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二、素直になるために
湊の言うとおり、彰はあまり元気ではなかった。
妖絡みの事件が落ち着き、亜樹の生活も徐々に落ち着きを見せてきたことで、葉山が東京へ戻ることになったのだ。
葉山が東京へ戻る日、平日にもかかわらず彰はグランヴィアホテルを訪れていた。荷物を片付けている葉山を見つめる彰の目には、淋しげな色が浮かんでいる。
「学校は?」
「……これから行くよ」
「もう遅刻でしょ? いいの?」
「いいんだ。僕、生徒会長だから」
「そんな生徒会長じゃ、下級生たちに示しが付かないわよ」
と言って、黒いパンツスーツに身を包んだ葉山は、キャリーケースの蓋を閉めた。パソコンの入った黒いバッグを持ち手に通す。
「……どうしたの? 浮かない顔ね」
「どうもこうも……、東京か、遠いな」
「寂しいの?」
「……」
彰はカバンを肩に引っ掛け、ポケットに手を突っ込んだままそう言った。学校規定のセーターを着て、袖をまくっている彰の手首には、いつもの黒い数珠が光っている。
葉山はため息をついて、少し距離をとったまま彰を見ていた。
一度肉体関係を持ったとはいえ、二人の関係は曖昧なままだ。彰が明確な関係性にこだわるとは思えないが、こんな淋しげな顔をされては調子が狂ってしまう。
「霧島には私も同行するんだし、またすぐ会えるじゃない」
子どもを宥めるような口調で葉山がそう言うと、彰は少し傷ついたような顔をする。
「……そうだね」
そんな表情をされてしまえば、葉山は戸惑うばかりだった。彰もどうして良いか分からないのだろうか、何も言わずに葉山の足元を見ている。
「彰くん。あなた、どうしたいの?」
「……どうしたいって?」
「確かに、彰くんとは一度、関係を持ってしまったけど……それにあなたが縛られる必要はないのよ?」
「……どういうことです?」
「あなたはまだ高校生なんだから、もっといろんな人と出会ってみてもいいと思うわ」
彰はまた、悲しげに眉を下げた。
「高校生だから……って、年齢を理由に僕を遠ざけようとするのは、納得がいかないな」
「いや、年齢というか……。まだ本気なの? あの話」
「当然だよ。……でも、僕にはまだその資格がないことも、分かってる」
「……年齢のこと? でも、あなたは、」
「僕は葉山さんのことを、実はあまり良く知らない。これからもっと色んなことを知っていきたかったのに、このタイミングで距離があいてしまうことが残念で仕方ない」
「……仕事だもの。仕方がないでしょ」
「僕は業平様から命を受けているから、やすやすと京都から離れることもできない。……それがこんなにも歯がゆいなんて」
彰は真剣な顔で、じっと葉山を見つめると、カバンを床に落として一瞬で間合いを詰めた。
気づけばすでに、葉山は彰の腕に包み込まれていた。ぎゅっと自分を抱きしめる彰の肩口が、目の前にある。
「……僕は、本気だよ」
「彰くん……」
「それだけ、伝えたくて来た。……かといって、葉山さんの行動を縛る気もない。恋人がいてもいい……その時はまたその時だ」
「そんなの……いないわよ」
「これからできるかもしれないじゃないか」
「そんなこと、」
「いいんだ。それで」
彰はぱっと身体を離して、葉山を見つめた。そして、いつものように目を細めて微笑む。
「霧島で会いましょう」
「……彰くん」
「じゃあ、気をつけて」
彰はひらりと手を振り、カバンを拾って部屋を出ていった。
葉山は整理の付かない気持ちのまま、ぼんやりと部屋の真中に佇んでいた。
+ +
明桜学園高等部では、来週から中間試験である。
試験一週間前は部活は全て停止となり、授業を終えた生徒はさっさと帰宅していく。皆塾へ行ったり、図書館にこもったりと、各々勉学に勤しむのである。
湊は一旦帰ってから珠生の家に行くといい、先に帰宅していった。珠生は一人残って、教室で学級日誌を書いていた。
これといって何か特筆するべきことがあるわけでもない、なんてことのない一日だった。
集めたノートを出席番号順に並べるという、めまいがするほど単調で面倒な作業をこなしていると、がらりと教室のドアが開いた。
顔を上げると、そこには三谷詩乃が立っていた。
「三谷さん、忘れ物?」
「あ、うん……。体操服、忘れててん」
詩乃は珠生の机の上にどっさりと載っているノートを見た。何も言わずに隣の席の椅子を持ってくると、珠生の向かいに座ってノートの仕分けを手伝い始めた。
「あ、いいよ。俺一人でも」
「ううん、これ、面倒やもんね。二人でやればすぐ終わるよ」
「……ありがと」
詩乃はにっこり笑って、慣れた手つきでノートを重ねていく。二人で黙々と作業していると、あっという間にノートは片付いた。
珠生は目を上げて、机一つ挟んで座っている詩乃の顔を見た。
前髪を切ったらしく、サラリとした前髪が眉毛の上で揺れている。初めて会った頃から思っていたが、詩乃の髪の毛はとてもきれいだ。
珠生の目線に気づいた詩乃は、すぐに頬を赤く染めて俯いた。
「何か付いとった?」
「ううん……。三谷さんて、髪きれいだよね」
「へっ?」
詩乃は見る間に真っ赤になって、珠生を見た。派手さはないが、詩乃の目鼻立ちは配置よく整っている。
「い、いややわぁ、そんなこと、きれいな沖野くんに言われても、ぴんと来ぉへん」
照れ笑いをしながら、詩乃がそんなことを言った。珠生は苦笑した。
「ごめん、変なこと言って」
「う、ううん。いいねんいいねん。ありがとう、嬉しいわ」
顔の前でぶんぶんと手を振る詩乃は、頬を染めて素直に礼を言う。やはり、笑ったほうがこの娘は可愛いなと、珠生は思った。
珠生は立ち上がってノートを抱えると、椅子を直している詩乃に礼を言う。
「手伝ってくれて、ありがとう」
「ううん。一人やと大変やもんな。いつでも言って」
詩乃は微笑んで、小走りに教室を出ていった。
珠生はほっこりとした気持ちになり、教室の電気を消してドアを閉めた。
しかし、その気持ちはすぐに萎えてしまう。
同様に日直らしい天道亜樹が、すぐそこに立っていたからだ。
「……おつかれ」
亜樹はにやりと笑って、珠生にそう声をかけた。
「……おつかれ」
と、珠生も言葉を返す。
「今出てきたの、三谷さんやろ? 二人きりで何してたん?」
珍しく話かけて来たかと思うと、そんな内容だ。珠生は少しむっとして、何も言わずに先に立って歩き出す。
亜樹は早足についてくると、階段を降りる珠生のすぐ後ろを歩いた。
「別に、ノートの整理付き合ってくれただけだよ」
「ふうん。あんた、モテるんやってな。今日もクラスの子らが噂してたで」
「……別にもててないよ」
「みんな気後れして告白できひんねやろうな。あんた顔は、きれいやもんな」
「顔は、ってどういう意味だよ。……てか、今日なんで話しかけてくるの? いつも素通りなのに」
「試験前で誰もおらへんからやん。うちなんかがあんたと口きいてんの見られたら、また掃除用具入れに閉じ込められてまうわ」
「うちなんかって……」
亜樹は職員室のドアの前に立つとにっと笑って、ほぼ同じ身長の珠生を見た。
「大丈夫、何のトラブルも起こしてへんやろ?」
「そういうことじゃなくてさ……」
「失礼しまーす」
職員室のドアを脚で開ける亜樹の行動に呆気にとられつつも、珠生も若松の机にノートを置く。若松は席を外していた。ノートの上に日誌をおいて、珠生はさっさと職員室を出た。
先に下足室へと歩いている亜樹の背中が目に入る。
クラスが隣なので、下足室も必然的に近い。何となく同じペースで動くことになり、珠生はげんなりした。
二人は昇降口の前に立って、目を見合わせる。
「あのさ、帰るならさっさと先に帰ってくれない? 駅まで一緒とか、見られたら困るんだろ?」
「はぁ? うち、急ぐん嫌やし、帰りたいならあんたが先にさっさと帰ったらいいやん」
亜樹の可愛げのない口調と不遜な態度に、珠生はむっとする。
「また生徒会長と仲良くお勉強やろ? あんたらほんま仲いいな」
「悪いかよ」
「悪くないけど。柏木といい、生徒会長といい、あんたにべったりやな」
「……そんなことないよ」
「ええな、あんたは誰にでもちやほやされて」
「そんな言い方するなよ。その可愛げのない言葉遣い直せば、天道さんだってもうちょっとましになるんじゃないの?」
珍しく憎まれ口をたたき返す珠生を、亜樹はじっと眼力の強い瞳で見つめている。
数倍の暴言が返ってくるのではないかと、珠生は思わず身構えた。
ところが亜樹は笑い出した。腹を抱えて大笑いすると、涙を拭いながら珠生を見る。
「……なんや、あんたもそんなこと言うねんな」
「え?」
「いっつもみんなの前でにこにこにこにこ……猫かぶって気に食わへん奴やと思ってたけど」
「猫……」
「たまにはそういうことも言うねんな。ははは、あーおもろ」
そう言い残して、亜樹はさっさと帰っていった。珠生は亜樹の細い背中を見送りながら、首を振る。
「なんだあいつ」
それでも、亜樹の笑顔を初めて見れたことは、少しばかり嬉しかった。
しばらく時間を置いて、学校を後にした珠生の背中を追いかけるように、下足室の影から三谷詩乃が姿を現す。
一緒に帰れないかと期待して、下足室で待っていたのだが、まさかあの天道亜樹と共に現れるとは思ってもいなかったため、声をかけられなかったのだ。
二人が知り合いだということにも驚いたし、珠生が亜樹と親しげに話をしていることが、更にショックだった。
詩乃は少し寂しい思いを抱えて、とぼとぼと駅へと向かって歩いた。
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