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三十三、忘却術

 何とかその日一日の授業をやりすごし、短いホームルームが終了すると、珠生はがっくりと革の鞄の上に頭を垂れた。今日の授業は全てオリエンテーションのようなものであったが、明日から週末までは新学期最初の試験が控えている。  関西屈指の進学校である明桜学園では、成績優秀者上位五十名の名前が貼り出されることになっており、そこで皆が互いの力量を測り合うのだが、珠生としては、大学進学試験を免除される中程度の成績を取り続けることが出来ればそれでいいのである。  しかし周りの生徒達のやる気は一味違った。特に中学から内部進級してきたグループは、それぞれがピリピリとした雰囲気を醸し出しながら、表面上は愛想のいい笑顔を浮かべつつ、図書館や塾へと足を向けるというわけだ。  スポーツ推薦組の大北正也は、とりたてていい成績を取らねばならないわけでもなく、気楽な様子である。柏木湊は中学からの進級組だが、いつもと変わらず淡々としている。  朝のことで生徒会室に呼ばれていることを二人に告げ、珠生は一人、教室を出た。   ✳︎ 「生徒会室って、どこなんだろ」  慣れない校舎を把握しようと、珠生は一階の昇降口前に設置されている教室配置図を見ていた。  試験前だからだろう、生徒たちは皆早々に帰宅していってしまっているため、もう付近を歩いている生徒は誰もいない。どんよりとした空も、試験前の憂鬱な空気を更に重苦しくしているようだった。  目当ての教室の場所を見つけた珠生は、隣の校舎へと向かうべく、渡り廊下へと向かって歩き出した。  生徒たちが普段過ごす教室は東棟にあり、生徒会室や職員室、またAV機器の揃った視聴覚室や技術家庭科室などの特殊教室は西棟にある。更にその向こうに、体育館やプール、テニスコート等が配置されていて、それぞれが屋根のついた渡り廊下でつながっている。  珠生は誰もいない渡り廊下を歩いていた。屋根はあるものの壁はないため、湿った風が珠生の髪を重く乱していく。  その時、渡り廊下に人影が見えた。珠生はぎょっとして、立ち止まる。 「よぉ、沖野珠生くん。今朝はどうも」  渡り廊下に、真壁美一とその取り巻きの二人が立っていたのだ。珠生の怯んだ表情を見て、真壁はにやりと笑う。大柄な三人は、珠生を取り囲むように立ちはだかり、にやにやと嫌な笑みを浮かべている。三人とも剣道部なのだろうか、上背でがっしりとした体躯をしており、囲まれるだけでとてつもない圧迫感だった。 「……何ですか?」  珠生はやや恐怖を感じながら、真壁を見上げてそう言った。渡り廊下を渡ってすぐは職員室であるが、こういう時に限って教師は誰も出てこない。 「何ですかとはご挨拶やな。高校から入ったとはいえ、あの態度はいただけへんなぁ?礼儀ってもんを一から教えたらなあかんなて、考えてたとこやねん」  真壁は珠生の顔を見下ろしながら、威圧的にそう言った。 「あれじゃあ、他の生徒にも示しがつかへんやろ?」 「示し……って」 「ほんまに毛剃るか……それか……」  真壁はぐいと珠生の顎を掴むと、しげしげとその顔を見つめる。 「よう見たら、ホンマにお前可愛い顔してんな。あ! そうや。お前の裸撮って、ネットにでも流してみよか。男も女も喜ぶんちゃうか?」 「えっ……」  珠生はぞっとした。この三人の目付きには、本当にそんなことをやりかねない危うさが見えたからだ。真壁は自分の思いつきが気に入ったのか、にやりと笑って珠生の腕をぐっと掴んだ。 「うーわ、細っ。朝の威勢はどないしてん? 大人しくしてるってことは、ほんまに脱がされてもええってことやんな」 「……や、止めてくださいっ……!」 「はははっ、ええなぁ、その反応。なかなかそそるやんか。おい、ちょっと来い」  真壁にとって珠生の抵抗など、羽虫を払うようなものなのだろう。珠生はその手から逃れようと試みたが、真壁の握力はびくともしない。  ふと、歩き出した真壁の脚がぴたりと止まる。  珠生が顔を上げて前方を見ると、そこには斎木彰が立っていた。彰はにっこりと、珠生に向かって微笑みかける。 「あんまり遅いから、迎えに来たよ」 「おいこら、斎木。邪魔や」  同学年の二人の、目線が絡む。にこやかだった彰の目が、すっと冷たくなる。 「真壁、沖野くんに先約があったのは僕だ。手を離してくれないか」 「はぁ? うっさいねん。俺にはこれから、こいつを裸に剥いて動画を撮影するという大仕事があんねや。どけ」  真壁の言葉を受け、彰の目がさらに鋭くなる。 「そんなことを言われて、放っておくことはできないな。君さぁ、最近ちょっと調子に乗りすぎなんじゃないの?」  彰はゆったりとした動きで真壁と間合いを詰めて、真壁のぎょろりとした大きな目を覗きこむ。ほぼ同じ位置にある二人の目線が、激しくぶつかった。 「……あ? やんのかコラ。優等生」  彰に苛立ちを向け始めた真壁は、珠生の腕を乱暴に払った。珠生は数歩引いて、真壁から距離を取る。  彰は尚も唇にだけ笑みを浮かべるという意地悪い表情を浮かべたまま、真壁から一瞬たりとも目線をはずさなかった。  そして、彰はすっと右手を上げると、人差し指を立てた。 「君は本当に面倒な奴だ。珠生のことはもう忘れろ」  まるで流れるような動きで、彰の指が真壁の額を突いた。ほぼ同時に後ろにいた二人の額にも同様のことをした彰は、唇の前で人差し指と中指を立て、何やら呪文のようなものを小さな声で呟いた。  次の瞬間、真壁たちの目が不自然に曇った。まるで意識を奪われたかのように、ふらりと巨体がよろめく。  珠生が目を瞠ってその様子を見守る中、彰は真壁の襟首を掴み、言い聞かせるようにこんなことを言った。 「君たちは、沖野珠生なんて生徒は知らない。関わりあったこともない。そうだろ?」 「……ああ、ない」  どこにも焦点を結ばない目で、真壁は虚ろにそう言った。後ろの二人も、同様だった。 「今後一切、珠生のそばをうろつくな。いいな。さぁ、道場へ行って、素振り千本やってこい」 「……」  彰がぱっと襟を離すと、三人はふらふらと身体の向きを変えて、渡り廊下から歩き去っていく。本当に、素振りをしにいくのだろうか。  珠生は不気味なものを見るような目つきで、彰を見上げる。彰はことも無さげににっこり笑い、珠生の肩を抱いた。 「……さぁ、帰ろうか。あまり学校にいたい気分じゃないよね?」 「……今の。忘却術ですか」 「そうだよ。思い出した?」 「現世でも使うんだ」 「今は君にあまり目立って欲しくないからね。裸を撮られても良かったの?」  珠生はぷるぷると首を横に振った。考えるだけでゾッとする。 「いやです……」  珠生は少ししゅんとなると、鞄を胸の中に抱え直す。そして、彰に促されながら昇降口へ向った。

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