154 / 533
二十、影の妖
夕食後に、珠生は湊、彰と共に温泉に浸かっていた。
ごつごつした露天風呂の縁に頭を乗せて仰のいていると、薄い群青色の空に、きらきらと星が姿を現しはじめているのが見える。
「まったく……考えが甘い。昼間見つけたのが鳳凛丸の封印だとしたら、放っておいてどうにかなるようなレベルでもないんだけどな」
「日向さんは陰陽師なんですよね? なかなか強硬な思考の持ち主みたいやけど」
「そのようだが、霊力の強さは大したことない。だから肌で感じることができないんだろう、この山全体の不安定な気を」
「なるほど」
珍しく少し苛ついた口調の彰に、湊が相槌を打っている。珠生はそんな話し合いを聞きながら、ぼんやりと考えていた。
ふたつの妖しい石碑。山頂付近で湊が見たものはともかく、ついさっき彰が沢で見つけたものは、かなりの禍々しさを放っていたという。結界で抑えられているものの、その正体が分からないためどうすることも出来ない。
神事が終わるまでは放っておくしかないという状況だが、またいつ妖を使って山を荒らすか分からない。
「あと、珠生を先に返す件も、考えないといけないし」
と、彰は空をみあげている珠生を見た。
「……もう遅いんじゃないですか?すでに目覚めて、瘴気まで出し始めているんでしょう?」
上を向いたままそう言ったので、間延びした声になる。
「それなら、俺はここで天道さんを護る方に回ったほうがいいと思うんですけど……」
ひょいと首を戻して、珠生はぼんやりとした湯煙の向こうに見える彰を見た。濡れた髪をオールバックにしている彰が、うーんと唸る。
「君の身体が心配なんだよ。今日みたいなことを繰り返したらどうする」
「……それは……困るけど」
「千珠の妖気は、霊気を消耗している君の身体には毒なんだよ?」
「うん……でもなぁ。天道さん、ずっと不安そうな顔をしてたから……」
湊がびっくりしたような顔で、珠生を見た。
「え! お前はあいつの心配をしてんのか!?」
「うん。あれ、なんか変?」
眼鏡をしていない湊の顔を初めて見た珠生は、まじまじとその顔を見つめた。普段太いフレームの奥にある目は、思ったよりも精悍で、整っている。
「湊、眼鏡しなきゃいいのに。もったいない」
「おい、今はそんな話ええねん」
まるで緊張感のない珠生の口調に、湊がむっとしている。
「ごめんごめん。……でも、今このタイミングで俺が抜ければ、また天道さんは動揺すると思う。そうなると、うまく神事も運ばないんじゃないかな」
「それはそうだな……。僕は気味悪がられているし、湊は彼女が苦手だし、葉山さんは忙しいし、敦は論外だし」
「でしょ。気軽に文句が言える人間は減らないほうがいいと思うんだよね。湊のためにも」
「……うーん」
湊と彰が同時に唸った。
「今は防戦に回って、神事が終わるのを見守るのが一番な気がする」
「珠生がこんなに意見を言うなんて、珍しいな」
と、彰はざばりと湯から上がり、露天風呂の縁に座ってそう言った。タオルを腰に巻き、ほんのりと朱に染まった長い脚を組む。
「……俺の祖先の祖先がやらかしてるんですから、仕方ないです」
と、珠生は苦笑する。
「まぁ君が、そんな風にゆったり構えててくれると、なんだか僕もほっとするな」
と、彰は髪をかき上げて微笑む。なめらかな肌に、玉のような汗が光っている。
湊は暑そうにしながら湯船から出ると、湯上りの肌を涼ませるために設置してある檜のベンチに座った。湊の肌もすっかり赤く染まっている。
「あっつー。真夏の温泉もええけど、長湯はできひんな」
「珠生、昨日はえらく早く上がったくせに、今日はどうしたの?」
と、未だに湯船に浸かっている珠生を、彰は不思議そうに見ていた。
「あ、そういえば……熱いな」
「何やってんだか」
と、彰が呆れる。
「考え事してたら、つい……俺、出ます」
珠生はふらふらと湯船から上がると、腰にタオルを巻きつけて脱衣所へと進んだ。途中、ふらりとよろめいてはまた歩くということを繰り返す。
白い肌が、まるでゆでダコのように真っ赤になっているのを見て、湊はまた呆れ顔をする。
「何してんねん、のぼせてるやん。俺も上がるわ」
「僕も……風呂で会議はやめたほうがいいな」
身体を拭い、新しい浴衣に身を包んだ珠生は、ふらふらと扇風機の前に座り込む。涼しい風が、珠生の火照った肌を少しずつ冷ましていく。湊がスポーツドリンクを珠生に差し出すと、珠生はぼんやり何度か瞬きしてから、それを受け取った。
「ありがとう……」
「大丈夫かいな」
「はは、可愛いね、珠生は」
すでに身支度を整え、タオルで髪を拭いている彰がそう言って笑った。
ふと、そんな彰の笑顔がすっと引いていく。湊も、異様な空気に表情を険しくし、辺りを見回している。
「なんか……いるな」
「はい」
「……え?」
珠生はのぼせてしまって気分が悪く、二人の感覚についていけない。ばたばたと脱衣所から露天の方へ舞い戻って外へ出ていく二人を、珠生は慌てて追いかけた。
彰はひょい、と露天風呂を取り囲んでいる岩の上に跳び上がると、ぐるりと辺りを見回した。その横に湊と珠生も立つ。
「昼間のとは違う……夜闇に紛れて、薄気味悪いのが来たみたいだな」
彰の言葉に、珠生の頭はようやく回転し始める。鼻をひくつかせてみると、ようやくその異様な匂いを嗅ぎ取った。
「一、二、三、四……四匹。形がわからない……影みたいな妖です」
「低級なやつだから、僕の張った結界をすり抜けたんだ。宿に入り込まれたら面倒だ。行こう」
「はい」
「僕と珠生は外だ。湊は葉山さんに伝えて、敦と一緒に中を見ていてくれ」
「はい」
湊が即座に中へ駆け込んでいった。彰と珠生は裸足のまま、露天風呂の裏山へと身を躍らせる。
真っ暗な闇に包まれた裏山は、ひどく不気味だ。ふたりは足の裏から伝わる大地の震えや落ち葉のさらりとした音に、感覚を研ぎ澄ませながら山を走った。
珠生は何かを感じ取り、脚を止めた。彰もその場に立ち止まる。
「いた」
まるで人の影がそのまま逃げてきたような形をした、ひょろりと手足の長い妖がいた。ふらふらと儚げに揺らめきながら動く姿は、ひどく不気味だ。珠生達に気づいた妖は、逃げるかと思いきやその場に佇んでじっと二人を観察しているようだった。
珠生が胸の前で合掌し宝刀を抜くと、妖は怯えたように体を震わせてその場から去ろうと動き出す。珠生は地を蹴ると、妖の首元に宝刀を振り下ろした。
手応えという手応えはないが、くぐもった低い悲鳴をあげて、妖は消えた。
「一匹……」
と、着地した珠生がそう呟く。着地した瞬間、のぼせて頭に血が上っている珠生は、ふらりと地面に手をついた。
「ちょっと、大丈夫かい?」
「はい……これくらい」
「北に二匹……僕が行くよ。君は宿の方を警戒してくれ。もう一匹はそっちにいるかもしれない」
「わかりました」
がざがさっと走り去っていった彰の背中を見送ってから、珠生は宿の方へと駆けた。ふわふわとした落ち葉の感触が、足の裏から伝わってきて気持ちが良い。
宿の明かりが見えてきた途端、空を切り裂くような悲鳴が聞こえた。珠生ははっとして、速度を上げて宿へと駆けた。
ガシャン!とガラスの割れるような音がして、妖の匂いが強くなる。
珠生は露天の方からひらりと宿に舞い戻ると、脱衣所を抜けて館内を走った。
「亜樹ちゃん!!」
葉山の悲鳴に近い声が珠生の耳に突き刺さる。急いで広間の方へと走ると、襖を蹴倒して中へと飛び込んだ。
そして、目を見張る。
外で見た妖は小物だったのにもかかわらず、今亜樹を絡めとって締め上げている影の妖は、えらく巨大だったのだ。
「天道さん……?」
「珠生、あかん! 天道の力吸って、急にでかなったんや。あいつの身体と近すぎて、攻撃できひんねん!」
宝刀を振りかざした珠生の腕を、湊が強く掴んで制止をしながらそう叫んだ。敦も葉山も、打つ手が無い様子だった。
「なんやねんこいつ……!!」
亜樹が必死にもがいている姿を見つめながら、珠生はじっとその妖を睨みつけた。亜樹の身体を宙に持ち上げるほどの力をつけているらしく、じりじり、と亜樹を羽交い締めにしたまま、反対側の出入口から外へ出ようとしている。
「……沖野……!これ、何……!?」
「大丈夫だから、 落ち着いて」
「これが落ち着いてられる状況かボケ!」
「そんな口がきけてりゃ、大丈夫だな」
「や、いやぁあ!!」
珠生が一歩近づいたことで、妖が弾かれたように襖をぶち破って外へ出ていった。向かった先はロビーだ。そのまま行けば、宿の外へ出ていってしまう。
珠生は咄嗟に後を追ったが、体全体を亜樹に絡みつけている妖を攻撃する手立てがない。珠生は舌打ちをして、思った以上の速度で逃げる妖を追った。
ふら、と目眩がする。珠生は一生長湯なんかするもんかと心に誓いながらも、吐き気を堪えて走り続けた。
宿の門扉をひらりと超えて、妖が道路へと飛び出した。
ジャージとTシャツ姿の亜樹は手足や腰を妖に絡め取られたまま、悲鳴を上げている。外に出ると、妖はまた一回り大きくなったように見えた。この山全体を包み込む強い力が、妖にさらなる力を与えたようだ。
しかし身体が大きくなった分、攻撃できる部位が増えた。珠生は木々のトンネルに囲まれたような細い道路を裸足で追いかけながら、地面を強く蹴った。
ひらりと空中で一回転し、宝刀を逆手に持つ。着地と共に、アスファルトの上を引きずっている妖の一部に宝刀を突き立てる。道路に杭打たれた妖がくぐもった悲鳴を上げ、身動きできなくなったことに驚いて暴れた。
「きゃあぁあ!!」
亜樹の身体が地上から二メートルほどの高さで宙ぶらりんになっている。珠生は宝刀を手放すと、もう一度地を蹴って亜樹を妖から抱き取り、そのまま道路に着地した。
珠生の腕に抱えられた亜樹は、間近で見る珠生の戦いぶりに目を丸くしていた。こんな状況の中であったが、思いの外力強い珠生の腕や掌が、しっかりと自分を守ってくれていることに安堵する。
「下がってろ」
じっと妖を見据えたまま、珠生はそう言って亜樹から手を離し、後ろにぐいと押しやった。暗がりの中だというのに、へたり込んだ亜樹の目には、珠生の背中があまりにも眩しく見えた。
そこへ彰が浴衣を翻してひらりと現れ、亜樹の側に膝をつく。
「大丈夫かい?」
「先輩……」
「佐為は天道さんをもっと離れた場所へ。ここは危険です」
「分かった。戻るぞ」
彰は亜樹をさっと抱え上げると、これまた思いもよらぬ身の軽さで山の中へとひらりと飛び込んでいく。自分を抱えていとも容易く獣道を駆け抜ける彰のことを、亜樹は呆気にとられて見上げていた。
ともだちにシェアしよう!