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3 写真の中の舜平

 珠生はその晩、北崎悠一郎と会う約束をしていた。  舜平の高校時代の同級生であり、芸大で写真を専攻している学生だ。春先に撮った写真を渡したいから会えないかという連絡をもらったのである。  待ち合わせには、高校のそばにある喫茶店が指定された。その店は鴨川からは二筋ほど離れた静かな場所にあり、店先から深みのある珈琲の香りが漂ってくるような、渋い店構えの店だった。  涼しげな鐘の音を鳴らし、重厚な飴色のガラスの入ったドアを開ける。がらんとした店内には数人の客しかいない。皆が目を上げて、制服姿の珠生を見た。  場違いな感じが否めず一瞬腰が引けたが、珠生はきょろきょろと悠一郎の姿を探した。 「沖野くん、こっちこっち」  奥のボックス席で、ひらひらと手が揺れているのが見えた。落ち着いたジャズの流れる店内に、悠一郎のいい声が響く。 「……こんばんは」 「ごめんね、こんな時間に」 「いいえ、部活の帰りで丁度よかったです」  悠一郎の前に座った珠生に、苦味の走った髭面のオーナーが注文を聞きに来る。珠生はホットコーヒーを頼んだ。 「あん時は、いきなり声をかけて悪かったな。でも、おかげでいい作品になってん」 「そうですか」 「あれ、なんか元気ないやん、どうしたん?」 「いえ……ちょっと疲れただけです」 「そっか。ここの珈琲、ホンマにうまいから元気出るで」  悠一郎は今日も長い髪を一つにまとめてひっつめていた。あえて顔の周りに残している長い前髪が、悠一郎の顔の横で揺れている。くすんだ銀色の大きなピアスと、同じ色のごつい指輪をした長い指が目を引いた。  ごそごそと大きな黒いバッグからアルバムを取り出した悠一郎は、それを珠生の前に置いた。A4サイズの黒いアルバムである。 「直接見てもらおうと思って。オリジナルの写真は君にあげるわ」 「はい……」  珠生はつるりとしたファイルを手にとって、表紙をめくった。 「……これ、俺?」  表紙をめくると、モノクロ調の大きな写真が入っていた。鴨川を歩く珠生の姿が写っている。きらきらと夕日を受けて輝く鴨川の川縁を歩く珠生の姿が、色彩はなくとも鮮やかに写し出されていた。  写真の中の自分は、笑っている。自然と湧いてくる笑顔に見えた。  写真には入っていないが、この時は隣に舜平がいた。会話の内容は覚えていないが、とても楽しかったのを覚えている。 「きれいな子やなと思って声かけたんやけど、まさかこんなに俺が思うとおりに絵になってくれると思わへんかったわ。それに、ええ顔や」 「……俺って、こんな顔して笑うんだ」 「はは、あんまり写真好きじゃなかったんなら、客観的に自分の笑顔見ることもなかったか?」  珠生は次のページをめくった。  次のページからは、写真はサイズが小さくなり、見開きで二枚の写真が収まっている。どんな瞬間を撮ったのかわからないが、鴨川沿いの新緑を背に少し上を見上げている珠生の横顔と、何故かカメラ目線の珠生が目を細めて微笑んでいる顔が写っている。 「……一体いつ撮ったんです」 「ふふふ、そういういい表情をうまく切り取るのがプロやから」  この写真はカラーで、背景はソフトフォーカスで写された柔らかな新緑。そのやさしい色彩は、珠生を穏やかな気持ちにさせた。  春というまぶしい季節と、珠生の朗らかな笑顔を収めた写真のことを、珠生は素直に美しいと思った。  珈琲を持って来たオーナーも、その写真をちらりとみて、ほう、と息をついている。 「北崎くんの新作か。君がモデルなん?」 「あ、はい……」 「店長、いいでしょ。綺麗な絵みたいやろ?」 「君の写真は、いつも明るくていいね、こんなご時世やし尚更や」 「はは、どうも」  悠一郎は気さくに店長と話をして脚を組んだ。すでに悠一郎は黒い革のブーツを履いている。色落ちしたぼろぼろのジーンズに黒いブーツ、大きなアクセサリーと、悠一郎は写真家と言うよりもロックバンドでもやっているような青年に見える。こんなごつごつとした男が、こんなにも明るくキラキラした写真を撮るとは、誰も思わないだろう。  珠生はまたページをめくった。そして、はっとする。その見開きには、舜平が写っていた。  気持のいい笑顔を見せる舜平が、L版の写真いっぱいに写っている。珠生の手が、微かに震えた。 「舜平も男前やからな、ちょっと撮ってみてん。ええ顔やろ。君ら仲いいんやな」 「……」  なんとなくつらくなって、珠生は次のページを捲った。  それが最後のページだった。何の加工もない、ただの一枚の写真だ。  楽しげに笑う珠生と、それを見て少しだけ照れたように微笑む舜平の写真がそこにあった。  ぎゅっと、心臓が掴まれるような思いがした。  珠生を愛するときの舜平の強い瞳が、否応なく思い出される。珠生は指で、舜平の頬にそっと触れた。  そこにあの熱い体温はない。ただ、一枚の紙の上にインクで描かれた舜平がいるだけだ。それでも珠生は、そこに触れずにはいられなかった。 「……どうしたん?」 「え?」 「なんで、泣いてんの?」  悠一郎が驚きと心配の色を目に乗せて、珠生を見つめている。それで初めて、自分が涙を流していることに気づく。 「あっ……すみません」  珠生は制服のセーターでぐいと目元を拭ったが、それでもぽろぽろと勝手に溢れる涙は止まらなかった。 「すみません……」 「舜平、アメリカやろ。君、寂しいんやな」  悠一郎の言葉に、珠生は顔を上げた。悠一郎は困ったような顔で笑う。 「この写真撮った時、なんとなくな。ああ、この二人には何かあるんやろうなって思っててんけど」 「……何もないですよ」 「芸術家ってのは、そういうことにはおおらかなもんや。それに、舜平のこんな顔、見たことなかったからびっくりしたんや」 「……そんな。そんなんじゃないです」  珠生は悠一郎の言葉を否定した。それでも、舜平の笑顔から目が離せない。 「そういうのじゃないんです。ただ……離れられないだけなんです」  悠一郎はじっと、はらはらと涙を流しながらそう呟いた珠生の顔を見つめていた。 「よく、分からないんです。本当に、なんでこんなことになったのか」 「……そうか」  曖昧な珠生の表現を、悠一郎は何も言わずに受け止めた。珠生の白く長い指が、黒いファイルを閉じた。 「この二人が写った写真、舜平にも送ったろかなって思ったけど、やめとくわ」 「え?」 「きっと舜平も、泣いてまうやろ」  悠一郎の涼し気な一重まぶたの目を見て、珠生は鼻をすする。 「そのアルバムごと君にあげようかと思っててんけど、やっぱり俺が持って帰ろか?」 「……はい。そうしてもらえると、ありがたいです」 「わかった」 「でも、綺麗な写真だった。作品の一部になるって経験したことなかったから……ちょっと嬉しかったです」 「ほんま?」  悠一郎は鞄にアルバムをしまい込みながら、嬉しそうに笑った。そして、珠生の前に肘をついて身を乗り出すと、真剣な声でこう言った。 「あのさ、これからも俺の写真に写ってもらえへんかな。君見てると、なんかどんどん撮りたい風景が沸き上がってくる感じがするんや」 「……はぁ」 「君には、なんかあると思うねん。俺はそれを撮りたい。うまく言えへんけど……それって君の中にある風景やと思うんや」 「俺の中……?」 「ああ、そうや。それを俺はカメラを通して何となく見てしもた感じがするんや。せやから、もっと、それを確かめたいねん」  真剣な悠一郎の目を見ながら、その言葉を反芻する。  珠生の中にある風景。  それは、千珠であった頃に見ていた風景のことなんだろうか。  懐かしいそれを、この人の写真を通して自分でも見ることができたら、何か、分かるのだろうか。  この、いつまでも胸を締め付ける想いの正体を……。  珠生は深々と頭を下げている悠一郎の肩に触れて、言った。 「……はい、いいですよ。撮ってください」 「ほんま!? ありがとう!」  目を輝かせてまた頭を下げる悠一郎を見て、珠生は微笑んだ。  それは作り笑いじゃない、本当の笑顔だった。

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