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1 ひとり

 一人で過ごすには、このマンションは広い。  珠生は自室から出てくると、静まり返ったリビングを暗い瞳で眺めた。  夏休みが終わった頃、父・健介が研究のために渡米した。  任期は一年だ。夏休み中はばたばたとその準備に追われ、あっという間に父は旅立っていってしまった。  以前、珠生は ”父さんの一度きりの人生を、家族の為に無駄にする必要なんか無い”……父にそう言ったことがあった。  ためらっていた健介に、珠生はまた同じ事を言った。  ――たった一年くらい、いいじゃないか、行ってきたらいいよ。俺は大丈夫だから。  あの時の健介の目は、忘れられない。  罪悪感、安堵感、困惑と希望の入り混じった複雑な表情をしていた。ソファに座った健介は、両膝の上にしっかりと拳を握って、珠生に深く頭を下げた。  ――すまん……ありがとう。  我儘ばかり言う父さんを、いつも許してくれてありがとう。本当に、ごめん……。  珠生はそんな父親を、どうしてか子どもみたいだと思った。    珠生はカーテンを開けて、せめて光を部屋に入れようとした。時計を見ると、午前九時半。学校には完全に遅刻だ。  珠生は急ぐでもなく身支度を整えると、玄関に備え付けてある姿見を見た。  長く伸びた薄茶色のさらりとした髪が、珠生の容姿を大人びて見せている。  高校に入って半年、季節は秋。  珠生は規定のセーターを着て、緩く結んだネクタイを身につけた自分の姿をじっと見つめた。  過去の姿が、重なる。  季節が過ぎるごとに、もっとその影は濃くなって、ますます千珠の姿に近寄ってくるように思われた。  +  +  学校に着いた時には、すでに二時間目は終わっていた。ちょうど終業のチャイムが鳴り終わった頃、珠生は下足室で靴を履き替えていた。  階段を登っていると、次の授業へ向かう生徒や、自室へ戻る生徒たちの波とすれ違う。皆がちらちらと通りすがりに珠生を見ている。華やか過ぎる珠生の容姿は、人目を引きすぎるのだ。しかし珠生は、無遠慮に投げかけられる他者からの視線に頓着するでもなく、ゆっくりとした歩調で階段を登っていた。  すると階段の踊場で、ぽんと珠生の肩を叩く手があった。俯いていた顔を上げると、そこには斎木彰が立っている。体育だったのか、ジャージ姿である。 「また遅刻? いい加減怒るよ?」  彰はすっと切れ長の目を細めて、にやりと笑ってそう言った。怒る気がないことくらい、その顔を見ればすぐに分かる。 「すみません。寝坊して」 「ああ……昨日も大変だったもんね」  珠生は今も、京都を守るために力を奮っている。人境と魔境の境界にある鬼門を、今は亡き佐々木猿之助が散々荒らし回ったため、この街ではちらほらと妖が出現するようになっていた。  十六夜結界は巨大な術であるために、小さな妖までを防ぎきる事ができない。その穴埋めに、珠生と彰は夜な夜な駆りだされているのである。その指示を出しているのは、藤原修一の代理として京都に滞在している葉山彩音だ。葉山は藤原以上に人使いが荒いのである。 「今の君の顔ときたら……。やっぱり、舜平がいないと寂しいんだね」 「……そんなんじゃありませんよ」  突然核心をつかれ、珠生は気まずさのあまり彰からさっと目をそらした。彰は眉毛をハの字にすると、珠生のすっきりしない顔を見てため息をつく。 「なんでこう……舜平は舜海とおんなじ事するのかなぁ」 「……あの時とは違いますよ」 「そうかい?君を置いて、修行に行くという状況は一緒だよ」 「べつに置いていかれたなんて思ってません」  珠生はそれだけ言うと、さっさと階段を登って教室へ向かった。  彰はジャージの袖を捲り上げて、細い手首に黒い数珠を巻いた手首を揺らすと、手を腰に当ててため息をつく。   「あんな浮かない顔されたんじゃ、僕も調子が出ないよ」  そんなことを呟く彰を、一年生の女子が上目遣いに見ながら通り過ぎていく。憧れの含まれた目線に、彰はかすかに笑ってみせた。       +   +    健介に同行する形で、相田舜平もアメリカに渡っていた。  毎年学内で選抜される交換留学生に、舜平は選ばれたのだ。彼を推薦したのは、他でもない担当教授の各務健介だった。  ”寂しい”という言葉がしっくり来るのかどうかは分からない。ただ、何かが欠けているような気持ちを珠生は常に抱えていた。    ひとりきりになってしまう珠生のために、比較的家の近い柏木湊は、家族ぐるみで珠生を迎え入れてくれている。しばしば夕飯を共にする関係性だ。また彰も、いつも珠生の様子を気にかけていた。  この学校は、成績さえ良ければ不登校になろうが引きこもりになろうが文句は言ってこない。  珠生の成績が落ちないよう、学年トップかつ全国トップの頭脳を持つ彰は、ちょくちょく珠生の勉強に付き合っていた。それに便乗して、湊も一緒に勉強していた。その甲斐あって、珠生の成績はむしろ上がっている。  沖野家の事情を知る数少ない教師である担任の若松も、そのあたりは胸を撫で下ろしていたが、今まで無遅刻無欠席だった珠生の生活態度が少しずつ崩れ始めていることを、若松はひどく気にかけていた。  珠生は皆の心遣いを肌で感じて分かっていたし、自分がどうすべきなのかは理解しているつもりだった。  それでもいつも、身体が重い。心が晴れない。  舜平の笑顔が見たかった。  馬鹿なこと言って、からかって欲しかった。  そばにいて、抱きしめて欲しかった。

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