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九十六、懐かしき記憶

 千秋の身体を庇いながら剣を振るうのは、さすがの珠生でも辛かった。  それを逆手に取って、影龍は容赦なく珠生に刃を向けてくる。  千秋が自分を攻撃してくるなんて、悪夢のようだった。屈託なく笑う千秋の笑顔が頭の中をちらついて、斬撃を受け止めるたびつらくなる。 「ほらほらァ、千珠さま! 先ほど妖を切り裂いた時のあの動きは、どうされたのですか!」 「……くそっ!!」  珠生はひらりと後ろに後退すると、目を見開き、妖気を爆発させて影龍にぶつけた。  影龍は目を見張ったが、すぐに印を結んで防御壁を作り出す。珠生の燃えるような妖気は、その壁に切り裂かれ、手応えなく消えた。 「……ほらね、この女の気で、私の力はこんなにも増している。ははっ、素晴らしい」 「……やはり、どこまでも猿之助について行くんだな」  珠生の言葉を、影龍は小馬鹿にしたように鼻で笑う。 「ふっ、当然だ」 「……そうか、じゃあもう、何を言っても無駄なようだな」 「ふん、もともとお前の言葉など、私には届いておらんわ」 「そうか……」  その時不意に、爆発的に高まった佐為の気を感じて、珠生は振り返った。つられてそちらに目をやった影龍も、黒槍の禍々しい力に目を見張る。 「猿之助さま……!!」 「佐為、何を……」  我を失ったかのような佐為の鋭い目と、動揺し急激に加速する佐為の術に、珠生は目を見張った。いつも穏やかで、何事にも動じない佐為が、あんなにも動揺していることが信じられなかった。  あれは、吉田梨香子という生身の人間の身体なのだ。あんなものを食らっては、人間の体はひとたまりもない。  珠生は迷わず振りかぶり、宝刀をその黒槍に向かって飛ばした。  珠生の妖気を帯びて鋭く飛ぶ宝刀が、梨香子に襲いかかる寸前の黒槍に突き刺さり、薙払う。  弾かれたように珠生を見た彰の顔は、苦しげに歪んでいる。珠生はじっと、動揺に歪んだ彰の目を見つめた。 「佐為、お前らしくないじゃないか……、しっかりしろ」  珠生は微笑みを作って見せ、彰にそう言った。  彰は、ゆっくりと瞬きをして、珠生の静かな瞳を見つめ返す。 「……千珠」 「こんな奴の言葉に、惑わされるな」  珠生はすぐに影龍に向き直った。  宝刀を手放し、丸腰になった珠生を見て、影龍が勝ち誇ったように笑う。 「鉤爪も持たないあなたが、あっさり宝刀を捨てるとは。無謀な方だ」 「……どうせお前に斬りつけることも出来ないんだ。持っていても無駄だろう」 「ならば、どうしますか。このまま片割れに斬り殺されてくれますか?ふふ……」 「……千秋、ごめん」 「なっ……!」  珠生は息を吸って、一瞬にして影龍の懐に割って入った。突如目の前に現れた珠生の赤い瞳に、影龍は驚く間もなく見据えられていた。  珠生の手刀で握っていた刀を叩き落とされ、同時に両肩を強い力で掴まれる。骨をみしみしと砕きかねない珠生の握力に、影龍は顔を歪めた。  珠生は千秋の身体に足払いをかけると、砂利の上に引き倒した。地面に押し付けられ、のしかかられ、珠生の赤い瞳が眼前に迫る。 「来い!!」  珠生の呼び声に、宝刀が真っ直ぐにその手に向かって飛んでくる。影龍の上に馬乗りになった状態で刃を手にした珠生は、空いた方の手で素早く藤原から渡されていた札を、千秋の体に張り付けた。 「うぁ……あ、ぁああああ!!!」  霊魂を引き剥がされる痛みのあまり、影龍が苦しげな叫び声を上げた。珠生の耳には、千秋の声と影龍の叫びが二重奏になって聞こえてくる。ぐったりと倒れこむ千秋の身体を受け止めつつ、珠生は影龍の霊体を鋭く見据えた。 「ぁ……がぁあああ!!」  痛みのあまり叫び声を上げながら、影龍の霊体が千秋から離れた。珠生は千秋を抱きかかえたまま宝刀の切っ先を影龍に向け、鋭く刃を突き立てた。  胸を宝刀で貫かれ、影龍の動きが止まる。  虚に見開いた双眸に、珠生の赤い瞳が鮮やかな彩りを持って、映し出されている。 「その目で、しかと見るがいい! この地に眠る記憶を、陰陽師衆としての誇りを、思い出せ……!」 「……はァ……っ!!」  宝刀をを通じて、千珠の……いや、この京という地の記憶が、影龍の中に流れ込んでくる。  懐かしい風景だった。  青く晴れた空。街の中を元気に走り回る、貧しい身なりの子ども達。そんな子どもたちを暖かい目で見守りながら、家事や商売に明け暮れる充実した表情の大人たち。  きらきらと太陽を受けてきらめく賀茂川の流れ。それを縁取る美しく眩しい新緑と、平和に泳ぎまわる鴨の群れ。  懐かしき、陰陽寮土御門邸。  術の修行に明け暮れる、揃いの黒装束の人間たち。どの顔にも、誇りが満ちていた。  自分たちにしか、持ち得ない力。  自分たちにしか、成し得ない(わざ)。  都と帝を守護するため、この国を護るため、(いにしえ)から受け継いできた技の数々。  影龍の目から、涙が一筋、流れ落ちた。  珠生によって呼び起こされたかつての風景に、自分の記憶が重なった。  また年若い猿之助と藤之助、そして業平の姿。  反りが合わず、何かにつけて喧嘩をする業平と猿之助を、藤之助がいつもなだめていた。  それでも、二人の目的は同じ。都を守る、ただそれだけだ。  いくらぶつかりあったとしても、二人は良い好敵手。互いに高め合い、陰陽師衆を背負って立つ未来を背負う者……ふたりはそういう陰陽師だった。  そんな二人を目標にしていた。彼らの背中を追いかけるのが好きだった。  猿之助の強さに、憧れていた。  業平の賢さに、憧れていた。  そんな二人とともに、戦えることが誇らしかった。 「……ああ……あああ……」  影龍は目を覆う。涙が溢れて止まらなかった。  あの頃の猿之助は、ここにはいない。もう、どこにもいないのだ。  あの頃の自分の気持は、どこへ消えた。  戻りたい……。誇りを持って、前だけを向いて戦えていたあの頃に、戻りたいと心から願った。 「もう、やめてくれ……やめてくれ」  珠生は、目を閉じた。  影龍の無念さが、どっと珠生にも流れこんでくる。  宝刀を抜くと、影龍はその場にへたり込み、むせび泣いた。ぐったりした千秋をその場に横たえ、珠生は影龍の方へとゆっくり歩み寄る。 「ここで大人しくしていろ」  尚も涙を流し続ける影龍の霊魂が逃げられぬよう、珠生は宝刀を突き立てた。  霊体に宝刀を突き立てられても、影龍は声すら上げなかった。ただただ、呆然としたまま涙を流している。 「うぅ……うぅぅう…………」  そんな影龍を痛ましげに見下ろして、珠生は千秋に駆け寄った。

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