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八十二、猿之助、再び

 影龍はひらりと剣をかわすと、そこから距離をとって地面に着地した。  吹きこむ風に、霧が晴れていく。その霧の中をゆっくりと進んでくる影は、珠生だった。  ぎらぎらと燃えるような怒りの色を見せて、珠生はじっと影龍を見据えて歩いてくる。   珠生の周りに、ぶわりと妖気の風が吹き上がった。  珠生は舜平の隣を過ぎ、アスファルトに突き立っていた宝刀を引き抜くと、ぴたりと鋒を影龍に向けた。 「俺の片割れを、返してもらおうか」  抑えた声で、珠生はそう言った。あまりに圧倒的な差のある珠生の妖力に、影龍の脚がじりりと後退する。  珠生がゆっくりと瞬きをすると、その目が真っ赤に染まり瞳孔が縦に裂けた。  舜平もたじろぐほどに、珠生の妖力が燃え上がる。 「聞こえないのか。返せと言ってるんだ」 「……見事な力。千珠殿、素晴らしい」  千秋の姿をした影龍は、冷や汗を流しながらも笑みを浮かべてそう言った。珠生の目がさらに鋭くなる。 「お前の魂、焼き尽くしてやろう」  珠生は宝刀を地面に突き立てると、目を閉じて柄を握りしめた。珠生の周りを渦巻いていた妖気が、宝刀に集中するのが見て取れる。 「……爆ぜろ」  珠生が目を開いてそう呟くと、宝刀が、まばゆい閃光を放った。思わず目を覆わなくてはならないほどに強い光だ。影龍は動くことが出来ずに、ただただ、その光に呑まれることしか出来ないでいた。  しかし次の瞬間、影龍は自分の身が誰かによってすくい上げられ、防壁結界によってその身が守られるのを感じた。はっとして、自分の体を抱える者の姿を見上げる。 「……影龍さま、ご無事ですか」  男性看護師の格好をした弓之進が、千秋の身体を抱えて守ったのだ。  光が消える前に、弓之進は更に後退して民家の屋根の上にひらりと飛び上がる。 「何だ、そこにいたのか?」  珠生の冷ややかな声が、弓之進のすぐ背後で聞こえた。弾かれたように振り返ると、目の前に珠生が立っていた。 「ひっ……!」  弓之進が震え上がると、珠生はすっと手を伸ばして、憑坐となっている看護師の首を掴んだ。自分よりも上背のあるがっしりとした看護師の首を、珠生はみしみしと片手で締めあげた。 「あっ……く!」 「珠生! あかん、それは人間やぞ!」  舜平の声に、珠生ははっとして手を離す。膝をついてげほげほと咳き込む看護師を見下ろして、珠生はぴたりと鋒を向けた。 「返せ。それは俺の片割れだ」 「……」  弓之進と、その背に庇われた影龍は、険しい表情で珠生を見あげている。珠生はどこまでも冷徹な目で、二人を見下ろしていた。  その時、珠生の足元に鋭く突き刺さる光の矢が襲いかかった。珠生はひらりと身をかわして、術者を探して視線を巡らせる。  珠生の見上げた先には、梨香子がいた。病院の屋上の柵の上に立ち、短いスカートをはためかせている。 「梨香子……!」  その姿を見た舜平が、硬い声でそう呟いた。  「全く……何度も何度も、私の手を煩わせよって」  梨香子はにやりと笑い、珠生と舜平を見比べた。 「影龍、弓之進、さっさと行け。結界は破れているのだ。もう霧が晴れてしまう」 「はっ……!」 「待て!」  珠生が去って行く二人を覆うと手を伸ばすと、その手に細い光の糸のようなものが絡みついた。ピンと張った糸が、珠生の皮膚に食い込む。 「あまり動かれると、手足がちぎれますぞ、千珠殿」 「猿之助……!!」  憎々しげに歯を食いしばり、自分を見上げる珠生を、猿之助は涼しい笑みで見下ろしていた。 「火焔大鳳(かえんたいほう)! 急急如律令!」  舜平のはなった術が、足元から猿之助に襲いかかる。猿之助は尚も笑みを浮かべたまま、まるで蝋燭の火でも仰ぎ消すかのように手を払う。するとそこに玉虫色の結界の壁が生まれた。  あっさりと術を阻まれた舜平は、悔しげに猿之助を見上げる。 「お前ごときの技が、この私に通じるとでも思ったか! 急拵えのお前の力など、私には届かぬわ!」 「……くそっ!」 「猿之助……返せ……千秋を、返せぇええ!!」  珠生の張り上げた声とともに、猿之助の術がじゅうっと溶けて消えた。猿之助ははっとして、珠生を見下ろす。 「千珠さま! 動くな!」  鋭く響く藤原の声に、屋上へと跳び上がりかけた珠生の脚が止まる。 「陰陽閻矢百万遍(おんみょうえんしひゃくまんべん)! 急急如律令!!」  数百、数千の破魔矢が、地上から猿之助を狙って放たれる。猿之助は舌打ちをして、素早くその矢を避けた。身を翻した拍子に、猿之助は体勢を崩してよろめいた。  すぐさま藤原は印を結んで叫ぶ。 「黒城牢!!」 「そんなものが……この私に通じるか! 業平ァ!」  梨香子の顔が一段と禍々しく歪んだ笑みを浮かべた。藤原の放った技を、空中で印を結んで弾き返した。  藤原は咄嗟に印をといて術を消し、町が破壊されないように結界で防ぐ。黒い檻を成していたものが霧散して消え、黒い煙だけが風に掻き消された。  徐々に薄まっていく紫色の霧とともに、梨香子の姿もかき消えていく。 「この人間たちの生命を助けたくば、明日、丑の刻、京都御苑へ来い。草薙の剣を持ってな……」  霞んでゆく梨香子の姿を、舜平はただ見ていることしか出来なかった。頭に直接届く声が、三人の脳を刺激する。  珠生は藤原の隣に降り立つと、宝刀を身体の中に収めた。  徐々に消えていく霧とともに、町中の喧騒が蘇る。今回は何も破壊せずに済んでいた。 「業平様、千秋が……」 「ああ、分かってる。明日必ず、取り戻す」  藤原はじっと猿之助の消えた空を見上げながら、強い口調でそう言った。 「明日、猿之助を排除した後、術式を行う。猿之助があちこちの鬼門を破壊して妖を喰っているせいで、今京都はとても危うい状態なのだ」 「妖を、喰ってる……?」  珠生はぎょっとして、その言葉を繰り返した。藤原は頷いた。 「最近、あちこちで妙な事件が続いてね、私もずっとその調査で忙しかったのだが……。猿之助のあの強さも、そのせいだ」 「そんな……あの女の人の体は?」 「彼女はおそらく、大丈夫だろうが……早く取り返さねば危険だ。もちろん、千秋さんの身体も」 「……はい」  重たそうに身体を引きずって、舜平が二人に合流した。 「大丈夫かい? 病室に戻ろう、そこで話をしたい」 「はい……。よかった、藤原さんが来てくれて」 と、舜平が言う。 「湊くんに呼ばれたんだ。葉山は連絡がつかないものだから、置いてきた」  藤原は微笑んで、病院の方から駆けてくる湊を見た。 「さて……湊くん、佐為も呼んでくれたまえ」 「もう、呼んであります」 「そうか。ありがとう」  珠生は千秋の消えた空を見上げた。  ――まさかこんなことになるなんて……。  ゴメンな千秋。巻き込むつもりなんかなかったのに。  すぐ、取り戻すから。  

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