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十九、災いとは

 彰の後を追いながら、敦は必死に走っていた。  あの足の速さは異常だ。自分だって、さんざんラグビーで身体を鍛えていた。体力には自信がある。しかし、彰は細身なくせに足も速く持久力もあり、まったくついていくことが出来ない。  不意に立ち止まった彰に何とか追いつくと、ぜいぜい息が上がって大汗が流れる。敦はふらつきながら、その横に立った。  そこは日陰で、苔むした岩がごつごつと重なった場所だった。細く流れる湧き水があり、小さな滝からチロチロと涼しげな流水の音がする。  そのすぐ脇に、茶色く変色した注連縄を頂いた、小さな牌のようなものが佇んでいた。一メートルほどの高さである。  彰は無表情にそれを見下ろして、周辺を見回した。 「……なんじゃこれ」 「……分からない。でも……嫌な感じがする」  彰は石碑の前にしゃがみこむと、苔むしたその石が何であるか探ろうとした。しかし彰の探知を嫌がるように、その石碑から禍々しい瘴気が流れだす。  はっとした彰は敦を突き飛ばして、自分もさっと後退した。 「いてて……何するんじゃ!」 「吸うな!! 瘴気だ!」 「なっ……」  敦の身体を押して、その石碑から三メートルほど離れると、彰は素早く印を結んだ。 「この瘴気がこれ以上漏れ出さないように、結界を張っておく」 「なんなんじゃこれ……」 「応急処置にしかならないだろうが……」  彰の張った立方体状の結界の中に、瘴気の霧が立ち込めていく。青白い、不気味な霧だ。真昼の太陽の下にありながら、結界の中はまるで積乱雲の中のように荒れ始めた。バシッ、バシッと稲光にも似た閃光が生まれては、結界を破ろうと攻撃している。 「一旦戻ろう……これを皆に伝えておかないと」 「ああ」  ふたりは山道を下りながら、しばらく沈黙していた。道路に止めた車の所まで戻ると、二人はすぐさまそれに乗り込んだ。  心地良い温度に保たれた車内で、人工的に舗装された道路を走っていると、先ほど見た光景が嘘のようだった。敦は未だに混乱していた。自分が今まで平穏に生きてきた世界とは、あまりにもかけ離れたことが起こっている。 「敦。珠生においたしちゃったんだって?」 「うっ……なんで知っとんじゃ……」 「馬鹿なことはするもんじゃない。君の気持ちも分からなくはないが、あの子は君が簡単に手を触れていい存在じゃないんだからね」 「……そんなん、分かっとる。でも、」 「言い訳無用。戻るぞ」 「……おう」  彰は、まっすぐに前を見たままそう言うと、それ以上はもう口を開かなかった。  あまりに威圧的で、高慢な口調。しかし彰の戦いぶりと術式の見事さを目の当たりにしてしまった今、それに腹を立てる気にはもうなれなかった。  +  +  彰と敦が宿に戻ってきた時は、すでに帯刀譲二によって神事の説明が始まった頃であった。  そっと広間に入った二人を、帯刀は微笑んで迎え入れ、座るように手で示した。 「五十年前の夏、私は十八歳だった。戦争が終わって……日本は徐々に豊かさを取り戻しつつある時代でね、九州は穏やかな日々が続いていた」  帯刀は遠い目をして、窓の外の深い森を見つめていた。 「あの日のことは忘れもしない。当時巫女を務めていた女性は、ふみさんという女性でね。ちょうど亜樹さんと同じ年の頃だった。彼女は東京からやってきて、この地で神事を行った。  まず、神呼びの舞を舞い、神をこの地に呼び寄せる。巫女の舞と楽しげな音楽で、祭り好きな太古の神々をこの地に呼び戻すんだ。次に、捧げのまじない。これは、この身体をお貸しするから、我々に神託をお与えくださいというお願いをするという儀式……これは、私が行うよ。そいて最後に、神降ろしの舞」  帯刀は亜樹を見た。亜樹は真剣な顔で、帯刀を見ている。 「いよいよ神をその身に降ろす、大切な舞だ。そして神から、神託をいただく」 「その五十年前の神事で、鳳凛丸を封じよという神託が下ったわけですか」 と、彰が尋ねた。 「……そうだよ。私たちはそれに従うしか術がないのだ。……西の陰陽師衆達が封印術を行ったが、その場所は明確には示されていない。どんな術を用いたか、どんな反応を得たのか、それは我々には知らされていないのだ。しかしその後五十年、この地は平和に保たれている。うまく事が運んだということなのだろう」 「一九九一年に、雲仙普賢岳が噴火して四十名程度の人命が失われてますよね、それでも”平和”と言っていいんですかね」 と、更に彰は重ねて言った。 「あれは立ち入り禁止区域に進入したマスコミ関係者が大部分だ。むしろ人災といってもいい」 「鳳凛丸を封じていなければ、もっと大規模な災害になっていたと思いますか?」 「……やれやれ、記者会見みたいだね」  立て続けに意地の悪い質問をする彰を、皆が振り返って見ている。帯刀は苦笑するしかない。  彰は肩をすくめた。 「別に責め立てているわけじゃありませんよ。ただ、この地において神と等しい力を持つ鳳凛丸を封じたという事実を、皆さんがどう捉えているのか知りたいだけです」 「……成る程」  今まで黙り込んでいた日向が、顔を上げて彰を見た。九州男児らしいいかつい顔立ちの日向に睨まれれば、大抵の者は押し黙ってしまいそうだったが、彰は余裕の笑みを浮かべたまま、その威圧的な目を見返している。 「君が佐為様の生まれ変わりか……。やはり少し、妖に親しんだ考えをお持ちのようですな」 「まあ、ひとつの意見ということで。今回、また鳳凛丸の結界を張り直すにしても、こちらにも心構えというものが必要ですので」 「……七十年前に起こった桜島の噴火……あれのせいで私は両親を失った。当時、山を破壊する人間に怒りを募らせた鳳凛丸がその噴火が起こしたという話がまことしやかに囁かれた。……たかだか妖一匹の不機嫌のせいで、一体どれだけの人命が奪われたと思う」 「鳳凛丸にそんな力があるんですか?」 と、珠生。 「あいつがやったかやらないかはこの際どうでもいい。要は、天災というやり場のない怒りをぶつけるための相手があればそれでいいのだ」 と、日向はぎろりと珠生を見た。 「神や妖というのはそもそもそういう存在だろう。人間の常識を超えた事件や災害が起こった時、やり場のない怒りや悲しみをぶつけるべき相手としてそこに在るもの。怒りの矛先を向けることのできる相手、攻撃できる対象がいればそれでいい。それで人は、心の平穏を保つのだ。そして、いいことがあれば神や妖を崇め奉る……人と神との関係は、そういうものだろう?」 「ま、否定はしません」 と、彰。 「五十年前の神託で、鳳凛丸を封じよと言われた時、あぁ、やはりと思った。噴火も両親の死も、やはりあいつのせいだったのだ。危険な妖がいるから、あんな天災が起こったのだとな」 「あなたも術式に加わった? あなたは陰陽師の血をお持ちのようですが」 「あぁ、もちろんだ。私に大した霊力はないが、微力ながらも協力したくてな。両親の仇だ、喜び勇んで参加したさ。討てるものなら、その場で退治したかったがな、さすがに力が強く、封印するので精一杯だったのさ」 「そうですか……」  彰はそれだけ言うと、もう何も言わなかった。帯刀は彰と、興奮して鼻息の荒い日向を見比べて、咳払いをした。 「……それだけこの土地において、神託は重いものなのです。今回、一体どんな神託が降りるか、全く見当もつきません」 「うちが……それをやるってことやんな」  一連の流れを見ていた亜樹は、やや怯んだようにそう言った。帯刀は微笑んで亜樹の前に正座した。 「君が恐れることはなにもないよ。ただ、力を貸して欲しい。ふみさんも、最初は怯えていたがね、立派にこの役目を全うしてくれた」 「……そうなんや」 「とりあえずは、明日からの舞の稽古を頑張りましょうな」 「はい……」  亜樹は少し、気が重そうに頷いた。 「鳳凛丸の封印が弱まっているといったね……そうなったからと言って、それを締め直したりはしないでおいて欲しいんだ。ひょっとしたら、封印を解くようにという神託が降りるかもしれないのだからね」  帯刀がそう言うと、日向がきっとなって帯刀を睨みつけた。きっとこの二人の間には、長年にわたって思想の違いがあるのだろうと、珠生は感じた。  彰も冷静な目でそんな二人を見ながらこう言った。 「でも、神事を邪魔する妖は、退治して欲しいんでしょ?」 「……そういうことです。あなた方にしか頼めないことだ」 と、帯刀が言いにくそうに彰にそう言った。 「あわよくば、鳳凛丸も倒して欲しいと?」 「いいえ……そこまでは言いません。きっとそれは、道理に反することだと思うので……」 と、帯刀。 「ふぅん……。まぁいいや。ただ、協会全体の歩調くらいは合わせておいて欲しいもんですね。じゃないと、また面倒事が増えそうだ」  彰はちらりと日向を見て、そう言った。日向は険しい顔で彰を睨み続けている。  あまり友好的とはいえない雰囲気に、皆がじっと黙りこむ。亜樹は不安そうに彰と日向を見比べていた。 「まぁまぁ、落ち着いて下さい」  と今まで大人しく黙っていた船井瑞江が苦笑しながらそう言った。 「私には、皆さんのおっしゃる妖というものが見えませんから、天災は天災でしかありませんけど……。今回の神事でそういうことが少しでも予防できる手立てが分かるのならば、とても有効なものだと考えますね」  よく通る声で、船井は穏やかに笑みを浮かべながらそう言った。隣で瑠璃花が頷いている。 「それが無事に終わるように、みんなで力を合わせましょう。皆さん色々とお考えがあるようだけれども、神事の成功を一番に考えましょうよ」 「……それはまぁ、その通りだ」  帯刀は頷いた。彰も肩をすくめ、日向はじっと硬い顔で窓の外に目をやった。  そろそろ日暮れに傾いてきた太陽の色が、徐々に濃い色へと変わっている。 「とりあえず、今日はこのあたりでお開きにしましょう。亜樹さん、舞の稽古は私がいたしますので、明日からよろしくお願いしますね」  帯刀は亜樹の前に座ったまま、膝の上に拳を乗せて一礼した。慌てて亜樹も礼を返す。 「よろしくお願いします……」  中途半端な空気のまま、打ち合わせは終了した。  珠生はどっと疲れを感じて、正座していた脚を崩す。 「あいたたた……」  足が痺れて、珠生が情けない声を出していると、亜樹にじろりと睨まれた。 「緊張感ないやつやな、阿呆!」 「……ごめん」  思わず、珠生は素直に謝った。

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