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十六、千珠か、珠生か
一人山道を歩いていた湊は、小さな祠を見つけていた。
神楽殿の裏手の森の中をずっと登っていると、さほど霊感のない湊ですらぴりぴり感じるほどに、攻撃的な空気を感じるようになっていた。
――これ以上、立ち入ってはいけない……直感的に湊はそう思い、足を止める。
――息苦しい……。
湊は思わず一歩引いた。彰に伝えてから来るべきだと、頭の中で冷静に考える。
踵を返して森を下っていると、ざざっと樹の枝を蹴って珠生が現れた。血まみれの珠生は、軽い身のこなしで湊のそばに降り立つと、琥珀色の瞳で湊を見た。
「……珠生……」
「湊、戻るぞ」
「え?」
「葉山さんが、一度戻れと大騒ぎをしてる。先輩も下にいる」
「分かりました」
珠生は先に立って歩き出す。タンクトップから除く白い華奢な肩を見つめるうち、湊は段々混乱してきた。
「……珠生、やんな」
「……そうだな」
「千珠さまと話してるような気分になるねんけど」
「……そう?」
「どういうことやねん」
「俺にもよく分からないよ」
「うーん……」
「……ただ、さっきはとても気分が良かったんだけど、今は、身体がすごく重い……」
「妖気を使いすぎたってことか?」
「多分な」
「そんな……」
「そのせいかな、俺、もう……眠くて」
「え?」
振り返った珠生の目は、もはや半分閉じかけていた。ふらりと後ろに倒れそうになるのを、慌てて湊が受け止める。
ぬるりとした血の感触が、湊の手を汚す。
「……久々に暴れたから、かな……」
「珠生、おい、大丈夫か?」
「眠いだけ……あとはたのむ……」
「……」
腕の中でぐったりと脱力する珠生の身体を横抱きにして、湊は立ち上がった。抱きかかえた珠生の身体は、思った以上に軽い。
落ち葉の積もった山道を下ると、神楽殿の前に彰が立っているのを発見した。珠生の状態を見て、目を丸くする。
湊は今しがた珠生が話したことを彰にも伝えると、彰は難しげな顔をして腕組みをした。
「どういうことだろう」
「分かりません。舜平がいてくれたら……」
彰はため息をついて、湊にもたれかかる珠生の頭をそっと撫でた。
「とりあえず、宿に連れ帰ろう。弓之進、いるか?」
彰がそう言うと、どこからともなく弓之進が少年の姿で現れた。
「はい、佐為さま」
「ずっと見ていたね? すべての状況を、業平様に伝えるんだ。すぐに」
「分かりました」
ふっと、少年の姿が消える。一体どんな技なのかと、湊は目を見張った。
「さてさて……ただ神事を手伝いにきただけだというのに」
「……完全に巻き込まれましたね。これは」
「まったく、困ったことだ」
二人は肩を並べて、山道を下りはじめた。
いつしか真上に登った太陽が、眩しく二人を照りつける。
+ +
甲斐甲斐しく湊に世話をされ、身を清めてもらった珠生は、浴衣を纏って布団に寝かされている。
亜樹は珠生を心配して、珠生の部屋に訪れていた。
湊はバスルームで珠生のシャツについた血を洗っているのだが、「……完全には落ちひんなあ」と、ぼやいている声が聞こえてくる。
「それ、普通の人には見えへん血なんちゃうん?」
と、亜樹は湊に声をかけた。
「そらそうやけど……俺らには見えるし、珠生にも見えんねんで。目ぇ醒めた時、いややろ?」
「まぁそうやな。……あんた、沖野のおかんみたいやな」
「……前世でもそう言われ続けてきたわ」
と、何やらぶつぶつと文句を言っている湊を声を耳の端に聞きながら、亜樹は珠生の顔を見下ろした。
血に濡れた姿、琥珀色の瞳で自分を見返す冷ややかな目を思い出して、ぞっとする。
優しい珠生の顔が見たいと思った。あいつはどこへ行ってしまったんだろうか。
そっと、珠生の前髪に触れた。額にかすかに触れた指に、珠生の熱が伝わってくる。
「熱い……」
ここへ来てからずっと具合の悪そうだった珠生だが、それを隠すように微笑んでいた顔が懐かしい。はるか号で口喧嘩をしていたころの珠生が懐かしい……。
「沖野、しっかりせぇよ……」
亜樹はぽつりとそう呟いた。その声に反応したのか、うっすらと珠生が目を開く。
亜樹は思わず珠生の目を覗きこんだが、そこにあるのがあの琥珀色の瞳であることを見つけると、明らかに落胆した顔をした。
「……何、その顔」
「目の色、まだ治らへんねんな」
「俺に言われて困る」
「……なぁ、あんた、誰?」
「誰って……」
横たわったまま、珠生はふいと目をそらした。
「ほんま、ややこしい奴やなぁ」
「あのさ、一番戸惑ってるのは俺なんだぞ」
「あ、うん、せやな……」
「柊は?」
「柊?ああ、柏木か。そこにおんで」
亜樹に呼ばれ、湊がバスルームから顔を出した。
「どうしたん? 喉乾いたんか?」
「どんだけおかんやねん」
と、亜樹。
「黙っとれ。……気分は?」
「良くはない。くそ、舜平さんがいればな……。霊力を高めてもらえば、こんなのすぐに、」
「まぁ、自然と戻る霊気もあるやん? もう少し待ってみようや。そんな不安そうな顔すんな」
「……そうだな」
「あんまり焦らんことや。珠生らしくもない」
「……なぜだか、気持ちが逸ってしかたがないんだ」
「なんで?」
と、亜樹。
「あまり長時間動いていると、こんなふうにまた眠ってしまうかもしれないし、それに、」
「珠生、焦って自分勝手にカタをつけようとすんな。俺と先輩が鳳凛丸の封印場所を探して、封印し直しといたらええ話やろ」
「それで収まるとは思えないんだ」
珠生はそう言って、俯いた。何かを感じているのか、琥珀色の目はどこか遠くを見ている。
そして、ふと大きくため息をつくと、ドサリと布団に倒れこむ。
「……くそ、身体が熱い」
「少し寝てろ。俺ら、外に出てるし」
「ああ……そうする」
「なんかあったら、すぐ呼ぶんやで? 汗もかいてるし、この新しい浴衣に着替えて。それから、水分補給も忘れずに、」
「分かったよもう、五月蝿いな!」
珠生はぷいと布団をかぶって、湊に背を向けた。湊が傷ついたような顔をしているのを見て、「柏木って、ほんまこいつの保護者やな」と、亜樹が呆れたように言った。
「言われたとおりにするから……もう出ていいってくれ。それとも、俺の着替えが見たいのか」
背を向けたままそんなことをいう珠生を、亜樹は真っ赤になりながら睨んだ。
「だ、誰が見たいか! 阿呆!」
「……むきになる所を見ると、見たかったってことかな?」
ちろりと珠生がこちらに目を向けて、唇を吊り上げる。亜樹はふくれっ面をすると、湊を引っ張って外へ出ていってしまった。
「どあほ!」
バン!と激しい音を立ててドアが閉まった。珠生はくくっと笑うと、布団の上に仰向けになり目を閉じた。
――俺の体、なぜこんな状態に……。
――俺は誰? 沖野珠生……? それとも……。
手を天井にかざして、自分の指を見つめる。
ここには鉤爪があったはずなのに、何もない。ただの人間の小さな手があるのみだ。
千珠の強力な妖気は、珠生の身体に息づいている。霊気という守りがない今、少しずつ珠生の身体を蝕みながら……。
珠生は熱く重たい体を煩わしく思いながら、舜平のことを考えた。
舜海は口付けるだけでかなり千珠を回復させる技を持っていた。そして交わればさらに、千珠の気は満たされた。
それだけではなかった。舜海との交わりは、甘美な快楽そのもの。
どうあがいても自分から離れられない舜海を見ているのは苦しくもあったが、それと同じくらい千珠を満足させていた。
――お前は、俺のものだ。
舜海に抱かれ、喘がされ泣かされても、千珠の心にはいつもその言葉が浮かんでいた。
ずっと、俺を求めればいい。
ずっとずっと、俺の影を追い続ければいい……。
そばに居てくれ。
離れるなんて、言わないでくれ。
俺はお前を、手放したくないんだ……。
「……舜……」
心細い。抱き締めて欲しい。声が聞きたい。あの熱い体温を、感じたい。
ぼろぼろになるまで、抱いてほしい。涙も声も枯れるくらいに、激しく、俺を求めて欲しい。
――舜、どこにいるんだ……。
珠生は自分の身体を抱き締めて丸くなり、涙を堪えて強く目をつむった。
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