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八十九、信頼の情

 午後六時、珠生は目を覚ました。  ずいぶんと深く眠っていたためか、身体がすっきりとして軽かった。  夢を見た。  まるで今までの夢を総ざらいしたかのような、断片的な夢をいくつも見たのだ。  あの頃感じていた、国を守りたいという気持ちを、現代に再燃させられるかのような夢だった。  ジーパンに足を通し、黒いTシャツを着込んでから、その上にモッズコートを羽織る。夜暗に目立たない格好がいい。  部屋を出てダイニングテーブルを見ると、健介からの書き置きと封筒に入った一万円札が置いてあった。 『今夜も遅くなるから、これで二人でおいしいものでも食べてきてください。明日の夜は、ちゃんと三人でご飯を食べようね』  珠生は微笑むと、そのメモを折りたたんでポケットに入れた。 「明日の夜、か」  今夜すべての片をつける。  父さん、千秋、待ってて。  珠生は顔を上げると、ゆっくりと瞬きをした。その目が、琥珀色にきらめく。    +      マンションを出ると、目の前に舜平の黒いSUVが停まっており、舜平が運転席のドアにもたれかかって立っている。珠生は驚かない。きっと彼はここにいると思っていたからだ。 「よう」 「……よく分かったね、俺が出てくるって」 「なんとなくな」 「ストーカーみたい」 「……アホ、そんなこと言ってる場合か」  舜平はじろりと珠生を睨んで、車に乗るように顎を動かした。珠生は少し笑みを見せてそれに従う。 「佐為はもう向こうにおるってさ。湊は御所の近くに住んでるから、色々と情報を寄越してきた」 「なんて?」 「御所の回りは厳戒態勢。近くの学校や商店は全部休みにさせられてて、人気もない。野次馬も集まらんように警察官がずらり」 「かえって目立つのにね」 「ほんまやな。まぁ、草薙が移送されるまでは、続くんちゃうか」  比叡山に安置され保護されたいた草薙の剣を、藤原が直々に取りに行っていたのだ。何も連絡がない所を見ると、すでに草薙は御所に移されたようである。 「草薙を見たのが三日前か? なんかもう、何年も経ってるような気がするわ」 「俺もです」  舜平は車を南へと走らせながら、助手席に収まっている珠生をちらりと見た。  気が落ち着いている。妖気も霊気も満ちているようだ。  少し伸びた前髪を左目の上で分けている。薄茶色の髪の毛の下にある澄んだ瞳は、とても静かだった。 「何見てるんですか」 「落ち着いてるやん」 「まぁね。夢を見て、思考が整理された感じがする」 「そっか」 「明日の晩ご飯は、親子三人でって父さんのメモにも書いてあったし」 「はは、そりゃ外せへんな」  舜平は窓枠に肘をつき、片手でハンドルを操作しながら笑った。    + +  午後八時。京都御所。  彰は、無事に移送された草薙の剣が、再び御所・紫宸殿の地下深くに隠されるのを、じっと見つめていた。  その隣には藤原修一が、黒いスーツ姿で立っている。 「国の重要文化財の地下に、こんな物作っていいんですかね」  彰は紫宸殿の床下に作られた、近代的な鉄壁の金庫を見てそう言った。人一人が寝転んでも余裕があるほどの大きな金庫だ。  藤原が地面に備え付けられたテンキーを操作すると、金属音を響かせながら金庫が地下へと戻っていく。プシュ、と音を立てて、何重にも蓋がなされていくのを見下ろして、彰は腕組みをした。 「なぁに。地下だからね。それに、重要文化財を護るために色々と現代の力を使うのは、この時代に合っているだろう」 と、藤原は楽しげに笑った。  二人は景観に溶けこむように作られた木の階段を使って床下から出てくると、紫宸殿の上に出る。白い砂利の敷き詰められた広場には、術式の陣がほとんど完成していた。  それを眺めながら、藤原は隣に立つ彰の名を呼んだ。 「佐為。お前は強い」 「はい」 「お前なら、我らの願い全てを、この現世に具現化することができると信じていた」 「……どうしたんです? 急に」 彰は怪訝な表情で藤原の方を向いた。藤原は、口元に穏やかな笑みを湛え、さらに続ける。 「十六夜を発動させるために必要な鍵、それはなんだか分かるね」 「千珠の妖気を帯びた草薙の剣、そして珠生の存在、ですよね」 「そう。しかしもうひとつ、この術を発動させるためになくてはならないものがある」 「……何です、それは」 藤原は力のこもった視線を彰のほうへ向け、力強い口調でこう言った。 「五百年前にこの術を発動させ、長きに渡ってこの国を守り続けたお前の素晴らしい力。それがもう一つの鍵だよ」  彰は、息を呑んで藤原を見つめた。藤原は笑みを返して、彰の肩に手のひらを置く。 「佐為、お前は間違うことなくこの世に蘇り、そしてまた、この国を護ることに力を尽くす。私はそう確信していた。私はいつでも、お前を一番に信頼している」 「業平様……」 「藤之助にも、感謝しなくてはな。お前をここまで育て上げてくれた。そしてお前は、陰陽師衆に欠かせない存在に……いや、この国にとって欠かせない存在となりえたのだから」 「……」  彰は唇を噛んで俯いた。ぎゅっと目を閉じて、ポケットに突っ込んだ拳を握り締める。  藤原は右手を彰の肩に回して、ぐっとその肩を掴んだ。父親が息子を励ますように、その手に無言のメッセージを込めて。  彰は顔を上げて、自分よりも少し背の低い藤原の穏やかな横顔を見た。  その目には、揺るがない光がある。  その光を信じて、ここまでこの人についてきた。  この人もまた、自分を信じて……。 「今日が正念場だ。十六夜を頼むぞ、佐為」 「はい……!」  二人は階段を降りて、陣の方へと歩き出す。  黒い狩衣の裾が、春先の風に翻る様が、垣間見えた。

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