが許さない。 「冗談じゃないわよ……!」  いつだって、梨香子は一番だった。成績も、スポーツも、容姿も、家柄も。  幼い頃から、自分が一番可愛いことを自覚していたし、可愛く見せるための方策も持っていた。狙って落とせない男はいなかった。  セックスを覚えてからは、男は更に梨香子の言いなりになった。誘えば皆、梨香子の虜になった。自分を貪り溺れる男たちを見るのが、とても楽しかった。  舜平と付き合って半年程した頃にはもう、隠れて他の男と寝ていた。彼氏の有無に関係なく、他の男達は、皆梨香子を欲しがったからだ。    なのに舜平は、いつもどこか遠いところを見ていた。何一つ、梨香子の思うようにはならなかった。いつも、腹が立っていた。振り回しても振り回しても、あの男は梨香子のものにはならなかった。  そして見てしまった。  舜平が会っていたあの少年。驚くほど整った顔立ちをした、綺麗な子。  信号待ちをしている車内で、舜平は大切そうにその少年の頭を撫でていた。あの優しげな目、梨香子には一度も向けられたことがないような、優しい目だった。  ――男のくせに、ガキのくせに、人の彼氏に手を出すなんて、許せない。  梨香子は怒っていた。  プライドを傷つけた舜平と、どこの誰とも分からない少年のことが、憎らしくて仕方がなかった。  ばしゃばしゃと水たまりを蹴って、走る。土砂降りの雨、人通りは殆ど無い。薄暗い通りを走りながら、梨香子は唇を噛んだ。  不意に、きいん……と鋭い耳鳴りがして、梨香子は立ち止まる。思わず耳を塞いで、その場にしゃがみこんだ。わんわん、と耳の中でこだまする不快な音が、梨香子の脳を攻め立てる。  ――憎いか……あの男が…… 「えっ……な、に?」  ――憎いんだな……可哀想に、あんな奴に心を乱されて…… 「え……え? 何これ……」  頭に直接響いてくる声に、梨香子は恐怖した。ふと顔を上げると、けぶる雨の中に、黒い影のようなものが見えた気がした。  ――身体を捧げよ……さすれば、お前の憎い相手……この私が殺してやるよ……   梨香子は徐々にぼうっとしてくる頭で、その言葉を聞いていた。それはとても恐ろしい体験のはずなのに、脳に語りかけてくる低い男の声が、とても甘美なものに聞こえてくる。  ――殺してやろう……お前の代わりに…… 「殺して……くれるの……?」  ――ああ、お前の邪魔をするやつは、全員な……  低く笑う男の声とともに、黒い影が梨香子を包み込む。そしてそれは煙のように、梨香子の鼻や口から彼女の体内へと入り込んでいった。  黒い影が全て吸い込まれ、梨香子の中に消える。すると、うずくまっていた梨香子はすうと立ち上がった。  その顔には血の気がなく、不気味な笑みを湛えている。 「……くくく……はははは!! 肉体だ! 身体を手に入れた!! あっはははは!!!」  梨香子は高笑いすると、嬉しげに自分の体を抱きしめた。そして、邪悪な笑みを載せた顔を天に向ける。 「業平(なりひら)佐為(さい)! ……見ていろ……都を滅ぼしてやる……。お前らが必死に守ってきたこの国を……この俺が破壊してやる!!」  梨香子の声に、低くしゃがれた男の声が重なる。 「そしてあの忌々しい子鬼……今度こそ、魂ごと葬り去ってやる……あははははは!!」  激しさを増す雨の中に、不穏な笑い声が響く。

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