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九十一、この戦いが終わったら

 珠生は、急激に襲ってくる目眩に耐えかねて、承明門の上で膝をついた。頭を押さえつつ足元を見ると、そこにはさっき見た草履ではなく、いつものスニーカーがある。 「珠生! どうしたんや、降りてこい」  下から舜平の声がする。珠生はよろりと立ち上がり、すでに門の中にいる面々を見下ろした。  そして、その背後に描かれている、十六夜の円陣に目を見張る。  どくん、と心臓が跳ねた。  懐かしい。自分の中に入った神気のことを思い出す。  自分を取り囲み、結界術を成していた陰陽師衆の頼もしい表情のことも。  すぐ背後で、自信たっぷりに詠唱していた佐為の笑顔も。  そして、舜海の力強い霊力のことも。  ふと目を上げると、紫宸殿の階段に座って笑みを浮かべ、こちらを見ている彰に気づく。今見えた佐為の姿は、彰が見せたものだったのだろうか。  ついでに、黒い法衣に身を包んだ十数人の術師たちが、驚いたように珠生を見上げていることにも気づいた。まさか他にも人がいると思わなかった珠生は、少しばつが悪くなって、すぐに門から飛び降りる。  音もなく地面に降り立った珠生を、術師達は目を丸くしてまだ見ている。珠生は恥ずかしさのあまり、少し赤くなった。 「猫かお前は。そんなに高いところが好きか」 と、舜平が呆れたようにそう言った。 「……すみません」 「身軽やなぁ、珠生。オリンピックにもでれるんちゃう?」 と、呑気に湊がそう言った。 「出るわけないじゃん」 と、珠生は唇を尖らせてそう言う。 「さ、こっちへ」  葉山にクールに促され、一行は円陣の脇を通って紫宸殿の方へと向かう。立ち働く術師たちの目線が痛い。  すると、紫宸殿の階段に座っていた彰が立ち上がった。軽い足音で階段を降りてくると、腰に手をあてて珠生たちの前に立つ。 「どうしたの珠生? ひょっとしてはしゃいでるの?」  彰はいつものように余裕たっぷりの笑みを浮かべ、珠生の目を覗きこむ。 「はしゃいでないよ。それより、さっきの……」 「うん、そうだよ。僕が見せた幻影だ。あんな所に立っている君の姿があまりにも懐かしくて、ちょっといたずらさせてもらった」 「……やっぱり。でも、すごく懐かしかった」 「そうだろう?」  二人にしかわからないやり取りをしている様子を、舜平と湊は目を見合わせて首を傾げた。  ぞろぞろと集まってくる僧たちに気づくと、彰は珠生の肩を叩いてそちらを向かせる。 「紹介しておこう。こちらにおられるのは、今夜の術式に力を貸してくださる方々だ。皆、陰陽師衆の血を継いでいる」 「へぇ」  珠生は驚いて、並んでいる術師たちを見た。  皆黒い法衣を着ているが、よく見ると髪を下ろしていない者もいたし、驚くことに若い女性の顔もある。 「あれ? 宗円さん?」  その中に、見覚えのある顔を見つけた珠生は、思わずその名を口にした。  舜平の父親、相田宗円がその中にいたのだ。宗円は照れたように笑って、ぺち、とつるりとした頭を叩く。 「やぁ、久しぶりやね。君、しばらく見ぃひん間に、ずいぶんしっかりした顔立ちになったなぁ。あの時は今にも泣きそうな顔しとったのに」 「……はぁ」 「やめんかい、アホ」 と、舜平が父親に歩み寄って頭をはたいた。ペシッと、いい音がする。 「この馬鹿息子、父親の頭を叩く奴があるかい!」  頭を押さえながら、宗円が喚く。 「この非常時にいらんこと言うからやろ。静かにしとかんかい」 「わしは珠生くんの成長ぶりを褒めただけやんか」 「それもいらんって言ってんねん」 「まぁまぁ。ま、このように舜平のお父上にも加わっていただいている。ちなみにこちらは……」  彰が手を向けた方を見ると、そこには二人の若い男女が立っていた。  黒い着物と袴に見を包んでいるため、年齢はよく分からないが、男の方は三十代前半、女の方は二十代前半といったところだろうか。  二人は珠生や舜平、湊を見て微笑み、軽く会釈した。 「どうも、初めまして。皆さんは、現代にまで語り継がれる物語のような存在です。まさかこうしてお目にかかれるとは……本当に光栄です」 と、男のほうが手を差し伸べ、面々と握手を交わした。 「僕は、藤原徳人(のりひと)といいます。普段は普通の会社員をやっています」 「藤原さんのご兄弟ですか?」 と、湊が尋ねた。 「ええ、修一は兄です。そして、こちらは……」  徳人がもう一人の女性の方を見た。女も微笑んで一礼する。  黒い装束を着ていても、その女は華やかで目立っていた。白い肌にピンク色のチーク、ピンク色の唇をして、明るい茶色の髪をひとつくくりにしていた。 「葉山美波です。あっちにいる葉山の妹です」 「えっ、葉山さんの、妹?」  珠生は驚いて葉山を見た。 「何で私の時は驚くわけ?」 と、何故か喧嘩腰の葉山に睨まれる。 「へぇ〜似てへんな」 と、湊もそんなことを言う。 「五月蝿いわよ、あんたたち」  ぴしりと葉山に釘を刺され、二人は口をつぐんだ。  彰は尚もにこにこしたまま、「まぁなんにせよ、ここにいる皆はあの頃僕らと術式を行った者たちの血が流れる人たちばかり。今夜も頼んだよ、皆」 「はい」  彰の気軽な声掛けに、皆が改まった声で返事をする。彰よりずっと年上の者も多いのに、皆が彰を崇めているように見えた。 「……やっぱり只者じゃないな、あの人」  珠生の耳元で湊がそう囁いた。珠生も同感して頷く。  彰が葉山に近寄って、何か話をしている様子を見ながら、二人は目を見合わせた。  「もう二十二時や。藤原さんは?」  舜平はあたりを見回して誰にともなくそう言った。すると、葉山の妹、美波が答える。 「修一さんなら、紫宸殿の中ですよ。することがあるって」 「そっか。ほんなら邪魔せんほうがええな……」 「君が、あの舜海様の生まれ変わり?」  美波はマスカラをばっちり塗ったまつ毛を瞬かせて、舜平を見上げた。  姉の方はきりりとして、いかにも隙のない女だが、妹の方はえらく好奇心旺盛な目付きをしているもんやなと、舜平は少し驚く。 「へぇ……想像通り。かっこいいじゃん。背も高いし、めっちゃタイプ」 「あ、そら、どうも……」 「てかさ、皆かっこいいよね。珠生くんなんて、ほんと、理想を裏切らない美少年だし」 「はぁ。そうですね」 「佐為様も、夢見た通りだもんなぁ。うっとりしちゃう」 「あ、はい……」  美波はきらきらした目で、彰を見ている。あんな不気味な男のどこがいいのかと、舜平は疑問を感じずにはいられなかった。 「ねぇ、舜平くんは彼女いるの?」 「えっ?」  最近、こう聞かれることが増えてきたな……と思いつつ、梨香子の顔がちらつく。  今夜、対峙しなければならない元恋人の顔だ。  舜平の表情が硬くなる。 「……彼女はいいひんけど……元カノが今夜ここへ来ますよ」 「え?」 「元カノの身体、猿之助に取られてるから」 「そうなの?」  今まで好奇心に目を輝かせていた美波の目が、急に鋭くなる。そうしていると、姉の葉山とそっくりだと思った。 「そんなやりにくい相手と、やれるの?」 「やれるやれへんじゃなくて、やるしかないじゃないですか」 「そう。……零時ちょうどにね、私達は京都御苑周辺に防御結界を張るの。これは、外にいる人に、何も気付かれないようにするためのもの。そんなに力のいるものじゃないわ。そして、この紫宸殿周辺、御所の周りには絶対防御結界を張る。これは、佐々木衆を近づけないためのもの」 「はい……」  見るからに現代風な、しかも少し軽そうな女が、耳慣れた結界術の名称をぺらぺらと連ねている様子が珍妙で、舜平はぽかんとしながらその話を聞いていた。  美波は力強くそう言ったあと、また急に現代人の顔に戻って笑った。 「安心して、術式は必ず守るから。その元カノさんとやらの身体、ちゃんと取り返して」 「はぁ……」 「で、終わったら、デートしない?」 「は?」 「元カノなんでしょ?じゃあいいよね?」 「いや、でも……」 「いいじゃない、一回くらい。ね、楽しみ! じゃあね」  美波はピンク色の唇で楽しげにそう言って、さっさと持ち場へと戻っていった。舜平は呆気にとられたまま、揺れる茶色いポニーテールを見送る。 「ほんまに葉山さんの妹か……?」  舜平はそう呟いて、紫宸殿の方へと向き直った。そして、はたと足を止める。  すぐそばで、珠生と湊が二人のやり取りと見ていたらしい。二人とも腕組みをして、じっと舜平を観察していた。 「……な、何見てんねん」 「積極的な女や……。舜平って、断れへん性格なんやなぁ」 と、湊が眼鏡を指で押し上げる。 「本当だね。だから色々と面倒事に巻き込まれるわけだ」 と、珠生も自らの顎に触れながらそう言った。 「ありゃ、断りきれずほんまにデートするで」 と、湊。 「するだろうなぁ……。別に断る理由もないもんね。美波さん、ちょっと梨香子さんに似てるし、ああいう可愛い感じの女性が好みなんだろうな」 と、珠生。 「お前ら、何言って……」 「ええやないか、モテるうちに遊んどけ、舜平。父さんも若い頃は、そりゃあたくさんの女を泣かせてきたもんや」  不意に現れた宗円が、珠生の横に立ってそんなことを言った。ビシッ、と舜平のこめかみに青筋が浮かぶ。 「可愛い子じゃないか。羨ましいなぁ」 と、宗円が鼻の下を伸ばしてそう言うと、舜平はずかずかと父親に歩み寄り、その襟首を掴みあげた。 「おいこら黙れハゲ」 「言うに事欠いてまたそれか。他に言い様がないのか、この馬鹿息子は」 「だから、この非常時に要らんこと言うなって言ってんねん、このハゲオヤジが」 「はぁ? この非常時に女の子とデートの約束取り付けてるお前に言われとうないわ、エロガキめ」 と、宗円は胸ぐらを掴まれながらも、口を尖らせてそう言った。 「取り付けてへんわ! 向こうが勝手に……」  背後で珠生と湊がこっちを見ていることに気づき、舜平はまた青筋を浮かべた。 「お前らも、いつまで見てんねんコラ」 「あ、怒った」 と、珠生。 「やれやれ、血の気が多いな」 と、湊は冷ややかにそう言うと、珠生を促して紫宸殿の階段を登っていく。 「何がしたいねんお前らはっ!」  ぎゃあぎゃあと騒いでいる舜平達を見て、彰はくくっと楽しげに笑った。横に立つ葉山は、妹の行動と合わせて呆れ顔だった。 「全く、騒がしいね。叱ってやらなきゃ」 と、彰は目尻に小さく浮かんだ涙を拭いながらそう言った。 「楽しそうですね、彰くん」 「まぁね。負ける気がしないよ」 「そうですか」 「僕らも、終わったらデートしようか」 「は?」  彰は少し身を屈めて、渋い顔をしている葉山の顔を覗き込む。 「ねぇ、一回くらいデートしようよ」 「……あのね、今美波が言った台詞、そのまんまなんですけど」 「あはは、ばれた?」  彰はまた楽しげに笑って、葉山から身を離した。葉山は仏頂面で、彰を見上げる。 「ふざけないで下さい。デートなんてしません」 「でも僕と結婚するんだよ」 「それを承諾した覚えもありません」  彰はそれを聞いて、また笑った。いつもよりテンションが高いな……と葉山は冷静に彰を見る。大きな仕事の前で、気が高ぶっているのが伝わってくる。 「じゃあ今回、誰も死なず、怪我もしなかったら、僕とデートしてくれる?」 「死なず……だなんて」  いつもの笑みを浮かべ、さらりとそんなことを言う彰を、葉山は少し驚いて見上げた。笑ってはいるが、彰の目は真面目だった。  佐々木猿之助の力については、藤原修一から聞いている。油断ならない相手だとも知っている。  彰が楽しげにしているのは、自信があるからではない、誰かが傷ついてしまうのではないかと恐れて気を張っているだけなのだと、直感的に葉山はそう感じた。  そう思うと、眼の前にいる人智を超えた力を持つ少年のことを、少しばかり近しく感じるような気がする。 「……誰も、怪我しなかったらですよ」 「え?」 「誰も怪我しなかったら、いいって言ってるんです」 「本当? やったね」  彰は嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、本当に一回くらいはデートしてもいいかなと思えてくる。 「あ、そうだ。葉山さんは承明門から出たら駄目だからね」 「え、何でですか?」 「君は、治癒の力を持つ唯一の人間だ。舜平は出さざるをえないが、君は後方で絶対防御結界を守れ」 「誰も怪我をしないんじゃなかったんですか」  紫宸殿に入ろうとしていた彰が、首だけで振り返って葉山を見た。その目は、先ほどとは比べ物にならないほど真剣なことに驚く。 「念には念を、だよ。いいね」 「……はい」  それだけ言うと、彰は紫宸殿へと入っていった。  彰のすらりとした背中が消えるのを見て、葉山は人知れずため息をついた。

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