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七十七、露見

 千秋は見てしまった。  夜中にベランダに出ていく珠生の姿を。  それだけならいい、珠生はこの三階のベランダから迷うことなく飛び降りたのだ。  何となく眠れず、暗いキッチンで水を飲もうとしていた千秋は、思わず手にしていたペットボトルを取り落とした。  慌てて窓に駆け寄って、ベランダに裸足で飛び出して下を見たが、珠生の姿はなかった。 「……なんで?」  混乱する頭のまま、千秋はあちこちを見回したが、珠生の姿もなければ人の気配もない。  見間違い?  いや、違う。  珠生は何かを隠している。絶対に。何か、とんでもなく大きな事を。  疑惑が確信に変わっていく。珠生の纏う空気の違いも、ちょっとずつ見せる表情の変化も、それならば説明がつく。    珠生はあんなふうに、鋭い目をする子じゃなかった。  感情に任せて、声を荒げるような子でもなかった。  他人に、あんなふうに積極的に触れようとする子でもなかった。  ……少なくとも、自分の知っている珠生は。    それから千秋は、暗いリビングのソファの上で、ずっと珠生を待っていた。今、問いたださなければ、はぐらかされてしまうに違いない。帰ってくる所を押さえるのだ。  まるで張り込み中の刑事のような思いで、千秋はずっと暗い窓の外を見つめていた。  しかし、うとうととしていたらしい。かすかな物音にはっとして頭を起こすと、ベランダに人影が見えた。  どうやって登ったのか、珠生が手すりを超えてベランダに降り立つ姿がぼんやりと見える。千秋は立ち上がって、珠生の部屋のドアに耳を当てた。窓を開け閉めする音や、衣擦れの音が聞こえてくる。  何の前触れもなくドアを開けると、暗い部屋の中できょとんとして千秋を見返す珠生がいた。  その表情が、みるみる強張る。千秋は自分の考えが当たっているということを確信する。 「珠生」 「なんだよ……急に入ってきて」 「あんた、どこ行ってたの?」 「えっ?」 「あんた……あたしに何を隠しているの? ねぇ、一体どうしたっていうのよ」  千秋は珠生に近寄ると、珠生のシャツをぐっと掴んだ。そうしてみると、ほんの少し、珠生のほうが背が伸びていることに気づく。  ――中学校を卒業するまでは、ほとんど同じ身長だったのに……。  そんなかすかな変化でさえ、今の千秋には少し悲しく感じられた。  珠生ははっとして、ドアを閉めた。ドアを背に振り返った珠生は、「父さんが起きる」と小声で言った。 「ここ、三階だよ。どうやって帰ってきたの?」 「それは……配管を伝って……」 「飛び降りたよね? それは? どうやったの?」 「……そこから見られてたのか」  珠生は自分に腹を立てるかのように眉を寄せると、疲れたようにベッドに座り込んだ。千秋はそんな珠生の前に膝をついて、珠生の腕を強く掴んだ。 「ねぇ、あんたどうしたの? 何が起こってるの?」 「……話した所で、信じてもらえるような話じゃないよ」 「え……?」 「自分だって、まだ信じられない部分が多いんだ」 「話してみてよ。あたし、知りたい。じゃなきゃ、こんな一ヶ月やそこらで、珠生がこんなに変わっちゃったこと、受け入れられないよ」 「……」  珠生はじっと黙って床を見下ろしている。自分を見ようとしない珠生の態度が、千秋をいらだたせた。  ふう、とため息をつく珠生は、自分と同じ遺伝子を持っているとは思えないほどに、大人びて見える。 「ごめん……ちょっと、整理してから話したい」 「今は無理ってこと?」 「ごめん……ちょっと、今は疲れてるんだ」  珠生は取り繕うように笑うと、千秋を見た。  千秋はどきりとした。眼の前にいるのは珠生なのに、まるで知らない少年が目の前に座っているように見えた。  ――そういえば、最初にここに来た時も、珠生の顔が違う人間の顔に見えた……。 「……あんた、本当に珠生なの?」 「何言ってんだよ」  珠生はぎくりとして、不安げな千秋の目を見つめた。彼女の目は、じっと探るように珠生の目を見据えて離さない。 「珠生を、どこへやったの?」 「千秋……?」  珠生は千秋の肩に触れようと手を伸ばしたが、千秋はそれを激しく払いのけて立ち上がった。微かに、千秋の目の奥に怯えの色が見え、珠生はショックを受ける。 「あたしは、あんたなんか知らない……誰なの?」 「千秋、俺……珠生だよ。俺は俺だよ」 「嘘! あたしの目が誤魔化せると思ってるの?」 「……」  珠生は呆然として、片割れの姿を見つめていた。バシッと鋭い音がして、千秋の平手が珠生の頬に赤いあざをつける。  互いに、これが夢ならどんなにいいかと思っていた。 「返してよ! 珠生を返して!」 「落ち着けよ、俺は珠生だって言ってんだろ」 「違うよ! あんたは珠生じゃない!」 「いい加減にしろよ! 今までの俺が本当の俺だっただなんて決めつけるなよ!! 千秋に何が分かるんだ!」  取り乱して喚き出す千秋に、珠生も思わず声を荒げた。千秋はハッとして、驚愕の表情で珠生を見返す。 「俺だって……、分からないよ。何が本当かなんて、分からないんだよ」 「……珠生」  珠生は軽くめまいを覚えて、どさっとベッドに座り込むと、額を押さえて俯く。 「やめてくれよ……もう」 「……何でそんな、悲しい顔してるのよ。泣きたいのはこっちだよ」  千秋の目から涙が流れだす。ぐいっとそれを手で拭うと、千秋は部屋を出ていった。  ばたん、と響くドアの音が珠生の心を重くする。  ――自分の半身が、遠くへ行ってしまった。  互いにそう感じていたが、今の二人には、歩み寄る方法など分からなかった。  珠生はベッドに横になり、腕で目を覆った。  この時ほど、平穏に暮らしていた時の自分に戻りたいと思ったことはなかった。

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