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百一、こっちを見て

   藤原に言われた通り、珠生は大宮御所へと走った。  そこには数人の黒いスーツ姿の男がいて、妖に取り憑かれていた人間たちの保護と手当を行なっているのだ。  珠生がそこに飛び込んでいくと、すぐに湊が珠生を呼んだ。 「おい、珠生。こっちや」 「湊……!」  湊が座っている前に、千秋が寝かされている。畳張りの床の上で座布団を枕にして、横たわっていた。 「千秋……」 「大丈夫。どうもないって。それより、お前の怪我の方がひどいんちゃうの?」 「うん……でも、今は平気だよ。舜平さんから手当を受けたから」 「そうか」  珠生は千秋の顔を覗き込む。顔色が悪く、服もあちこち汚れている。まるで二、三日山の中でも彷徨ったような有様だ。 「こんな姿……父さんが見たら気絶するな」 「お前も充分ぼろぼろやで」  珠生はそう言われて、初めて自分の格好を見下ろした。弓之進によって爆破された珠生の身体自体は回復していたが、上着もジーパンも破れており、血に染まっている。交通事故にでもあったかのようなひどい格好である。 「……早く帰って、着替えないとやばいな」 「大丈夫、珠生のお父さんは疲れ果てて研究室で眠っていらっしゃるから」 と、湊がしれっとそんなことを言った。 「え?」 「俺が何もせんとここへ来たと思うか? ちゃんと、藤原さんの指示通りに小細工をしてきた」 「そうなんだ……ありがとう、助かった。二人揃って行方不明なんて、洒落になんないもんね」 「う……ん……」  微かに千秋が呻く。珠生ははっとして、千秋の方に身を屈めた。 「千秋、大丈夫?」 「あ……たまき……なのね」 「うん、そうだよ。俺だ」  千秋は微笑んだ。同じ顔をした片割れがようやく自分の元へ戻ってきてくれたことが、とてもとても嬉しかった。  ぎゅっと千秋の手を握りしめて、珠生は微笑み返す。 「珠生……本当に、変なことに巻き込まれてたんだね……あたし、ずっと見てたの。ずっとあの人の中で、意識があったから」 「そう、なんだ……。じゃあ、昨日もずっと?」 「うん、見えてたの。……あの人、ずっと迷ってた。ずっと、珠生に言われたことを、考えてたよ」  影龍のことだ。  珠生は少し、息を呑んだ。 「あの人も、止めたいって思ってたんだ……。だからきっと、珠生の言葉が嬉しかったんじゃないかな……」 「……そうなのかな」 「うん。……あんた、やるじゃん。すっごい、かっこ良かった」  思いもよらぬ千秋の褒め言葉に、珠生は目を丸くした。横で湊が微笑む。 「あんな顔、出来るんだね。男らしかったよ……」 「……はは、ありがと」  千秋の言葉に気が抜けてしまったためか、また傷が痛み出す。珠生は、顔をしかめて肩を押さえた。 「珠生……、痛いのね」 「あ、うん……でも大丈夫。俺、すぐ治るから」 「本当?」 「うん……ちょっとした特異体質になったから」 と、珠生は苦笑した。 「珠生、舜平に送ってもらい。もう夜が明けたからな、早う帰ったほうがええわ」  珠生の体調を気遣うように、湊の手がそっと背中に置かれた。珠生は振り返って、頷く。 「俺、呼んでくる」 「待って、あたしも……外に出たいの」  千秋が湊のズボンを掴んでそう言った。湊はもう一度跪き、千秋に手を貸して身体を起こしてやった。 「もう起きて平気か?」 「うん……ちょっと、だるいだけ」  その時、入口の方が少し騒がしくなった。三人が目をやると舜平、彰、葉山が、広間に入ってくるところだった。  舜平は珠生と目を合わせると、安堵したように微笑んだ。珠生も、目を細めて少し笑う。  彰に何か耳打ちされ、舜平はすぐに部屋の奥へと進むと、その場に膝をついて座り込んだ。怪訝に思った珠生は、そちらへと向かう。  スーツ姿の人々に取り囲まれて横たわっているのは、吉田梨香子だった。  随分と長く猿之助に憑依されていたため体力の消耗が激しく、顔色も蒼白だ。珠生の背後にやってきた千秋と湊も、思わず息を呑んでいる。千秋の手が、珠生の上着の背中を握りしめた。 「……容態は?」 と、彰が手当をしていたマスクの男に尋ねた。その男も黒いスーツ姿だ。ジャケットを脱いでワイシャツの袖をまくっている。 「命には別状ありません。でも、目覚めるまでには時間が掛かりそうですね」 「そうか」  舜平はじっと、恋人だった梨香子の顔を見つめている。  勝気で我儘な目は閉じたままで、マスカラを塗った長い睫毛はピクリとも動かない。ふわふわとした茶色い髪は土煙に汚れ、白く埃っぽくなっている。胸の下から毛布をかけられており、そこはきちんと規則正しく上下しているのを見て、舜平は安心したように息をついた。 「……梨香子」  舜平がぽつりと、彼女の名を呟く。わけもなく、珠生はその姿にどきりとした。  舜平はこの女性と交際していたのだ。名を呼ぶことも、彼女に向かって笑いかけることも、身体を重ねるのとだってあっただろう。分かっていたはずなのに。  しかし、今はそれを少し寂しく感じた。  そして、そう感じてしまった自分を少し恥じる。  舜平はそんな珠生の思いに気づくはずもなく、悔し気な表情を浮かべて呟いた。 「梨香子、ごめんな。怖い思いさせて」 「舜平のせいじゃないよ」  彰が静かにそう言った。舜平は首を振って、頬にかかる梨香子のカールした髪をよけてやる。  そんな舜平の行動にも、珠生の心は少なからず反応してしまう。千秋は背後から珠生の微かな動きを感じ取って、その端正な横顔を見つめた。 「これから先、俺を見るたびに、この記憶を思い出すんか?」 と、舜平は彰に尋ねた。 「……放っておけば、そうかもね」 「くそ……」 「それを防ぐためにも、舜平の記憶ごと彼女から消してしまおうと思ってる。君さえ良ければね」 「え?」 「付き合ってたんだろ?消えてほしくない思い出だってあるんじゃないか?」 と、彰は舜平の隣に座って舜平を見つめた。 「……いや、いい」 「いいのかい?」 「この先一生、怖い思いするくらいなら、全部消してやってくれ。こいつは俺なんかおらんでも、余裕で生きていけるからな」  舜平は少し笑って、彰を見た。 「君がいいなら、そうさせてもらうよ。こちらとしても、そのほうが都合がいいからね」  彰は片手で印を結ぶと、梨香子の額に人差し指と中指で触れた。ぼう、と白い光が浮かび上がる。  目を閉じて、彰は小さく何かを唱え始めた。  誰かのために舜平が辛そうな顔をするところなど見たくはなかったのに、珠生は舜平から目を離すことができなかった。かつての恋人である女性を見つめる、舜平の横顔から。  こっちを見て欲しかった。  ぎゅ、と千秋が珠生の手を握る。  珠生ははっとして、千秋の方を見た。千秋は物言いたげな大きな目で、じっと珠生を見つめている。  珠生が「大丈夫」囁くと、千秋は珠生の肩に頭をもたせかけ、じっと梨香子と舜平のことを見下ろしていた。 「……終了だ」  彰は疲れたように、その場にへたり込む。背後に立っていた葉山が、慌てて彰の背中を支えた。 「後のことは私達がやります。ちゃんときれいに着替えさせて、身も清めて、何事もなかったかのようにしておくから」  葉山は彰の背中を支えたまま、舜平にそう言った。舜平は頷いて、「よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げている。    自分の手を握る千秋の手を握り返して、珠生はそっとその場を離れた。  梨香子に心を砕く舜平を、これ以上見ていたくなかった。  

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