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十八、衣装合わせ
彰は珠生の部屋をノックした。返事がないのは予想済みだったため、彰は勝手に部屋に入ることにした。
「解!」
印を結んでそう唱えるだけで、簡単な造りのドアはあっさりと開いた。スリッパを脱いで上がり框を踏むと、寝室とバスルームなどを仕切る襖を開いた。
「珠生? 起きてる?」
旅館の女将に握ってもらったおにぎりを盆に載せ、彰が部屋を覗きこむと、布団の中で寝息を立てている珠生がいた。彰は部屋の端に寄せられたテーブルの上に盆を置き、珠生の枕元に座り込んだ。
熱が出ていたためか、相当寝汗をかいている。熱を見ようと額に手を当てると、珠生の汗がしっとりと彰の手のひらにも付着した。熱は下がっているようだ。
目を覚ました時、それが千珠なのか珠生なのか……。彰は伏せられた長い睫毛を見下ろしていた。
「……先輩」
「……え?」
起きていたのか、珠生がふと目を開いた。彰を見上げる目は薄茶色で、その表情も口調も、慣れ親しんだ珠生のものだった。
「珠生かい?」
「……はい」
「そう……良かった……! 大丈夫?」
「大丈夫です」
珠生はそう言って上半身を起こすと、ふうと小さなため息をついた。彰は珠生のすぐ傍に座り、その背中をそっと撫でた。
「気分はどう? 今は落ち着いてるようだけど」
「……すごく攻撃的な気分だった。何でも壊せそうな気がして、血が熱くて、身体中が痛くて……」
「そっか……。でも今は、いつもの珠生だね」
「うん、そうかも……」
「本当に良かった。まぁ、久々に千珠と一緒に戦えているような気分で、楽しくはあったけどね」
「うん……俺も、楽しかったよ」
素直に微笑む珠生を見て、彰は目尻を下げる。そして、ゆっくりと起き上がった珠生の頭をぽんぽんと撫でた。
「千珠もいいけど、やっぱり珠生は素直で可愛い。ほっとするよ」
「はぁ……」
「少し休んで、霊力が戻ったのかな」
「あの……実は……」
珠生は言いにくそうに、ついさっき敦に何をされたかということを、彰に話した。彰は無表情に珠生の話を聞いていたが、ふう、と最後にため息をつく。
「なるほどね……。そんなことが」
「でも、結果的に霊力を分けてもらった形になったから、俺は今、落ち着いているわけで……」
「けど、部屋に忍び込んで寝ている君を襲うなんて。……どう仕置きをしてやろうか、あいつ」
と、彰は自分のことは棚に上げてそんなことを言った。
「仕置きとか、やめてください。……あの、このことは誰にも言わないで」
「分かってるさ。まあ、あいつの気持ちも分からなくはないし……」
「気持ち?」
「敦はね、古文書に描かれているあの時代に、それは強い憧れを抱いている。彼の親戚筋にはもうほとんど陰陽師の力を受け継ぐ者がいなくてね、宮内庁に協力をせぬまま普通の人生を過ごし、死んでいく者がほとんどだ。それはそれで幸せなことだと僕は思うけど……。
そんな中、敦は飛び抜けて強い力を持って生まれた。だからこそ、古文書にあるような活躍をしたい、持ち得た力を使いたくて仕方がない……そういうやつなのさ」
「……そうなんだ」
「ごめんね、珠生。気持ち悪かったんじゃない? もっとよく注意しておくべきだったよ」
「ううん……平気だよ。おかげで俺……ちょっと回復してるし、さ」
「うん……」
彰は力なく笑う珠生の頭を撫で、軽く珠生の身体を抱き寄せた。自分の肩口に頭を乗せてじっとしている珠生の髪を撫でて、彰は気をとりなおすようにこう言った。
「あ、そうそう。お腹すいたろ? おにぎり食べる?」
「あ……そう言えば、お腹へったなぁ」
少し遅い昼食を取る珠生に着替えをさせようと、彰はそっと珠生から身体を離して立ち上がり、押し入れから浴衣を一枚取り出した。珠生は腹が減っていたらしく、ぺろりとおにぎりを平らげ、茶をすすっている。
「湊は大丈夫なんだけど、亜樹が君の変化に戸惑っていてね……早く顔を見せて安心させてあげなよ」
「あぁ……そうでしたね」
彰は微笑みながら腕時計を見た。時刻は午後二時半だ。
もう文化保存協会の面々が来ている時間だ。亜樹の衣装合わせは始まっている。
珠生は起き上がって、シーツを剥がしたり布団を畳んだりと動き始めた。体調はだいぶ良くなっているようだ。
「君は和服がよく似合うな」
「そうかな……見慣れてるからじゃないですか?」
「そうかもね」
「俺、シャワー浴びてから下に行きますよ。協会の人に挨拶したほうがいいんですよね」
「そうだね、あとで広間に来ておいてもらおうか」
「はい」
珠生の笑顔を見て、彰も微笑む。
やはりこの子の顔には、千珠の勝気な冷笑よりも、こういう素直な笑みのほうが似合うなと思った。
+ +
広めの客室の一つの中で衣装合わせを行なっている亜樹の警護のため、湊は廊下に立っていた。共にここに立つ予定だった墨田は、車の修理をするべく市内へと降りていったのである。彰が宿自体にも強力な結界を張ったといっていたため、妖しい気配が近づいてくる様子はない。湊は退屈になって、欠伸をした。
「湊」
「珠生?」
廊下を浴衣姿で歩いてくる珠生を見て、湊は目を丸くした。
「お前……もう大丈夫なん!?」
「あ、うん……ごめんね、心配かけて」
「そうか、よかった」
湊はほっとしたように笑うと、珠生の肩をバシバシと叩いた。痛そうに顔をしかめながらも、珠生も微笑んだ。
「なんかまた色々と世話をかけたみたいだね」
「あぁ、ええねんええねん。ちょっと洗濯しただけや」
「ありがとね」
「さっきまで千珠さまぽかったのに、急に素直になられると、びっくりしてまうわ」
と、湊は眼鏡を指で押し上げながらそう言った。
「はは、そっか」
二人が廊下でしゃべっていると、すっと襖が開いて葉山が顔を出した。
「珠生くん!? もう大丈夫なの?」
「葉山さん、すみません。ご心配おかけして……」
「ううん、さっきはありがとう。おかげで、亜樹ちゃんも無事に帰ってこれたしね」
「はい」
珠生は苦笑しながら微笑んだ。そこへ割り込むように、スパーンと小気味いい音とともに襖が全開になり、亜樹が顔を出す。
珠生は目を丸くした。
亜樹は白い単衣に赤い袴をつけて、艶のある白い長羽織りを身にまとっていた。羽織りの襟には朱色の糸で縫い取りが施され、着物にも袴にも、美しい紋が織り込まれている。艶やかな衣装を身にまとい、おかっぱの髪を結い上げ多少化粧を施された亜樹は、びっくりするくらいに大人びて、綺麗に見えた。
「……沖野、なん?」
「あ、うん……。ごめんね、びっくりさせて」
珠生の穏やかな口調に、亜樹は安堵したように笑顔になった。しかしすぐにハッとして、つんと横を向く。
「び、びっくりなんかしてへんわ。ただ……あんたがやたら偉そうにしゃべるから、腹が立っただけやし」
「あ、そう。まぁ、そうだろうね」
「ややこしい奴やな」
「はいはい、ごめんごめん。きれいな服着てんだから、もうちょっと大人しくしてれば」
「重たくてしゃーないねん」
亜樹は動きづらそうに腕組みをすると、ずるずると裾を引きずって中へ戻っていく。葉山は珠生と湊の背に手を添えると、中へと促した。
「二人にも紹介しなくちゃね、霧島神宮文化保存協会の方々よ」
十二畳が二部屋続きの広い部屋の中に、五名の男女がいた。皆が一斉に珠生を見る。
「まず、会長の帯刀譲二 さん。五十年前の神事にも関わっておられた方よ」
珠生達がまず紹介されたのは、痩せ型の老人だった。穏やかな目付きには深みがあり、人生経験を積んできたものが持つ穏やかさがあった。帯刀は微笑んで、二人と交互に握手をする。皺だらけの細い手だったが、しっかりと二人の手を握る指の力は強い。
「どうも。君たちが……あの……?」
「そうです。去年は京都で活躍してもらったんですよ」
と、葉山は誇らしげにそう言った。
「そうかそうか……。こんな若いのに、すごいことだ。今回も、よろしくお願いします」
「あ、はい……」
と、珠生。
「分かりました」
と、湊も頷く。
「次に、副会長の日向光男 さん。調整役の森谷正さん」
小柄な翁、森谷はにこやかに会釈したが、大柄な日向はじっと観察するような目で二人を見ている。
襖で仕切ることのできる奥の部屋から、珠生たちの方に女性が二人歩み寄ってきた。葉山は二人の方に手を伸ばして、「衣装等を担当してくれる、船井瑞江先生と、その学生さんの帯刀瑠璃花さんよ。会長の帯刀さんのお孫さんでもあるわ。船井先生は九州大学で霧島の歴史を研究していらっしゃるの」と説明した。
「はじめまして」
船井は教育者らしい、落ち着いた佇まいの中年女性である。しかし細い金縁の眼鏡の奥にある瞳は、好奇心で子どものようにきらめいている。その隣に立って、まじまじと珠生の姿を見ている帯刀瑠璃子は、舜平と同じ年の頃に見えた。
「こんにちは……」
と、瑠璃子は小さな声でそう言った。名前の割に、えらく地味な印象の女子大生である。
「あなたたちも自己紹介して。この子達は、特別な霊力を使える子たちなので、巫女の護衛役として同行してもらっています」
葉山が面々について説明した後、促され湊が先に前に出た。
「柏木湊です。高ニです」
「沖野珠生です。すみません、こんな格好で……」
このかしこまった場おいて、寝巻きの浴衣姿の珠生は、少し肩身の狭い思いだ。自然と声が小さくなる。
「この子はちょっと調子を崩していたもので。……さて、これでみんな紹介できたかな」
と、葉山がフォローしてから、皆の顔を見回した。
衣装合わせが再開され、女性陣を奥の間へと見送ってから、葉山たちも廊下へ出た。
「今、彰くんは神楽殿近辺を見回ってくれているわ」
「一人で大丈夫かな……?」
「大丈夫でしょう。車の修理から墨田が戻って、すぐに後を追ったから」
「そっか」
「珠生くん、念のため言っておくけど……鳳凛丸の封印場所を探すなんてこと、しないでね」
「あ……はい」
「さっきまでは、それを探したくて焦っていた様子に見えたから」
「そう、なのかな……。むしろ、向こうから呼びかけられてるような感覚っていうか……」
「そうなの?」
「はい。でも、今は大丈夫ですから」
「そう、無茶しないでよ?」
葉山は困った顔で珠生を見下ろしつつも、少し微笑んだ。
「でも、良かった。いつもの珠生くんに戻って」
三人はロビーへ戻った。
「十七時から神事の内容について説明があるから、君たちも来てね。今日はもう、見廻りはいいから」
「はい」
二人は同時に頷いた。
夏は日が長い。窓の外は燦燦と太陽が照り付けている。
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