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2 心の弱さ
湊は窓際の後ろから二番目の席になってからというもの、授業中に居眠りをする珠生を隠してやるのが日課になっている。背の高い湊の影に隠れて、珠生はよくうとうとしていた。
夜な夜な妖を狩っているのだから、珠生が疲れる理由は分かる。だが、それにしても最近の珠生には覇気がなさすぎる。そもそも、妖力の戻った珠生は、肉体的な疲労はほとんど感じないはずなのだ。
数学の授業が終わり、突っ伏している珠生の頭を、湊はぽんとノートで叩いた。微かに呻いて、珠生が眠たげに顔を上げる。
「……終わったの?」
「終わった。お前、また夜中働いてたんか?」
と、湊は窓の方に身体を向けて座ると、珠生に小声でそう尋ねた。
「あ、うん……でも、すぐ終わったよ。帰ってからずっと、絵を描いてたから」
「それで寝不足なん? お前、学生というのは勉強するのが本業やぞ。それを毎日毎日居眠りして、学費が勿体無いと思わへんのか」
ぶつぶつ小言を言うのが、湊の癖だ。それはまるで昔の柊のようで、珠生はそれを聞く度に少し笑った。
「お説教。保護者みたい」
「……あっ、俺はまた……」
湊はささっと眼鏡を押し上げ、すっくと立ち上がった。
「ほれ、次は体育や。行くで」
「あ。うん」
珠生は椅子をがたつかせて立ち上がり、制服を脱ぎ始める。
千珠の力を持つようになった珠生にとって、中学まではあまり好きではなかった学校の体育の授業は、息をするより楽なものとなっていた。その気になれば、陸上部の正也よりも速く走れるだろうし、剣を振るえば剣道部の誰よりも強いだろう。実際、主将の真壁美一を打ち倒したこともあったものだ。
身体を動かしている時、それは唯一心が軽くなる時間だった。
グラウンドを何週も走るという単調な持久走も、風と同化するようでとても気持ちが良かった。
もっと遠くまで走りたい、もっと高く跳びたい。そう思いながら、珠生はいつも空を見上げて走っていた。
学校の体育程度では、珠生は汗ひとつかかず、息も乱さない。だから珠生は、いつも周りに合わせるために少し息を弾ませるふりをしていた。こういう時、この身軽な身体を不便に思った。
+
一日の授業が終わると、珠生は美術室へ行くのが日課になっていた。
早く帰った所で、家の中は静かで暗く、誰も自分を待ってはいない。それが寂しいのだ。
「あ、沖野! あんた、こないだ出品した絵、特別賞もらってたよ」
珠生が美術室へ入るなり、部長の最上満寿美が満面の笑みでそう教えてくれた。一緒にいた西川結子も拍手をして微笑んでいる。
「本当ですか? 時間なくて雑になったかなと思ったけど」
「それが逆に良かったんじゃない? なんか……いつものあんたの丁寧な絵よりも、ずっと思いがこもってる感じがしたもんね」
「そっか……」
その絵は、舜平がアメリカへ発つと聞かされた時にちょうど描いていた絵だった。題材は風景画だったのに、珠生が描き出した作品はどう見ても抽象画だった。
不安、ただその一言を色に乗せて書きなぐっただけの、暗い絵だ。
「あんな暗い絵、好んだ人がいたんですね」
「私は結構、好きだったかな。なんだか、ネガティヴな感情とか、代わりに吐き出してくれてるような感じがしたから……」
結子はイーゼルに向かったまま、小さな声でそう言った。
珠生は普段は言葉少なな結子が、自分の絵にそんな感想を持ってくれていたことが分かって、珠生は純粋に嬉しかった。
「……ありがとう、先輩」
珠生の真っ直ぐな視線に、結子は真っ赤になってイーゼルに隠れた。満寿美はそんな様子を見て、がははと大きな口を開けて笑った。
「新境地だね。いいじゃんいいじゃん、もっとばんばん描いていこう。あんたの絵、最近本当に面白いよ」
「そう言ってもらえると、ちょっと元気出ますね」
珠生は、ほんの少しだけ微笑んだ。
最近、あまり笑っていない。
湊や彰には、我儘ばかり言っている気がする。
――情けない……。
珠生は色を練りながら、自問自答していた。
――この心の弱さを塗り替えるには、どうしたらいいんだろう……。
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