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七十八、千秋と正也

 大北正也は、どきどきしながら相手を待っていた。  バーベキューの時に無理に押し付けた自分のメールアドレスに、まさか彼女から連絡をくれるとは思っても見なかったからだ。  今朝、ランニング中に鳴り出した携帯電話。開いて見ると、そこには見慣れないアドレスからのメールが入っていた。  立ち止まって中身を確認すると、それはあの沖野千秋からのメールだった。 『今日暇だったら、ちょっと観光に付き合って』という短いそっけないメール。正也は早朝の大通りで、拳を突き上げて吠えた。  何時でもいいよと返信したら、すぐにまたメールが返ってきた。『じゃあ十時に京都駅で』という内容を見るや、正也はすぐに回れ右して自宅へと一直線に走って帰った。  九時四十五分の京都駅中央改札口。正也は電光掲示板の時計をチラチラと見ながら、行き交う人々の流れを眺めていた。  するとその中に、一際目を引く千秋の姿が見えた。  すらりとした長い脚をスキニージーンズに包み込み、高いヒールを履いた千秋はまるでモデルのようだ。黒い透け感のあるドルマンスリーブから覗く長い腕を揺らして、正也を探すように視線を巡らせながら歩いている。日に焼けて茶色くなった長い髪が、彼女の小さな顔の周りで揺れている。  はたと、千秋がこちらに気付いたのが分かった。  千秋は笑うでもなく無表情のままに正也の方へと歩み寄ってきた。  周りで同じように待ち合わせをしていた男女が千秋を見ている。こんな美人と待ち合わせをしている自分が、何だか偉くなったような気がした。 「おはよう」  正也は、嬉しさのあまりにこにこと笑みを浮かべて千秋にそう言った。千秋はつんとした表情のまま、頷く。 「おはよ。ごめんね、急に」 「いいよ! まさか声かけてくれるなんて思ってなかったから、嬉しかったよ」  素直に喜んでいる様子の正也を見て、とげとげしていた千秋の心が少しだけ和んだ。並んで立っていると、正也と千秋は殆ど背丈が変わらない。ヒールを履いているから尚更だ。 「どうしたの、急に?」 「……別に」 「沖野と喧嘩でもしたの?」 「……ま、そんなとこ」 「へぇ」  正也はまた笑った。千秋は不機嫌な顔を見せると、「何がおかしいのよ」と言った。 「あ、ごめんごめん。あいつさ、学校ではいつも淡々としてるけど、やっぱ兄弟とは喧嘩するんだなと思ったら、なんかおかしくて」 「……学校で……か」  取り敢えず清水寺に行きたかった千秋は、正也の案内に従ってバスのりばへと歩いた。 「珠生って、学校ではどんななの?」  歩きながらそんな問を投げかけられて、正也はそうだなぁ……と呟いて思い出すような素振りを見せた。 「いいやつだよ。いつも優しいし、宿題とか見せてくれるし」 「ふうん……」 「あんだけイケメンなのに、女子にはあんまり興味ないのかな。女子と喋ってるとこはあんま見たこと無いな」 「へぇ。……まぁあいつ、人と喋るの苦手だから。中学の時もそんなだったし」 「そうなの? もったいないなぁ、俺があんな顔だったら、絶対調子乗るけどな」  二人は混雑したバスに乗り込んで、つり革を握った。まるで通勤ラッシュのような混み合い方に、千秋は目を丸くしている。 「あの生徒会の先輩は、何で仲がいいの?」  かねてから謎だった、あの斎木彰という男のことを千秋は尋ねた。隙のない目付きは狐のようで、じっと自分を観察されているように感じていた。  すらりと背が高く、見た目は普通のお洒落な高校生という風体だが、彼の身に纏う空気はとても鋭く、若者のものではないと感じたことを思い出す。 「あぁ……斎木先輩ね。俺もよく分かんないな」 「そうなの?」 「入学式の日、俺ら三人で歩いてた時に話しかけられたことあったんだ。その時は、沖野は少し先輩を怖がってるように見えたけど……」 「あんなに仲良さそうなのに?」 「うん、その時はそう見えたかな。不思議に思ったもん、なんで高校から入ったばっかの珠生が、副会長と知り合いなんだろうって」 「……ふうん」  包帯を巻き、血まみれのシャツを身に着けていた斎木彰の顔が思い出される。病室で見たときの彼の顔は、とても険しくいつも以上に隙がなかった。  珠生を庇うような発言と、全てを知り尽くしているかのような口調は、とても一つ年上の少年とは思えない。  珠生もあの人のことは、とても頼りにしているように見えた。 「最近はどっちかっていうと、斎木先輩が沖野について回ってるような感じに見えるけどね。なんか、ペットみたいに」 「そうなの?」 「うん。何だろうな、年上の友達多いよな、あいつ。バーベキューの時にも思ったけど、あの大学生の二人とかもさ」  舜平の顔がちらついて、千秋はどきりとした。気持ちよく笑う舜平の顔と、病室で横たわっていた舜平の姿が重なる。 「柏木も斎木先輩も、あの舜平って人のことは呼び捨てにして仲良さそうだしさ。沖野は沖野で、なんかすげぇ頼ってるって感じだったし。どういう知り合いなんだろうな。ちゃんと聞いたことなかったけど」 「……あんたは知り合いじゃなかったの?」 「俺? うん、俺はあの時始めて会っただけ。京大の人だろ、頭いいんだろうな」 「……うん」  千秋は曖昧に返事をして、ぼんやりとバスに揺られながら流れる景色を眺めた。 「あんまり学校の話とか、しないの?」 と、正也はおとなしくなった千秋にそう尋ねた。 「あ……うん。そういえば。いつもあたしが一方的に喋ってるような感じだな」 「そっか。沖野、聞き上手だもんな」  正也はにっこりと笑ってそう言った。  バスは清水坂の下に到着した。肩幅の広い正也の後について、千秋は人ごみをかき分けてバスを降りる。乗降口の段差で軽くよろけた千秋の手を、正也は咄嗟に掴んで支えた。  千秋ははっとする。思えば、男性と二人で出かけるなど、初めての体験だった。 「人多いからね、気をつけて」 と、正也は少し赤面してそう言った。もっとも、日に焼けた顔をしているのでよく分からないのだが。  千秋はさっと手を離して、「ありがとう」と小さく言った。  こういうことを、舜平としてみたかったな……と思ってしまったことを、正也に申し訳なく思う。  それでも正也は楽しげで、清水坂を指さして上へ登ろうと誘っている。  千秋は正也について行きながら、なるべく珠生や舜平のことを考えないようにと努めた。

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