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八十三、十六夜の夢

   千珠は、空を仰いだ。  真夏の夕暮れの涼やかな風が、千珠の頬を撫でる。  千珠の足元には、特殊な墨で描かれた複雑な陣が描かれている。それは、千珠の足元に始まり、同心円状にどこまでも書き連ねられた巨大な陣だ。  この国の中心にある鬼門を封じる、封印結界術・十六夜。  はるか神代の昔からこの国を、都を守ってきた、巨大な術。  この十数年、いつになくこの国の霊威は下がり、奇妙な霊的事件が多く続いた。  雷燕の反乱に始まり、陰陽師衆の動乱の中で起きた、陀羅尼と夜顔の召喚。そして、厳島では誇り高い海神が人の手に下った――。  かねてから都を中心にこの国を守ってきた結界はあちこちで綻びが生じ、小さな妖の事件も相次いでいた。  千珠はずっと、その中心で人を守り、災を退けてきた。  戦で殺した多くの命を贖うがごとく、その力を振るってきた。  そして今も。 「悪いね、千珠。また君の力を頼ってしまう結果になって」  千珠の周りを囲んだ円陣の上に座る陰陽師が三人。その内の一人が千珠に声をかけた。  一ノ瀬佐為だ。  千珠は佐為を見下ろして、微笑む。 「なに、もう慣れた」 「だいぶと君の力を持っていくことになるけど、本当にいいのかい?」 「……ああ、構わない。どうせもう、使うあてのない力だから」  雷燕の事件から五年の月日が経ち、千珠は二十五になっていた。  ぐっと大人びて、ようやく男らしい雰囲気を漂わせるようになった千珠を、佐為は笑みを浮かべて見あげた。 「千珠さま、都へついて早々、申し訳ありませぬ」 と、業平が苦笑しながらそう言った。  これから巨大な術を行うとは思えない、砕けた口調と寛いだ空気を漂わせた業平は、いつものように余裕たっぷりだった。 「やっていただくことは、さっきご説明した通り。この草薙に、あなたの妖気を送り込んでいただきたい。それが、この十六夜の鍵になる」  業平は、自分の前に置いていた繻子の布地に包まれたものを、立ち上がって千珠に手渡した。  するりと布がほどけて、海神を退けた時に千珠が使用した神剣、草薙の剣が現れる。 「……懐かしいな」  千珠はすっと太い柄を握りしめ、目の前にかざした。青銅で作られた太い直刃の剣であり、刀身には梵字がずらりと刻みつけられている。草薙の剣は、千珠の妖気を感じてか、嬉しそうにぼんやりと輝いた。 「この陣の中心にその剣を突き立てて、術式に妖力を流し込んでいただきたい」 「ええ、分かっています。存分に、使ってください」  千珠は不敵に微笑むと、顔にかかる絹糸のような銀髪を手で押さえた。  千珠の身に着けている白い装束は、赤い糸で縫い取りの施された純白の狩衣と、赤い袴。本来これは人柱の着る衣である。  千珠の強大な妖力を柱に、結界術を成す。そうしなければ、この綻びの生まれた世界に、結界術を新たにかけ直すことは難しいのである。それほどまでに、この国の霊威は落ち、禍々しい世界と人境は近い場所にあった。 「次に”歪”が起こるのは、五百年後と考えられています」  そう言ったのは、次期陰陽師衆棟梁の、芦原風春だった。まだ年若い風春は、この大技に取り組むにあたり、随分緊張しているらしい。その中にいる誰よりも硬い顔だ。 「それまでもてばいいのですが……」 「風春様がそんなこと言っててどうするんですか。あなたは雷燕をちゃんと眠りにつかせたんだ、今回も大丈夫だよ」 と、佐為はいつものように飄々とした口調でそう言った。風春はいつもと変わらない調子の佐為を見て、苦笑する。 「ほんと、若いのに佐為はいつも逞しいな」 「もう若いとも言っていられませんよ」 と、二十七になった佐為は肩をすくめるが、容姿はほとんど昔と変わらない。 「ほら、もう無駄口はいいだろう。皆が揃った」  業平の言葉に、千珠は辺りを見回した。  何重にも描かれた円陣の上に、ずらりと陰陽師の黒装束に身を包んだ男女が座っている。ざっと数えて二十名、皆が決意に満ちた表情で、凛としていた。  佐為の後ろには、舜海、詠子の姿もある。  見知った顔が側にたくさん並んでいることが、千珠の心を奮い立たせる。 「ほんまやで、いつまで待たせんねん」 と、舜海が後ろから佐為にぼやく。佐為は首だけで振り返ると、ちらりと舜海を見た。 「あ、君も来てたの? 全く気がつかなかったよ」 「はぁ? わざわざ青葉から呼びつけておいて何やその態度は」 「舜海、よせ」  千珠にたしなめられ、舜海はぐっと黙った。佐為は面白そうにくくっと笑うと、千珠を見上げた。 「いいね、その冷ややかな言い方」 「佐為、興奮するのはいいが、そろそろ術をはじめるよ」 と、業平が冷静にそう言った。 「……興奮なんてしてませんよ。いきましょう」  佐為はさも楽しげに笑みを浮かべると、さっと印を結んだ。佐為の動きに、円陣上に並んだ全ての陰陽師が倣う。 「千珠、やってくれ」  佐為の言葉に、千珠はすっと息を吸った。ふつふつと、身体の中から妖気が高まり、千珠の足元からふわりと風が生まれる。  この国を守る術。  ここにいる、陰陽師衆の者たち。  都に住まう、皆の家族。  青葉国の民、光政、柊、山吹、朝飛、宇月。大切な家族たち。  そして、大切な宇月の中に宿った、新しい命。  これは、愛おしい人々を、護る術――。  千珠はざっと陣の中心に草薙を突き立てて、あらん限りの妖力を草薙に与えた。  剣は嬉しそうに千珠の妖気をいくらでも吸い上げて、陣の端々へと送り込んだ。地上に描かれた円陣が、みるみる薄緑色の光を放ち始める。  陰陽師衆の詠唱が高らかに響き、光はいよいよ強く、眩く辺りを照らしだす。  千珠を中心にいっそう風も強く吹き乱れ、黒い装束の袖をはためかせる。  銀色の長い髪が空へと逆巻き、千珠の純白の衣をばたばたと翻した。  千珠は再び、目を開いて空を仰いだ。  一番星の輝く群青色の空に、くっきりと薄緑色の光で五芒星が浮かび上がっている。  佐為の静かな詠唱が、千珠の耳に心地よく流れこんでくる。  より一層強く草薙に身体を引きつけられるような感覚に耐えながら、千珠はただ、今までの自分のきた道のことを思い巡らせていた。  人の世に迷い込んだあの日から、ここまでのことを。  流れた血の色、この手で切り裂いた数多の命、流した涙の数、初めて人のぬくもりを知った時のこと、初めて人を愛した時のことを。  陰陽師衆の詠唱と重なって、佐為の言葉はまるで美しい歌のように聞こえた。  空を仰いだ千珠の瞳から、自然と涙が溢れてくる。  ――これが……神の力か  自分の気を流しこむのと同じように、都を守る四神の力が満ちてくる。千珠の身に染み渡るように、伝わってくる。    ――心地いい……なんて、美しい気だ  瞼を閉じると、あふれだす涙が頬を通じて流れた。 「四神相応、結界術・十六夜!! 急急如律令!!」  佐為の目が開く。その目の色は、金色に見えた。  空に浮かび上がった五芒星がみるみる夜空を覆い尽くすように広がり、まるで巨大な屋根のようにその宇宙を包み込んだ。  きらきらと星空が地上に降り注ぐように、薄緑色の光が地上を眩く照らす。  千珠はただただ、それを見上げて涙を流していた。その身体には、もうほとんど妖力は残されていない。空っぽの身体に、神気と美しい術の景色だけが吸い込まれていく。  徐々に元の群青色の空に戻っていく。  光が薄れ、陰陽師衆の詠唱が消えた。  最後まで残った光は、千珠の身体をきらきらと覆いながらゆっくりと草薙に吸い込まれていく。     その光が全て消えた頃、佐為はゆっくりと印を解いた。  がっくりと、千珠はその場に膝をついた。膨大な量の妖気を結界術に使ったため、立っていることも出来なかった。  それでもその心は清々しかった。神気に身を洗われたかのような気持ちだった。 「……千珠、大丈夫か」  ふらふらと歩み寄ってきた舜海が、気遣わしげに千珠の肩に触れた。千珠は重たい瞼を必死で上げて、舜海を見上げる。 「……ああ、大丈夫だ」 「消え入りそうな妖気で、よう言うわ」 と、舜海は笑った。 「千珠、ありがとう」  佐為も千珠の横に座りこんで、いつになく清々しく笑った。 「君のおかげだ。これでこの国は守られる」 「そっか、良かった」  千珠は草薙を手放して、その場に座り込んだ。歩み寄ってきた業平が、草薙を拾い上げる。 「……あとはこの鍵を、また五百年後に伝えて行かなければなりません」 「気の長い話だな」 と、千珠はため息混じりにそう言った。業平は苦笑する。 「そうですね。何度転生すれば、追いつくことか」 「千珠、君の魂がこの草薙とともに転生できるようにするよ」  佐為はあぐらをかいて、千珠の横顔を見ながらそう言った。千珠は驚いて佐為を見る。 「そんなことできるのか?」 「うん、できるとも。……こき使って申し訳ないね」 「はは、本当に世話のやける」  申し訳なさそうな佐為の口調に、千珠は吹き出した。 「僕らも行くから、寂しくないよ」 と、佐為は糸目を細めてにっこり笑った。 「腐れ縁にも程があるやろ」 と、舜海は両手を後ろについて空を見上げる。 「これが、我々に課せられた使命なのでね」 と、業平はいつものように爽やかな笑みを浮かべてそう言った。   千珠は目を閉じて、微笑んだ。  すっかり暮れた夜の風が、静かに皆の間を吹き抜けていく。心地よい風、守られた空気だった。  千珠はため息をついて、空を見上げた。自然と笑みが溢れる。 「まぁ、腐れ縁というのも、悪くはないさ」   ・・・・・・・    ――あの夢は……十六夜結界を張った時のものだったのか。  藤原から改めて術式に関する説明を聞いて、珠生ははっとした。  舜平はベッドに再び寝かされて、駆けつけた葉山の治癒を受けている。  彰は相変わらず首にストールを巻いて、舜平の足元に軽く腰をかけて腕を組み、藤原を見つめていた。  珠生と湊はベッドサイドの椅子に腰掛けて、窓際に立つ藤原の話をじっと聞いていた。 「思い出したかな? 珠生くん」 「はい、覚えています」 「体の感覚で記憶している?」 「はい。妖気が抜け出ていった分、神気を強く感じました……。身体が、透明になるみたいだった」  珠生の言葉を聞いて、藤原は穏やかに微笑んだ。 「あの時……五百年後のことをあそこで話した。まさか本当に、ここに皆がいるなんて」  珠生は目を閉じて、その時の光景を思い出していた。胸の石を、ぎゅっと握りしめる。 「そう、ようやく実感が湧いてきたかな? 千珠さま」 「ええ、やっと」  珠生は微笑んだ。その名で呼ばれることに、全く抵抗を感じない。  彰も微かに笑みを浮かべて、そこにいる面々を見回した。すると舜平があまりすっきりした顔をしていないことに気づく。 「舜平、どうしたの?」 「……あの時は、敵はおらんかった。でも、今回は猿之助が……しかも人間に憑依してる。実体のある人の体を傷つけずに、どうやってあいつらを退けるんです?」  舜平は起き上がって藤原を見た。 「力技を一つ、使おうと思っている」 「力技?」 と、湊。 「彼らを無理やり憑坐から引き剥がす、幽体剥離という術がある。しかしこれは……しくじると千秋さんや梨香子さんの霊体をも損ないかねない」 「……」  珠生は少し、難しい顔をした。 「私がやるよ。君たちは、彼らが剥がれた瞬間にその霊体を抹消してほしい。力量的な配分をするなら、猿之助を珠生くんが。影龍を佐為が。そして、あの少年霊を葉山がやるんだ」 「俺は?」 と、舜平が身を乗り出して藤原に尋ねた。 「君は怪我が治りきっていないから、援護に回れ。それに、人質を救出後は十六夜の術が待っているのだ。あまり無駄遣いはせぬように」 「十六夜は後日では駄目なのですか?」 と、珠生が尋ねる。 「猿之助が鬼道を荒らしているせいで、もう旧結界は限界なのだ。明日やらねば、次はない」 「そうですか……」 「あーあ、俺もなんかできたらええねんけどなぁ」 と、湊がため息混じりにそう言った。皆が湊を見る。   「はは、そう言わずに。君には色々と後始末で動いてもらいたいから」 「分かりました。俺は黙って見届けますよ」 と、湊はすこしつまらなそうだ。珠生はそんな湊を見て少し笑う。 「そういうわけだ。決行は明日午前二時。皆、それまではゆっくり休むといい。長い夜になりそうだからね」  藤原は一人ひとりの顔を見て、決意のこもった口調でそう言った。皆が頷く。 「あ……今夜千秋がいないこと、父さんになんて言おうか……」  ふと、珠生がそう呟いた。 「喧嘩してんねやろ? どっか友達の家……ってわけにもいかないか」 と、湊。 「そうなんだよね……」 「じゃあ、君のお父さんには仕事場に泊まってもらおう。なに、手荒なことはしないよ」 と、藤原がにっこり笑う。 「何をするんです?」 「トラブルが起こればいいんだよね?」 と、彰が心得たりという顔をして藤原を見た。 「そう、頼んだよ。佐為」 「はい。ちょっと、仕事の邪魔をしてきますよ」  彰は寄りかかっていたベッドから立ち上がると、ひらひらと手を振って出ていった。珠生と湊は顔を見合わせる。 「佐為を送って、私達も退散するよ。君たちはどうする? もう少しここに?」  藤原はスーツの上着を羽織ると、葉山を伴って病室を出ようとした。時刻は十九時半を回っている。 「もう帰り、明日は忙しいんや。ちゃんと寝なあかん」  珠生達が何かを言う前に、舜平がそう言った。珠生が振り返ると、舜平はにっと笑ってみせる。 「俺ももう寝て、明日までに傷治さなあかんからな」 「……そうだね」 「ほな、俺らも帰ろうか」 と、湊。  珠生は湊を見上げて頷くと、舜平を見た。  舜平はすでに、ごろんと横になっていた。  +  湊は言葉少なく横を歩いている珠生を見下ろした。 「千秋ちゃん……心配やな」 「うん……。でも付け入る隙を与えたのは、俺だからさ……」 「舜平のことで、もめたんやって?」 「まぁ、そうなるのかな」 「やっぱ、おんなじ遺伝子持ってると、惹かれる人間も同じなんか?」 「ひ、惹かれてないよ! 俺は!」 「あ、そう」  むっとしたような表情で自分を見上げる珠生に、湊は少し呆れた。 「家に帰っても一人か……なんか気が滅入りそうだな」 と、珠生は言った。 「ほんなら家で御飯食べていきや。今日おかんと二人やから」 「おかん……。そっか、柊も高校生だもんね」 「そうやで。養われてる身分やから家では弱いわ」 「あはは、そっか」  珠生は眼鏡を押し上げながらそんなことを言う湊を見上げて笑う。  そして今夜は、柏木家にお邪魔することにした。  千秋を奪われたこの長い夜を、一人で過ごすことはできそうになかったからだ。  

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