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4 深呼吸

 その日も、珠生は遅刻して教室へと入った。  がやがやと休憩時間をすごす生徒たちが、ちらちらと珠生を見ていたが、誰も声をかけては来ない。  窓際の一番後ろの席に着くと、がたんと前の席に座る人物がいた。顔上げると、大北正也が湊の席に座っている。 「なぁ、珠生。千秋ちゃんから最近メールが返ってこないんだけど……なんか知らないか?」 「そうなの? あれ、付き合ってんじゃなかったっけ?」  悲しげで憂鬱な表情をして、正也は携帯電話を取り出し珠生の前で操作した。新着メールが届いていないことを知ると、がっくりと肩を落とす。 「一応オッケーはもらったけどさ、京都と千葉じゃかなりの遠距離だし、試合とかで会おうにも、関西と関東じゃ全国大会しかないしさ」 「……じゃあ全然会ってないんだ」 「そうなんだよ! もう、耐えられない。埼玉に帰って、実家から通える学校に転校しようかな。そしたら、もっと会いやすくなるだろ?」 「そんな先走んなくても」  必死な形相の正也を見て、珠生は目を瞬かせた。千秋のやつ、ずいぶんと愛されているらしい。 「もうお前でもいいや。ほとんどおんなじ顔なんだし」 「何が?」  正也はうるうるとした目を珠生に向けて、ずいと顔を近づけてくる。 「珠生、チューしようぜ! それで千秋ちゃんとした気分に浸るから!」 「はぁ!? 冗談じゃないよ」  珠生はぎょっとして、椅子ごと身を引いた。正也は珠生の机に手をついて、更に身を乗り出してくる。 「いいじゃん、減るもんじゃなし! もう、お前見てると千秋ちゃんのこと思い出して……」 「やめろよ気持ち悪い」 「人の席で何をしてんねん!」  べしっと湊が正也の頭を叩く音が教室に響く。 「いってぇ! 湊、いてぇな!」 「おい、どけ。ったく、欲求不満を珠生にぶつけんな」  湊は冷ややかに正也を席からどけると、自分の椅子に座った。正也は痛そうに頭を押さえて湊を睨む。 「本気で殴っただろ? くっそ」 「公衆の面前でおかしなことするからや」  正也が周りを見回すと、女子も男子も正也と珠生を見ていた。 「あ、あははは」  正也は取り繕うように笑うと、廊下側の真ん中の自分の席へと戻っていった。  珠生はため息をついて、椅子を前に動かして席に着いた。 「何やってんだ千秋のやつ」 「向こうは付き合ってるって思ってへんかもな」 「それはある」  千秋のつんとした顔が目に浮かぶ。 「ところで昨日、どうしたん? 具合でも悪かったんか?」  湊は窓側に身体を向けて、珠生にそう尋ねた。 「うん、ちょっと用事があっただけ」 「用事? ……そっか、まぁ。元気ならええねん」 「今日は説教しないの?」 「あんまりいうと、また五月蝿いって言われるもん」  湊はふてくされた表情で、肘をついて空を見た。珠生は吹き出した。 「今日はえらい元気そうやん。すっきりした顔してる」 「うん、ちょっとね。自然と触れ合ってきたから」 「なんやそれ」  湊が訝しげな顔をすると同時に、チャイムが鳴った。  +  +  昨日、珠生は学校をさぼった。  紅葉が残っているうちに写真を撮りたいと悠一郎に頼まれ、大して迷うこともなく学校を休んで悠一郎に付いて行くことを決めた。  高校生に学校をサボらせてまで……と悠一郎は迷った顔をしていたが、すでに季節は移り変わりかけているのだ。 「紅葉は、どちらかっていうと少し寂し気な……もうすぐ冬っていう静かな季節が来る前触れのような、儚さがあると思うねん」 「……分かる気がします」 「前撮ったときは五月や。春、新緑、これから夏っていうまぶしい季節がやってくる前触れや。心が昂るような、これから明るい未来がやって来るんや……!みたいな高揚感があるやろ?」 「そうですね」 「今の珠生くんの顔、ちょっとさみしげやから。この季節にはちょうどいいなと思って」  悠一郎はカメラのレンズを調整しながらそう言った。 「俺、そんなふうに見えるの?」 「うん、なんか……明日死んでも悔いはないって顔してんで」  思いもよらぬ悠一郎の言葉に、珠生は吹き出した。そんなふうに自分のことを表現されるとは思わなかった。  悠一郎は久しぶりにちゃんと笑った珠生の顔を、一枚撮って、レンズの向こうで笑った。 「でも笑うと、やっぱ君は可愛いな」 「可愛い可愛いって……あんまり嬉しくないんですけど」 「どう言われたらテンション上がる?」 「テンション? 俺……あんまりテンション上がったことないから……」 「はは、そんなかんじやな君は。ほんならまぁ、我慢して言われといて。こっちのテンションに関わる問題やから」 「はぁ……」  悠一郎が珠生を連れてきた場所は、大原三千院のそばにある、なんということのない山の中だった。三千院の駐車場にレンタカーを停めると、悠一郎は珠生を伴って山の中へと分け入った。  観光地として名高い大原は、平日とはいえ人で賑わっていたが、二人が進む道には誰一人として入ってこない。  珠生は、きらきらと木漏れ日の光る美しい風景に目を輝かせた。  足元は木の根によって柔らかく弾み、濃い緑色の苔があちこちに群生してこんもりとしていた。更にその上に、赤や茶色の落ち葉が重なって、とても美しい色彩だと珠生は思った。 「ここだよ」  悠一郎が立ち止まった場所は少し開けており、小さな池がある場所だった。池の畔は真っ赤に燃える紅葉に彩られており、見事な眺めだ。  池に紅葉が映り、水の中にも紅葉が広がっているような風景。珠生は目を輝かせる。 「すごい……。きれいだ」 「そうやろ?ここ、子どもの頃にたまたま見つけてん。いつか、ここで絵を描いたり、写真をとったりしたいなぁって思ったんや」 「そうなんだ。素敵ですね」 「念願かなった。理想的なモデルも連れてこれたし」  悠一郎は肩にかけていた大荷物を落ち葉の上に置くと、大きなサングラスを上げて空を見上げ、目を細めた。  珠生は池のほとりで水際を覗きこみ、泳いでいる鯉を見つけては微笑んでいる。悠一郎は、寛いだ表情を浮かべる珠生に思わずカメラを向けた。  写真嫌いだと思っていたが、悠一郎にカメラを向けられることには何の抵抗も感じない。顔を上げて悠一郎の方を見ると、彼は一身に珠生に向かってシャッターを切っている。 「なんかおった?」 と、そうしながら悠一郎は珠生に尋ねた。 「うん、鯉がいる。こんな山奥なのに、なんでいるんだろう」 「さぁなぁ、誰かここに捨ててったんちゃう?」 「捨て鯉ってこと? そんなのいるの?」 「眼の前におるのが、そうなんちゃうか。拾って帰るか?」 「拾うとか無理でしょ」  他愛のない話をしながら、悠一郎は珠生の表情のひとつひとつを切り取った。悠一郎の言葉にちょっと笑って、また池の中を覗き込む珠生の姿をレンズ越しに見る。  珠生は立ち上がって、池の畔を歩き出した。  珠生の白い肌が、赤い紅葉を背に浮かび上がる。薄い茶色の髪の毛がさらりと風に揺れている。  自然の中で過ごす珠生の表情は、とても寛いで見えた。  瞳の中に真っ赤な紅葉が映り込んでいるのを見つけて、悠一郎は思わず珠生に近寄った。 「珠生くん、目がきれいやな。鏡みたいや」 「……鏡?」 「うん、水鏡みたいな感じ」 「悠一郎さんて、見かけによらず古風だね」 「そうやろ、よう言われるわ」  今日の悠一郎は、黒い皮のジャケットにダメージジーンズを履いて、今日は黒いスニーカーを履いていた。いつものピアスと指輪と、今日は似たデザインのネックレスを揺らしている。差し色にしているのか、黄色とオレンジの色が入り混じったようなストールを首に巻きつけている。 「今日も格好はロックなのに」 「あぁこれか? 単に服装はこういうのが好きなだけやねん」 「ふーん」 「珠生くんも、もっとカッコつけたら絶対カッコイイのにな。顔もちっちゃいし、脚も長いし」 「カッコつけるって言われても分かんないなぁ」 「よし、一回めっちゃカッコつけた写真も撮らしてな。もっと俺に慣れたらでいいから」 「あはは、うん、いいよ。おもしろそう」  珠生は笑った。  大地の気に満ちた場所で、珠生の心はいつになく解放されていた。  普段町中で人の中にいて、なんとなく行き場のなかった妖力が、ふわりと昇華していくような感覚があり、とても気持ちがよかった。  ――そうだよな。昔は、こういう世界で生きてきたんだもんね。  ビルや人の中に押し込まれて、元気が出るわけがないんだ。人気のない自然の中に連れてきてくれた悠一郎に、感謝の念が湧き上がる。  笑顔を浮かべ、軽口を叩きつつシャッターを切る悠一郎も、本当に楽しそうだ。  久しぶりに清々しい風を感じて、珠生は深く息を吸った。  

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