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十五、怒れる山

 珠生は、能舞台を取り囲む巨木の上にいた。  左手を腰に当てて立ち、右手を木に添える。太い杉の木から、自然の英気を感じる。珠生は微笑んだ。 「……そう、この木々はやはり結界か。ならばこの中は安全ってことか」 「血が騒ぐなぁ。今の君ときたら、まるで千珠が現世に蘇ったようなんだもの」  そんな声を聞こえてきたのを受け、珠生は下を見た。下界から連なっていた鳥居の上に、彰が腕組みをして危なげなく立っている。白いシャツが、風にばたばたとはためいていた。 「今日の君は、えらく好戦的だからね」 「当然だよ。こんなにも気分がいいのは久しぶりだ」 「今の君からは、霊気を遥かに凌ぐ妖気を感じる。……珠生と呼ぶより、千珠と呼んだ方がしっくりくるような」 「自分でもよく分からない。けど、千珠と呼ばれることに何の抵抗も感じないよ」 「ま、どっちでもいっか。そういうことは、あとでゆっくり考えよう」  佐為は笑って、木々の生い茂る山を見下ろした。そして、鳥居の下にいる敦を見下ろす。 「お前らどんだけ身軽なんじゃ! 彰、お前まで!」 「これくらいは何てことないさ。まぁ、君は下からしっかり援護してくれたまえ。憧れの千珠さまと戦えること、誇りに思うがいい」 「そら、分かっとる!! 夢のようじゃ……!!」 「……はしゃいじゃって」  彰はくくっと笑って、印を結んだ。  山が鳴り始める。  地を揺るがす程の妖の群れが、わらわらとこちらへ攻めてくる。 「……鳳凛丸の仕業なのか、なんなのか。封じられて動けなくとも、下っ端どもを遣わすことくらいは出来るってことなのか……」 と、珠生は言った。 「封印術をかけ直したいところだがね。一体鳳凛丸はどこに封じられているんだろう」 「それを探しながら、()るしかないね」  珠生は胸の前で合掌すると、左手から宝刀を生み出した。珠生がそれを右手に握り締めると、いつもよりも数段明るい光が宝刀から迸る。  珠生は枝を蹴って跳んだ。  深い森の中に飛び込み、まるで水を得た魚のように、森の中を駆け抜ける。  ――あぁ……なんて気持ちがいいんだ。  多くの妖を討伐しなければならないという場面にもかかわらず、珠生は目を閉じて空気を思い切り吸い込んだ。  ――感じる、神の森の息吹を。  珠生は目を開いた。  森の中を、黒い獣のような妖の群れが攻めてくる。一体一体が人よりも大きく、禍々しい気をまき散らしながらこちらへ向かってやってくる。  珠生は、細く微笑んだ。  音もなく枝を蹴り、宝刀を振りかざして、その群れの中に身を躍らせていった。  + +  これが、山の怒り。本物の妖……。  身体の奥底から沸いてくる恐怖で、敦の足は竦んでいた。  見える……。黒い(ひぐま)のような……形をなさない影のような獣が、こちらに向かって殺意をむき出しにしているさまが、見える。  こんなものを相手に、いつも彰は立ち働いていたというのか? 同じ人間の、しかも年下の少年のなせる技とは思えない。  ――それに……あの珠生とかいうガキの妖気。  昨日までの印象は、ひょろっこいただのガキ。しかし今は、昨日とまるで違う威圧感だ。  敦は、珠生が黒い妖を片っ端から切り裂いてゆくさまを凝視していた。  古文書に何度も描かれていた、千珠の宝刀。それを振り翳し、波寄る妖を軽やかに切り裂いている。現実に、敦の眼の前で……。  自分の絶対的な力を示すように、珠生は妖相手に戦っている。軽やかに地を蹴り、鮮やかな太刀さばきで妖を斬る。己が切り裂いた妖を蹴って樹の枝まで跳び上がり、枝を蹴って更に次の妖を切り裂く。  そしてひらりと一回転して地に降り立ち、背後から襲いかかる妖を、振り返りざま事も無げに串刺しにする。  妖の血を浴びた珠生の姿は、現代の高校生らしからぬ禍々しさを放っているが、同時に目を離せないほどに美しかった。  血を浴びれば浴びるほど、珠生の妖艶さは増してゆく。  援護など必要としないかのような動きを見つめながら、敦は息を飲んだ。 「金色旋雷(こんじきせんらい)! 急急如律令!!」  彰の声に振り返ると、彰の周りからかまいたちが生まれ、彰を取り囲んで襲いかかろうとしていた数十頭の妖が、一瞬にきて切り裂かれ霧散する様が見えた。敦はその術の強さに目を見張る。  口元に薄笑いを浮かべたまま、彰は印を結んでゆっくりと瞬きをした。 「すまないな。ちょっと道を開けてもらいたいんだ」  彰はそう口にすると、さらに違う印を素早く結ぶ。 「陰陽五行結界術・砂塵大鳥居! 急急如律令!!」  彰の目が、金色に煌めいた。  強い風が砂を舞い上げ、次々に鳥居の姿を成していく。それは山頂の社の方から山の下道まで、帰り道を示すかのように連なっていくのだ。  ずん、ずん、ずん……と重い音を立てながら地面に突き立つ鳥居が、みるみる数を増やしてゆく。彰は敦に目線をやり、大声で命じた。 「敦! 早くあの二人をつれて下へ行け!!」 「お、おう!!」  敦は急いで山道を駆け上がり、神楽殿の方へと走った。  バン、と扉を開き、中で怯えた顔をしている亜樹と、亜樹を抱きかかえている葉山の腕を掴み、二人を立たせた。 「下へ行くぞ!」  亜樹と葉山は敦の後について、全力で走った。砂の鳥居の下をひた走っていると、珠生と彰が妖を打ち払っている場面が遠目に見える。  亜樹は思わず立ち止まりかけたが、敦に強く腕を引かれて、振り返りながらも走り続けた。  珠生の着ていたタンクトップやベージュのパンツは、もう真っ赤に染まっていた。その軽やかな動きを見れば、それは珠生が負った傷から流れた血ではなく、返り血であるということがすぐに分かる。  ふと、斬り倒した妖の上に立ち、珠生がこちらを振り向いた。 「……墨田……!!」  葉山が声を上げた。  敦が視線を巡らせると、道の先で、三人が駆け下りている山道を塞がんと、妖たちが結界を破るために体当たりをしている様子が目に飛び込んできた。三人は、思わず立ち止まる。 「な……なんなん、これ……!!」  亜樹が悲鳴を上げた。無理もない。牙を剥き涎をまき散らしながら鳥居を食い破ろうとするおぞましい妖の姿を、間近で見てしまったのだ。葉山は亜樹を庇い、自らの背後に隠した。 「結界が……崩れるわ……!」 「いけん!!」  敦は咄嗟に印を結ぶと、大声で唱えた。  修行でしか使ったことのない、古来から受け継がれる陰陽師衆の術式を。 「白雷波(びゃくらいは)! 急急如律令!!」  敦の身体から真っ白な光が迸り、それが細く鋭い矢の形を成す。敦は息を飲んでそれらを見つめると、さっと妖の方へと視線をうつした。 「行け!!」  目にも留まらぬ速さで結界をすり抜け、光の矢が妖に突き立っていく。おぞましい悲鳴を上げながら、群がっていた妖がぼたぼたと地に落ちる。結界はなんとか形を保ち、鳥居の状態を成している。しかし、空間は歪み、今にも崩れ落ちそうに危うい。 「早く!! 行くぞ!」  敦は亜樹を抱えるようにして、走った。葉山の荒い呼吸が聞こえる。  車を止めていた広場まで来ると、敦は亜樹を車に押しこみ、葉山が助手席に乗り込むやいなや直ぐにエンジンをかけた。タイヤが唸りを上げ、砂利を撒き散らしながら急発進する。 「……沖野は……!?」 「あの子は大丈夫じゃ! それより、巫女の君を最優先に保護せんといけんのじゃ!!」 「人里まで降りましょう! 急いで!」 「はい!」  獣道を飛び出て、舗装された道路に出る。飛び出した拍子にタイヤがすべり、鋭い音を立ててアスファルトに黒い筋を焼き付けた。 「……あれ!!」  突如、車の前方に、ひときわ大きな黒い妖が現れた。車など一飲みにしてしまえそうな大きさだ。車ごと三人を食い殺そうと、巨大な口を開いて牙を剥いている。 「いやぁあああ!!!」  亜樹の悲鳴が車内に響く。敦は咄嗟にハンドルを切った。  車体は横滑りしながら、何とか妖を避けてガードレールにぶつかる。すぐに身を翻した妖は、四足で地を蹴って、車に飛び掛ってきた。  ――やられる……!! 「縛!!」  敦がそう思った瞬間、助手席の葉山が印を結んだ。妖の巨体がぴたりと、その場に静止した。  葉山は歯を食いしばって印を結び続けたが、妖のあまりの大きさに力が持たず、手がぶるぶると震えている。 「……なんて大きさ……!!」 「俺、出ます!!」  敦は衝撃で歪んだドアを押し開けると、外へ出て再び印を結んだ。じりじりと鉤爪の生えた手を伸ばしてくる妖の瘴気が、敦の肺を攻撃する。刺すような臭気で、喉が焼けつく。敦は思わずふらついた。 「……っぅ、なんや、これ……」 「それを吸っては駄目よ!」 「くそ……!! ぐ、はっ……」  咳き込みながらも詠唱しようと声を張り上げた瞬間、目の前にいた妖が真っ二つに裂けた。  ぶしゅうぅう……と派手に血を撒き散らしながら、どぅと妖の巨体がアスファルトの上に崩れ、湿った音を立てて倒れ伏す。  とん、と珠生のスニーカーが、車のボンネットの上に降り立つ。  白かったスニーカーは血と泥で汚れ、すっかり色を変えている。血に濡れた腕に握られているのは、まばゆい光りを湛えた直刃の剣だ。  ぶすぶす、と焦げたような匂いを放ちながら、少しずつ妖の身体が煙のように消えていく。それを見届けるかのように、珠生はしばらくアスファルトの上に横たわった妖を見下ろしていた。  敦は呆然と、珠生を見上げた。  ――美しい……。  畏敬にも似た感情と共に、敦はそう思っていた。  圧倒的な力と、目が離せない程の美しさ。それは幼い頃から描き続けていた、青葉の鬼・千珠の姿そのものだった。 「怪我はないか」  敦の方を振り向いた珠生がそう言った。敦ははっとして、頷く。  珠生は身軽に道路に降りると、宝刀を収めて車の中を覗き込む。 「ふたりは大丈夫?」 「……ええ。大丈夫」 と、葉山が血まみれの珠生を見つめて、頷く。  亜樹は目を見開き、口をぽかんと開けて呆然としていたが、珠生の姿を見た途端、その目から涙が溢れ出す。  そして、ふっと意識を失って、後部座席に崩れた。 「早く下山しろ。宿へ……人里へ早く降りるんだ」  珠生は葉山と敦に向かってそう言った。 「珠生くんは?」 「俺は鳳凛丸の封印場所を探す。柊と佐為もそちらへ動いている」 「そんなの駄目よ! すぐにみんなを呼び戻して!!」  助手席の窓から身を乗り出して珠生につかみかからんとする葉山の剣幕に、珠生は目を丸くした。 「封印場所を見つけてどうする気!? こんなことがあったのよ!? 一旦退いて、先のことを話し合わなきゃいけないわ!! 何の策も練らずに先へ進むなんて無茶よ!! 一刻も早く二人を呼び戻してきなさい!!」 「……分かった」  葉山の勢いに負けたのか、珠生はそう言って、ふっと姿を消した。  敦はその動きの素早さにも目を見張り、何度も瞬きをしては、さっきまで珠生のいた場所を見ていた。 「な……なんちゅう動きじゃ……」 「墨田、早く降りましょう」 「でも、あいつら……」 「彼らは自力で帰ってこれるわ。はやく亜樹さんを安全な場所へ保護しないと」 「分かりました」  敦は運転席に乗り込むと、ガードレールにぶつかった衝撃に耐えている車を転がした。  さっきまで道路を塞いでいた妖の体は、何事もなかったように消えていた。その上を、普通に車が通過していく。いつの間にか、封鎖されている神域から外へ出てしまっていたらしい。  一般車が現れたことで、人心地ついた敦は、ようやく少し安堵した。  敦にとって、自分の関わっている世界がどういうものか、初めてはっきりと認識した日であった。

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