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九十、護るべき風景

 その頃、警察官の岡本は欠伸をしていた。  一時間ほど前に、黒塗りのセダンが御所内に入っていってからは、何も起こっていない。  朝からこの場所に詰めていた岡本は疲れていた。特にすることもなく、何を聞いても教えてもらえず、この状況にも慣れてきたため、気が緩んでいるのだ。  ずっと隣で仏頂面をしていた年配の警官は、夕食を取るといって今はいない。余計に気が緩む。  背後で物音がして、岡本ははっとした。  振り返ると、昼過ぎに見たスーツの女が、烏丸通に面した蛤御門(はまぐりごもん)から外へ出てきたのだ。  長い髪を揺らして、伸びをしながら道路の方へと脚を進めてくる女を、岡本は何となく眺めていた。 「お疲れさま。すみませんね、こんな長い時間」  ふと、岡本の視線に気づいた女がそう言った。岡本は慌てて姿勢を正すと、道路の方を向く。 「いいえ、これも仕事ですので」 「なるほど、そうですね。……あ、来た来た」  女が北の方向を見るのを、岡本もつられて目をやった。黒いSUVがのろのろとこちらへ走ってくるのが見える。  女は手を振って、蛤御門から中へ入るように指示を出している。 「お疲れさまです、葉山さん。すごいね、すんなり入れた」 「ああ、珠生くんお疲れ。この車のナンバーは、前もって警備の人たちに伝えてあるからよ」 「いつの間にナンバーまでチェックしたんや……怖っ。この人ら怖っ」  助手席の窓が開いていて、そこから少年と若い男の声がした。岡本はその場に似つかわしくない若者の声が気になって、そちらを見た。  助手席からその女に笑いかけている少年の美貌に、岡本は息を飲んだ。  街灯の明かりに照らされ、少し影になっているものの、その少年の端正な顔立ちは目を引いた。  その時、ふと目を上げた少年と、岡本の視線がぶつかる。  透明な瞳を、岡本は直視することが出来ずに、慌ててまた道路の方へと体ごと方向転換する。  気付いた時には、すでに車は御苑内へと消え、女の姿もそこにはなかった。  一体、この中では何が行われようとしているのだろう。  岡本は、改めて気になり始めた。 「一体何をはじめるつもりだ……?」  +  蛤御門の側に車を停めて、葉山、珠生、舜平は御所の中を進んだ。  じゃりじゃりと、砂利道の感触が足の裏から感じられる。極力街灯を減らしている御所の中は、やや薄暗く、静かだ。  珠生は数日前、草薙の移送の時に起きた出来事を思い出す。  あれから十日と経っていないが、すでに数年前のことのように遠く感じた。  それほどまでに、あの頃の自分と今の自分の力の差は大きく、ここに立っている意味も違う。 「彰くんはもうここへ来ているわ。藤原さんと術式の確認をしているの」  砂利道を、ヒールで歩きにくそうに進みながら、葉山がそう言った。 「湊は?」 と、珠生。 「またどこからともなく現れるんちゃうか?」 と、舜平はジーンズの尻ポケットに手を突っ込んで歩きながらそう言った。 「まさか。こんな厳重な警備をくぐって来れないわよ。ちょっと連絡してみ、」  葉山が苦笑しながら携帯電話を取り出していると、欝蒼とした梅林の影から、すっと動くものが見えた。  薄暗がりの中に立っているのは、湊である。 「それがね、入れるんですよ俺は」 「……み、湊くん。一体どうやって」  葉山は、驚いて取り落とした携帯を拾いあげながらそう言った。湊は肩をすくめる。 「石薬師御門から普通に入って来ました。あっちの警備、ちょい手薄なんちゃいますか?ま、あれくらいの警備、俺にとってはなんてことないねんけど」 「……お前もつくづく不気味な奴やな」 と、舜平はげんなりした顔をしてそう言った。 「ま、いいからいいから。さ、行きましょう」  湊は眼鏡を少し上げると、三人の先に立って歩き出した。珠生は苦笑して、厚手のパーカーとジーンズという、珍しく軽装な湊の背中を見ていた。  建礼門をくぐり、四人は承明門(じょうめいもん)の前に立った。珠生は、不思議にざわめく胸をそっと押さえつつ、丹塗りの門を見上げた。  かつてここで、陀羅尼を迎え撃つ夜を迎えたことを思い出す。  あそこに立ち、見渡した都の町並みと生ぬるい風。立ち込める紫色の黒い霧。自分とは違う鬼の匂い……。 「珠生?」  先に歩きかけていた三人が振り返って珠生を見た。  珠生はぐっと身体を縮めると、地面を蹴って承明門の上へひらりと飛び乗った。  その身の軽さを見慣れてはいる三人であったが、明るい所で改めて見ると、その常軌を逸した動きに目を見張ってしまう。  珠生は承明門の上に立つと、そこから京都の町並みを眺めた。  当然ながらあの頃とは違う風景。  それでも珠生の頬を撫でるその風は、どこかしらあの頃と同じ匂いがした。 「千珠」  ふと、すぐ横で誰かの声がした。そちらを見ると、そこには黒い陰陽師衆の装束を身にまとった佐為が立っていた。  珠生は息を呑む。 「こんな所に立っている姿を見ると、あの頃を思い出すよ」  佐為は微笑んで、珠生に歩み寄ってきた。ふと、自分の足元に目を落とすと、今日履いてきたジーパンとスニーカーではなく、淡い灰色の袴と草履が見えた。  自分の手を見下ろすと、その指先には細く尖った爪と、珊瑚の数珠。  珠生は思わず、あたりを見回した。  そこには、五百年前の都の風景が広がっていた。さっきまで見えていた京都タワーの明かりや、電柱やビルなどの影は一切消え、夜闇に沈む都の街並みがそこにあるのだ。 「佐為……これは」 「これから君が護る世界の、過去と未来。千珠、君の中にある風景だ」 「……俺の、中に」 「そう、そして珠生の中に」 「……」  千珠は、佐為を見た。佐為は暗い町並みを静かな目で見渡しているが、口元は微笑んでいる。 「君を、ずっと待っていた」 「佐為……」  佐為はにっこりと微笑んで、紫宸殿の方を振り向いた。千珠も同じように振り返ると、白い砂利の敷き詰められた広場に、十六夜の術式がくっきりと描かれているのが見える。 「これは……あの時の」 「そう、十六夜の術式だ。懐かしいだろう?」  頬にかかる銀髪を左手で押さえながら、千珠はその円陣を見下ろした。複雑な文字の描かれた大きな円陣は、あの時確かに千珠の足元にあったものだ。 「君の力を、またここで披露してくれたまえ」 「……ふん、そのためにここまで来たんだ」  千珠は事も無げにそう言って、円陣を見下ろして勝気に笑った。 「その前に、片付けなきゃいけない奴らがいるけどな」 「そうだね。でも僕らは負けないさ。何も心配することはない」    佐為の声が、急激に遠ざかる。

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