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九十七、夢の跡

「千秋……! 千秋!」  千秋を建礼門から遠ざけるため、少し離れた松林の下に連れていく。珠生は暗がりの中で、何度も千秋の名を呼んだ。頬に触れ、身体を揺すると、ぼんやりと千秋が目を開いた。 「千秋……! 良かった!!」 「た、珠生……なの?」 「うん、そうだよ……俺だよ、珠生だよ……!」  珠生はぎゅっと千秋を抱きしめた。安堵感から、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。  千秋は力なく、そんな珠生の背に触れた。 「珠生……ごめんね、ごめん……」 「何謝ってんだよ」 「あんたを信じてあげられなかったよ……。ほんとうに、ごめん……」 「いいって、そんなこともう、いいんだ」  珠生は千秋の顔を覗きこんで笑った。  力なく微笑み返す千秋の顔を見て安堵した珠生は、双子の身体をそっと松の木に持たせかけた。 「ここで休んでて、動いたら駄目だからな」 「……え?」 「すぐ終わるから、待ってて。すぐ迎えに来るから」 「……うん」  珠生はもう一度笑ってみせると、千秋から手を離して、再び建礼門の方へと駆けた。 「珠生……」  伸ばした手が、空を掴む。珠生の背中が、ぐんぐん遠ざかる。 「待って……珠生」    ――危ないよ……そっちへ行かないで。  朦朧とする意識の中でそう叫ぶ。  しかしその声は、珠生には届かなかった。  +    + 「佐為!」  珠生が駆けつけるのと同時に、舜平もその場に現れた。三方を囲まれ、猿之助が少し表情を固くする。 「もう、観念せぇ」  舜平の低く抑えた声が、猿之助に投げつけられる。  猿之助は、ふっと笑った。 「お前ら……。と言うことは、俺の無能な部下たちは、皆やられてしまったというわけか」 「無能だと? お前のために戦ったあいつらを、そんな風に言うなんて」  珠生は表情を硬くして、じりと猿之助に歩み寄る。 「千珠さま……鬼の子とは思えぬ優しいお言葉ですな」  憐れむように、猿之助は珠生を見た。珠生の表情が更に険しくなった。 「部下なんてものは、所詮捨て駒に過ぎない。結局、頼れるのは自分の力のみ」 「お前……」  珠生が、ぎゅっと拳を握りしめた。猿之助はにやりと笑う。 「とはいえ、利用できるものは利用しなくてはな。……弓之進!! やれ!!」 「爆!!」  京都御所の傍に鎮座する大宮御所の築地塀の上から、男の声が高らかに響く。  それと同時に、珠生の肩口が火を噴いて爆ぜた。 「!!」  皆が驚愕の表情を浮かべる。  珠生は声を出すこともできぬまま、がっくりとその場に崩れ落ちた。 「珠生!!」  舜平が珠生に駆け寄ろうと足を向けると、今度は珠生の太腿が火を噴いた。 「うああああああ!!!」 「珠生!!」  舜平の叫びと、彰の叫びが重なる。倒れこむ寸前、舜平が珠生を抱きとめる。 「……なんやこれ……!! 珠生!」 「くくくく……千珠さま、ついさっき、妖をたくさん斬ったのではありませぬかな?」  猿之助が楽しげに笑いつつも、口元を押さえてそれを堪えるようなふりをした。 「あの妖の血は、いわば起爆剤のようなものでしてな。返り血を浴びたところは全て、いつ弾け飛んでもおかしくありませぬぞ」 「てめぇ……」  舜平と彰から、怒りの気が燃え上がった。  猿之助はマスカラを塗った長い睫毛をゆっくりと動かして、小首を傾げる。 「ふ……この女と約束したのだ、その餓鬼を殺してやると」 「何やと……」 「お前のついたつまらん嘘で、千珠どのは満身創痍。口は災いの元とは、よく言ったものだな」 「……猿之助……!」  舜平が目の色を変える。  その時、彰の声が空高くから降り注ぐように聞こえてきた。 「陰陽五行、百花繚乱!! 急急如律令!」    天空に五芒星を描く光が生まれ、猿之助を取り囲むように光の筋が降り注いでくる。直後、ずん、ずんと重い地響きを立てて地面に突き立ったのは、薄緑色に輝く鋭い槍だ。  思わず身を庇った猿之助だったが、鋭く降り注ぐ光の槍によって、周りを檻のように取り囲まれてしまう。猿之助はっとしたように辺りを見回した。 「なんだ……この術は」 「……知らないの? これは僕の一番のお気に入りだ。美しいからね」  彰の静かな声と、砂利を踏む足音が重なる。  五芒星の檻の中に封じられた猿之助に、彰が一歩一歩近づいてゆく。  猿之助は身じろぎをやめて、じっと彰を見据えた。 「猿之助、お前は棟梁を名乗っていたが、この術を知らなかった。それがどういう意味か、わかる?」 「……何だと」 「これはね、業平様が棟梁を退かれる時に、特別に教わった術だ。数多の部下を導き、育て、揺らぐ事なき安寧をこの国に与えることのできた棟梁(もの)にのみ伝えられる、陰陽道最大の術の一つ」 「……」 「ただ都を壊すことだけに専じ続けたお前の事は、誰も認めていなかったってことさ。あれだけ焦がれ求めた陰陽師衆棟梁の座は、お前のものにはなっていなかったってこと」 「……ふん、そんなものはもういらぬわ。今からは私が、この現世を混乱に陥れるのだから」 「それは不可能だ」  彰が身体を避けると、片膝をついて詠唱を行なっていた藤原修一がゆっくりと立ち上がる姿が見えた。金色の気に包まれ、周囲の景色が歪むほどにまで高まった霊気を身にまとった、藤原の姿が。  猿之助が一歩、後ずさる。 「……猿之助」 「業平……」  藤原はどこか苦しげな表情で、猿之助を見下ろしていた。猿之助も、じっとかつての仲間を見上げている。 「……お前を、この私に二度も殺させるとは」 「……業平……! 貴様は、また……ッ」 「佐々木猿之助。お前を、粛清する」  藤原の身体から、金色の光が迸る。  思わず佐為が目を覆ったことで、五芒星の檻が形を崩し始めた。その隙を狙い、猿之助は素早く防御結界壁の印を結ぼうとした。 「最果ての地へ、()の迷える魂を誘え   殲魂剥滅(せんこんはくめつ)! 急急如律令!!」 「く……そ!!」  しかし、有無を言わさぬ力で、梨香子の身体から猿之助の霊体が引き剥がされる。先ほどの術とは比べ物にならない程の強さだ。猿之助は苦痛に顔を歪めながらも、必死で印を結ぼうと手を伸ばした。  刹那、どこからともなく放たれた破魔矢が、猿之助の上腕に突き立つ。 「……ぐぁっ……!! くそ、何だこれはァ!!」  建礼門の上に、湊が身長よりも長い弓をつがえて立っていた。矢筒から破魔矢を抜くと、もう一矢、猿之助に向けて打ち放つ。今度は胸に破魔矢を浴びた猿之助の目が、金色の光の中、怒りに燃え上がる。 「……貴様ァ……只人の分際で……おのれぇぇぇえ!!」  猿之助の霊体から、紫色の炎が吹き上がる。湊は弓を降ろし、静かな瞳で猿之助の炎を見下ろしていた。 「もう遅い。後ろ見てみぃ」 「……な、に……!」  完全に梨香子の肉体から引き剥がされた猿之助の霊体が、光の中で影龍の霊体によって羽交い締めにされている。突然両手を塞がれた猿之助は、首をひねって憎々しげに影龍を睨みながら、その霊魂を振り払おうと激しく藻掻いた。 「影龍!! 何の真似だ! 離さんか!!」 「猿之助様……もうやめましょう。我々の世界は、もうここにはないのです」 「何を……!」 「猿之助様、私が、どこまでもお供いたします。地獄へも、その先へも……」 「離せ!! 俺は……この世界を壊すのだ!!」 「もうおやめ下さい、あなたの望む世界は、そこにはありません」 「……お前!」 「雛芥子(ひなげし)様も、そこにはおられません……!」  猿之助がふと、身じろぎするのをやめた。久しぶりに聞いた姉の名に、猿之助の魂がぐらりと揺らぐ。 「全てはそこから始まったのでしょう? あなたの無念、私が共に抱えて参ります。あなたに忠誠を誓ったあの日から、そうするつもりでいたのですから」 「影龍……」  金色の光の中、梨香子の肉体がどさりと倒れた。霊体をむき出しにされた猿之助が、強張った表情で影龍を見つめている。 「う、うわああ」  広範囲に渡った藤原の術が、長壁弓之進の霊体をも憑座から引き剥がす。ふわふわと逃げ出そうとした弓之進の身体に、一本の破魔矢が突き立った。 「ああぁ!!」 「逃げんなや、幕引きまで見とけ」  建礼門の上で、湊が冷淡にそう言った。矢筒から破魔矢を抜くと、もう一矢、弓之進に向けて放つ。 「うわぁああ!」  どさり、と破魔矢を食らって、弓之進の霊体が地面に倒れ伏す。湊は皆を見下ろして、くいと眼鏡を押し上げた。 「あいつ、美味しいとこもってくなぁ……」 と、舜平が呟くのを聞き、彰は唇を吊り上げて少し笑った。  薄れていく金色の光の中、彰は背筋を伸ばして藤原の隣に立つと、素早く複雑な印を結んだ。 「……業平様、僕がやります。友を殺す苦しみを、二度も味わうことはありません」 「佐為……しかし」 「いいんです。これが僕の仕事ですから」  彰は微笑み、大きく息を吸って、声高らかに唱えた。 「陰陽五行・破魂殲光(はこんせんこう)!! 急急如律令!!」  ごぉお、と風が唸った。  木々という木々が大きく揺れ、地鳴りとともに一瞬、地面に敷き詰められた砂利が浮き上がる。  空から、青い光が真っ直ぐに降り注ぎ、猿之助とそれを押さえつける影龍の身体を包み込む。  身に迫る危機を察知した猿之助は、激しく抵抗した。 「や……やめろ……!! 離せ! 離さんか!! 影龍!!」 「猿之助様、もう、お終いにしましょう……」 「うぁ……あぁああああああ!!!」  冷たく輝く青い光が、猿之助と影龍の霊影を消し去っていく。   猿之助の叫びが、小さくなって消えていく。  彰が印を解いた時、そこにはもう、何も存在していなかった。 「影龍さま……?そんな、うそだ!! 影龍さまぁああ!!」  破魔矢に穿たれ、地面に倒れ伏していた弓之進の悲痛な叫びが、静寂を取り戻した京都御所の中に響き渡る。  佐々木猿之助と佐々木影龍は、未来永劫その存在を失った。

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