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五十一、ざわめく

 木曜日。  沖野千秋は、バッグに着替えやガイドブックをいそいそと詰め込んで、旅の支度をしていた。  出発するのは日曜だというのに、楽しげに準備をしている千秋を見て、パジャマ姿の母親は呆れている。 「ちょっと気が早いんじゃないの?」  母、すみれは千秋の部屋のドアにもたれてそう言った。 「そんなことないよ。だって、金・土と部活があるから、ちゃんと支度できないかもしれないじゃん」 「はいはい、そうね」  すみれは部屋に入ってくると、千秋の机の上にぽん、と封筒を置いた。千秋がすみれを見上げて、その中身を覗きこむ。そして目を見開いた。 「こんなに!?」 「……珠生には、私、なーんにもしてやってないからさ。せめてあんたが行った時くらい、おいしいものでも一緒に食べてやって。お父さんには絶対にお金、出させないで」 「そんな意地はっちゃって。いいの? あたし、もらったからには全額使っちゃうかもよ?」 「いいわよ、あんたと珠生へのお小遣いなんだから。どうせあの子、服なんかも新しいの買ってないだろうし、一緒に買物でも行ってやってよ」 「そうだね、珠生はあたしがいなきゃいつまででもおんなじもん、着てるもんね」  千秋はうきうきとした顔で笑った。久しぶりにはしゃいだ顔をしている娘を見て、すみれは微笑んだ。 「あんたら、本当に仲いいわね。双子ってどこもそうなのかしら」 「さぁどうだろう。ってかさ、珠生はあたしといて卑屈になってたみたいだけどね」 「あら、そうなの? 知らなかった」 「お母さんと珠生、あんまり喋んないもんね。てかあたしも引越しの前日に知ったわけだけど」 「だから京都に行っちゃったのか……」 「そうかもね。まぁ卑屈な男に育つよりは、そっちのほうがいいよ」 「そりゃそうだわ」  すみれはすっぴんで前髪を大きなクリップで留め、まるで色気のない格好で腕を組んで立っていた。そんな格好をしていても、すみれは娘の目から見ても美人だと思う。 「あんたまで、お父さんのところがいいなんて、言わないでよね」  すみれは少し拗ねたような顔をして、そう言った。何だかんだ言って、珠生があっさり健介と同居して不満も言ってこないことが寂しいのだ。  千秋は苦笑した。 「何言ってんだか。大丈夫だって。お父さんなんて、私のことずっと放ったらかしで……。せいぜい我儘言って困らせてくるわよ」 「はは、そっかそっか」  すみれはちょっと安心したように笑ってみせると、スリッパをぺたぺたと言わせて姿を消した。そして「おやすみぃ」と声だけが聞こえてくる。 「おやすみー」  千秋もそう返事を返すと、また旅支度にとりかかった。  ――早く会いたいなぁ、珠生。  唇に自然と笑みが浮かび、鼻歌が漏れる。    明日の予習などすっかり忘れている千秋の頭の中は、春の京都一色である。    +  +  金曜日。  明日から連休ということで、学校の雰囲気もどこか浮き足立っているように感じられた。  ホームルームでは、連休だからといって気を抜かずに学習するようにと釘を刺されたが、もはや誰も聞いてはいなかった。  正也はいそいそと帰り支度をして、珍しくさっさと椅子から立ち上がった。 「俺、今日から埼玉帰るんだ。といっても、部活もあるし二、三日でまたこっち帰ってくるんだけどね」 「里帰りかぁ、気ぃつけて帰りや」 と、湊がのんびりと声をかける。 「おう! 珠生はかえんないの?」 「うん。俺の双子の片割れが京都に遊びに来るんだ」 「へぇ〜そうなんだ。見てみてぇなぁ」 「時間があえば会ってみる? 結構長い間こっちにいると思うから」 「おう、京都戻ったらメールする。ほんじゃ、新幹線の時間あるし、急ぐわ! じゃね」  正也は手を上げて、ダッシュで帰っていった。さすが陸上部なだけあって、その速さは教師の注意も間に合わないほどだ。  珠生も立ち上がると、鞄を肩にかける。 「部活か?」 と、湊も立ち上がりながらそう言った。 「うん。といっても、今日は俺だけかもしれないけどね。まぁ、ちょっと描いたら帰ろうかな」 「ほんなら、そのあと弓道部覗きにきぃや。な! そうし!」 「う、うん……」  湊は未だに珠生を弓道部に誘いこむことを諦めてはないのだった。珠生は苦笑して、曖昧に笑ってみせた。  弓道場に行く湊と、昇降口の前で別れると、珠生は一人で美術室へと向かった。  ばたばたと珠生とは反対方向に歩いて行く生徒が多く、今日は皆早めに帰宅するようだった。県外から来ている生徒も多いため、実家に帰省する生徒も多いのである。  職員室で鍵を借りて、珠生は廊下の突き当りの美術室へ入った。  電気を点けて、倉庫から描きかけのキャンパスとイーゼルを取り出してくると、窓際にそれを置いて椅子を持ってくる。  画材の入ったケースを開くと、ぷんと絵の具の匂いが鼻につく。その香りが、珠生の心をそわそわとさせた。  今回は水彩で色を付けており、淡い色彩が白いキャンバスに載っている。珠生は目を閉じて、イメージをふくらませる。  静かな美術室に、グラウンドやテニスコートから聞こえてくる活気のある声が微かに聞こえてくる。まるで別の世界の事のように、その音を聞く。  自分にとっての日常とは、どこのことだろうか。と、珠生は考えた。  四月に入ってからの、信じられない生活の変化を、日常といっていいのだろうか。  自分は、変わったのだろうか。千珠のように、強くなっているのだろか……。  目を閉じていると、いろいろなことが頭をめぐった。いつもは誰か美術部員がいて、そんなことを考えずに済んでいた。  しかし、一人で静かなこの空間にいると、どうしようもなくいろいろなことを考えてしまう。  舜平のことも。  あの日のことは、珠生にとってはまるで白昼夢のような体験だった。妖魔を斬り、負傷したのに舜平に抱かれることで傷が治った……なんていうこと、数カ月前の自分が聞いても信じないだろう。  しかし、舜平の熱い声は今でも耳に蘇る。彼の言葉のひとつひとつに、えらく身体が昂ったことが少し恥ずかしい。  これからもまた、そんなことが起こるのだろうか。あの人と性行為をするなんてこと……。  千珠と舜海は、自分たちは違う。  そう思ってはいる。  しかしまた、舜平に抱きしめられ、唇を重ねれば、きっと同じ事を繰り返すという確信もあった。  珠生は頭を振った。集中できない。 「……はぁ」  ため息をつき、もう今日は帰ろうか……と筆を置くと、がらりとドアが開く音がした。誰か美術部員が来たのかと思い、珠生はくるりと後ろを振り返る。 「……え?」  珠生は少しひやりとした。そこには真壁美一が、いつもの取り巻き二人をつれて立っていたのだ。  真壁は歪んだ笑みを浮かべて、一人窓際に座っている珠生を見ると、ずかずかと教室の中を進んで近寄ってくる。取り巻きの一人が、がらりとドアを締めて鍵をかけた。 「……何か用ですか」  珠生は立ち上がって、険しい顔で真壁を見た。真壁は怯えた様子の珠生を見て楽しげに笑い声を立てた。 「ああ、大事な大事な用事や。……千珠殿」

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