45 / 530

四十四、傷口

「……っ」  珠生は、自分の体に襲いかかった衝撃に、一瞬何が起こったのか分からなかった。  じわ、と湿った感覚。目線を落とすと、鳩尾の辺りから、どくどくと血が流れ出している。珠生は愕然とした。 「えっ……なに……これ」 「珠生!!」  最初に異変に気づいたのは、隣を歩いていた湊だった。湊が声を上げると、先を歩いていた藤原が振り返り、見る間にその表情が凍りつく。  珠生はがくっと膝をついた。  珠生の腹を貫いた妖蟲は、ぴちぴちと砂利の上をのたうち回っていた。が、それはすぐにぐしゃり、と何者かの足に踏みつけられ、キィィ……と微かな声とともに妖蟲は消えた。 「なんや、これ……」  蟲を踏みつけて殺したのは、舜平だった。唖然とした表情で、血を流す珠生を見つめている。 「……珠生!」  舜平は珠生に駆け寄ると、湊の手から珠生をもぎ取るようにしてその身体を抱き締めた。 「おい! しっかりせぇ! 珠生……。すぐ病院に……!」 「駄目だ、この傷は普通の医術では治らない。すぐに延暦寺に行こう」 「……くそっ……」  舜平は珠生を抱え上げ、外に停めてある自分の車へと走った。藤原と湊もその後に続く。  ――痛い、気持ち悪い……なんだ、これ……。  珠生は、内臓をじわじわと溶かされていくような不快な感触を感じながら、徐々に遠ざかっていく意識のなかにいた。  しかし、舜平に抱かれて安堵していた。舜平の腕が、体温が、珠生を安心させる。  珠生はゆっくりと目を閉じて、舜平の腕の中で意識を手放した。  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  藤原達が舜平の運転で延暦寺に到着した頃、すでに草薙は地中深くに隠されていた。  藤原は草薙の安置場所を確認すべく寺院内に入ってゆき、それと入れ違いに、葉山が出てきた。珠生と舜平をどこか人気のない静かな場所へ通すようにと、藤原から指示を受けているのである。  葉山は、血を流してぐったりとしている珠生を見て、表情を険しくした。 「とりあえずこっちへ。今は人払いをしてある社務所があるの。医務室へ運んで」 「はい」  舜平は珠生を抱きかかえたまま、葉山の後について、広い寺院の中を靴下はだしで歩いた。    寺院内にはまるで人の気配がない。しんと静まり返った寺院は薄暗く、とても不気味だ。  二台あるベッドのひとつに珠生を寝かせると、葉山は珠生のシャツをめくり上げ、患部を確認した。 「うわ……」  穿たれた腹の傷の周りはどす黒く腫れ上がり、じゅくじゅくと膿を溜めていた。苦しげに息をする珠生は熱っぽく、呼吸も浅い。 「これはひどい霊障ね。ちょっと待って」  葉山は給湯室で湯を沸かしたり、タオルを持って来たりと動き回った。舜平も、それを手伝う。  葉山は果物ナイフを取り出すと、ライターの火で炙って消毒をした。そしてナイフの柄に、ぐるぐると護符を巻き付けている。 「押さえてて、ちょっと……痛いと思うから」 「あ、はい」  初対面の女の指示に従って、舜平は珠生の身体を押さえつけた。 「ごめんねぇ、傷は残らないようにしてあげるから」  葉山はそう言うと、珠生の腹の傷にナイフを滑らせた。護符を巻いた刃から、じゅううと肉の焼ける音と匂いが、立ち上がる。 「うわぁあああああ!!!」  激痛を感じているのか、珠生は声を張り上げて背中を仰け反らせた。舜平は苦悶の表情を浮かべる珠生と同じくらいつらそうな表情で、暴れる珠生を押さえ込む。 「大丈夫、大丈夫やから……! 珠生……!」 「ああああ!! うああああ!!」  誰もいないガランとした社務所内に、珠生の悲鳴がこだまする。葉山は珠生から流れだしたどす黒い膿と血を熱湯で浸したタオルで全て拭き取ると、洗面器に真っ赤に染まったタオルを入れた。  そして、葉山は両手を珠生の腹の上にかざしはじめる。その手から、ぼんやりとした黄色い光が浮かび上がった。 「あ……」  舜平は、見慣れた懐かしいその技に、目を見開いた。それは、夢のなかで何度も舜海が行なっていた治癒の術式だ。黒いスーツを着たOL風の女が、夢のなかで行なっていた術を目の前で珠生に施している。……そんな異様な風景を、舜平は呆然と見守った。  激痛で更に乱れていた珠生の呼吸が、徐々に落ち着いてくる。傷口を見ると、ナイフで血を抜いた傷以外は、皮膚がくっ付き合うように消えていく。 「……ナイフの傷は、私が外科的につけたものだから、少し時間が掛かるかも……って、やっぱ、きついなこれ……!」 「替わりますよ」 「えっ」  やったことはないが、出来る自信はあった。舜平が自分の掌に霊気を集中すると、葉山と同じようにその掌に光が灯った。それも、葉山よりもずっと強い光だ。葉山の手をどかせて、舜平は珠生の腹の上に手をかざした。 「……君も、転生者なの?」 「ええまぁ、そんなもんです」 「そう、なんだ……」  葉山はくたびれたように、ぐったりとその場にへたり込む。  そこに、湊と彰がやって来た。急いでやって来たのだろう、息が上がっている上に、彰は顔が真っ青だった。 「舜平、珠生は!? どうや!?」  と、湊が舜平に声をかける。 「……大丈夫。もう少しで、塞がる……っておい、お前、俺のこと呼び捨てか!? 高校生のくせに!」 「今更お前にさん付けとか、気色悪うて無理や」 「何やと……? ってか、くそ、邪魔すんな」 「ああ、すまんすまん」  湊は葉山のそばに膝をつくと、その疲れきった顔をのぞき込んだ。 「あなたは大丈夫ですか? すごい悲鳴がしとったから、慌ててきてんけど」 「ああ、血と膿を出すのに彼のお腹を切ったからね。でももう、彼は大丈夫よ」 「あ……腹を、切ったんや……」  湊はやや青くなりつつ、へたり込んでいる葉山を立たせてやり、手近にあった椅子に座らせた。 「ありがとう、あなた高校生? 紳士ね〜」 「どうも」   湊はさらりとそう言うと、洗面器の中の血みどろのタオルとナイフを目に止めた。 「殺人現場のようや……」  とつぶやきながらもそれを片付けようと、手に取ると、葉山からこんな指示が飛んでくる。 「それ、すぐに全部燃やして。触らないでね、危ないから」 「わかりました」  湊は頷いて、部屋を出て行った。葉山は感心した面持ちで湊のすらりとした背を見送ると、青い顔をした彰を見やる。 「あの子しっかりしてるわねぇ。あなた、何? まだ酔ってんの?」 「五月蝿いな。僕はあなたの雑な運転でこうなってるんですけど」  彰は恨めしそうに葉山を睨んだ。葉山は苦笑すると、「あはは、だって山道だもの。しょうがないじゃない」と悪びれもせずそう言った。 「だからって……後ろの二人だって、酔って息も絶え絶えでここまで運んで術掛けて……ちゃんと草薙の封印、できてんのかな」 「大丈夫よ。ちゃんと藤原さんに確認を頼んでおいたし」 「……」  彰はまた吐き気を催したのか、口元を押さえてふらふらと部屋を出ていった。  舜平は背後でがやがやと交わされる会話に呆れつつも、顔色が戻ってきた珠生の頬を見て安堵した。手を離し、大きく息をついて床に座り込む。 「はぁ……あー、疲れた」 「ご苦労様。あなた、すごいじゃない」 「……まぁ、ね。ところで、あんた、誰?」 「ああ、私は藤原さんの部下。葉山といいます。陰陽師の家系なの」 「へぇ、そうなんや」 「すごかったのよ、彼。手から綺麗な刀出してね、草薙を奪おうとした妖魔を一撃。その後、残党に襲われたようね」 「綺麗な、刀……か」  ――千珠の宝刀のことか。ってことは、完全に千珠の力が戻ったんやろうか……。  舜平は改めて、珠生の顔をのぞき込む。  長い睫毛が伏せられて、時折それが、ぴくりと揺れた。しかし、その目が開く気配はない。  がらり、と扉が開いて彰がまた現れた。どことなくすっきりした顔ではあるが、蒼白な顔色はそのままだ。 「本当に、見事だった。往年の千珠そのものの動きだったよ」 「そうなんや」 「けど、見たところ……急激に力が跳ね上がったから、身体がついて行かなかったみたいだ。体内が……かなり傷ついているようだ」 「え……」  彰はベッドに腰掛けると、珠生の額に手を置いて、じっと探るようにその顔を見つめている。そして、ふと舜平を見た。 「葉山さん、ちょっと席外してもらえるかな?」 「え、何でよ」 「いいから、早く」  彰に強い口調で追い出された葉山は、唇を尖らせたものの、素直に立ち上がって部屋を出て行った。足音が遠ざかるのを聞いて、彰は改めて舜平を見つめた。

ともだちにシェアしよう!