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三十三、土毘古
夜が深くなる、その瞬間。
土毘古はようやく緩み始めた結界のたわみに、思い切り体当たりをした。
バチバチッと鋭い音が響き、薄い硝子のような結界が脆くも崩れ落ちる。その中に封じられていた瘴気がどっと外へ流れだし、辺りの草花が灰褐色に色を変え萎れてゆく。沢を泳いでいた小さな魚たちが、ぷかぷかと川面に白い腹を見せる。
ざっ……、と土毘古は鉤爪の生えた長い指のついた脚を、一歩その地に踏みしめた。その周りに落ちていた落ち葉が一斉に巻き上がり、土毘古の身体を覆うように吹き荒んだ。
汚れた衣をまとった、茶色く乾いた大きな身体。粗末な衣から覗くのは、盛り上がった胸筋。禍々しくも鋭い鉤爪の生えた大きな手、長い指。そして、般若の面を模したような、世にも恐ろしい面構え。土毘古は完全にその姿を、月灯りのもとに晒した。
オオオオオオ……!!!
薄汚れた灰色の髪を振り乱し、土毘古は空へ吠えた。ざわざわざわ……と山々が呼応するように騒ぐ。
そこここで、土の中から黒く暗いものが湧き上がる。土毘古の分身、山の影たちだ。以前珠生や亜樹たちを襲った、形のない不気味な妖。
――ゆけ……あいつらを喰え……
土毘古の声なき命令に、ざわざわざわ……と影たちが走りだす。
土毘古は鋭牙ののぞく口を歪めて笑った。禍々しく伸びた牙のせいで締まりきらない大きな口から、だらりと涎が流れ落ちる。
――鳳凛丸の子孫……あの美しい子どもを、喰ってやろう。強力な妖気を秘めた、あの白い体を真っ赤に引き裂いて、喰ってやろう。
土毘古は自由になった身体を縮めると、思い切り地を蹴って走りだした。
神事の行われる、天孫降臨の地へと。
+ + +
彰と珠生は、同時に目を上げた。
時刻は二十三時。一行はちょうど、山頂の拝殿に到着したところであった。
先に山へ登っていた文化保存協会の面々や、雅楽隊のメンバーがいそいそと立ち働いて準備をしている。
会長の帯刀と副会長の日向は、神楽殿の下で何やら話し合っている様子だ。帯刀は、連れてきたスタッフらしき若者たちを指揮して、神事の舞台を整えているところであった。
船井瑞江と帯刀瑠璃花が一向に一番に気付いて歩み寄ってきた。寝起きの亜樹を見て苦笑する。
「さて、形だけだけど……中でシャワー浴びて、支度をして瞑想に入りましょう」
「……はい」
二人の姿を見て、そして能舞台が着々と装飾されていく様子を目にした亜樹の顔に、緊張と不安の入り混じった色が浮かぶ。亜樹は無意識に、隣を歩いていた珠生の黒装束の袖を掴んだ。
「……どうしたの?」
「あっ……」
亜樹はぱっと手を離して、珠生から目をそらした。珠生の含み笑いが聞こえる。
「緊張してんだ」
「……してへんわ」
「大丈夫だって、気軽にやってくれば?」
「軽っ。反応軽すぎやろアホか!」
「はいはい。まったく、ほんと口が悪いんだから……。大丈夫、何も起こらないよ」
と、珠生が微笑みながらそう言った。亜樹は珠生のきれいに整った両の目を見る。
「もうあんな怖い目には遭わせないから」
「……」
いつになくきりりとした珠生の目つきに、大きく心臓が跳ねた。珠生は穏やかな声で続ける。
「天道さんは神事にだけ集中してりゃいいよ。早く行っといで」
「……うん」
「お、素直な返事」
「う、うっさいねんエノキのくせに!」
そう言いつつも、亜樹は少し力が抜けたように微笑んだ。深呼吸をして、船井たちと拝殿へと入っていく。
皆の見守る中、拝殿の扉が閉じた。辺りは、篝火に照らされて橙色に揺れている。光の向こうの闇は、いつにも増して深いように思えた。
舜平はいつになく男らしく亜樹を励ます珠生を見て、ちょっと笑った。湊も同じような顔をしている。
彰は辺りに目を配りながら、黒装束に着替えた美波と徳人に声をかけた。
「……すぐにここら一帯の絶対防御結界陣を強化してくれ。すぐそばまで来ている」
「はい」
二人は頷き合って、足早に駆けて行った。珠生はすっと目を細めると、今しがた登ってきた百連ねの鳥居の方を見やった。
山が騒がしい。珠生は、今までは感じなかったおぞましい妖気が流れ始めているのを嗅ぎ取っていた。
「佐為」
「ああ」
敦は、珠生の目の色がすぅっと琥珀色に変わる瞬間を見た。先日この地に来た時に現れた、千珠のような鋭い目つきだ。今しがた亜樹をなだめていた珠生の目付きとは程遠い、好戦的で冷ややかな鬼の目をしている。
「珠生、君は結界円陣の中から出るな。また妖気が爆発するぞ」
「分かってる」
「舜平、敦。君たちは平気だろうから、ちょっとそのへんを見まわってきてくれ。絶対に、二人離れずにね」
「おう」
二人は目を見合わせると、鳥居の方へと走りだした。
+ +
この時期にしては異様に冷たい風が、山をぐるぐると駆け回っていた。たまに突風が生まれ、木の葉を鋭く二人にぶつけてくる。
早足に山の様子を観察しつつ、舜平はここへ来た日に見た影の妖の気配を思い出していた。あれは霊気や妖気を吸い取るタイプの妖であり、直接攻撃しかできない珠生にとっては苦手な類の妖だ。珠生に近づけるわけにはいかない。
その時、舜平の脳裏に、パリン……と割れる硝子のイメージが浮かび上がった。それと同時に、足元を駆け抜ける冷たい風が一層冷たくなる。
「……結界が、破れた」
「え?」
舜平の呟きに、敦がはっとする。
「土毘古、佐為が封じてたやろ。あれが破れた。こっちに来る」
「すぐ戻って、防御を厚くするぞ。土毘古が目を覚したってことは、山がまるまる敵になったってことじゃ!!」
「分かった」
二人は駆けた。きっと彰も珠生もこのことに気づいているはずだが、それでもあの場所を守れねば意味が無い。二人は連なった鳥居の中へ飛び込むと、ひたすら坂道を登って山頂の社殿を目指した。
しかし、そんなに遠くに来たつもりはなかったのに、いけどもいけども鳥居の終わりは見えない。それだけではなく、徐々に鳥居の周りは夜闇よりも暗い、とっぷりとした闇が立ち込め始めていた。
はぁ、はぁ……と走る二人の吐息だけが、辺りに響く。さっきまで聞こえていた風の音も、ざわざわとした木の葉の擦り合う音も、今は何も聞こえない。
「……これは、幻術か」
と、敦が困惑している。かと言って立ち止まるわけにも行かない。なぜなら、背後から、ねっとりとした闇が、粘度を持ってのろのろと二人を追いかけてきているからだ。まるで、二人を飲み込まんとしているかのように。
舜平はちらりと背後を振り返り、舌打ちをした。
「くそ、いつの間に」
舜平は走りながら、なんとか意識を集中させると、印を結んで声高に唱えた。
「解!!」
一瞬、黒い闇が途絶えて、外の世界がちらりと見えた。しかし、それはすぐに圧倒的な量の暗闇に飲み込まれ、消えていく。
「なかなかいやらしい術つこてくるやんか」
「どうすんじゃこれ……ちょっとやばいんじゃないんか?」
敦は徐々にその恐怖に呑まれつつある。眼の色が闇に囚われはじめ、霊気に淀みが見られるようになってきた。舜平はそんな敦を見かねて、厳しく喝を入れた。
「おい! しっかりせえ! これしきのことで呑まれるな!!」
「でも……この闇に飲み込まれたら、絶対死ぬに決まっとる! こんな、こんなもん相手に、」
「でかい図体しとるくせに情けないこと言うな!! そうやって俺ら混乱させとるだけや!」
「でも……」
「千珠と戦いたかったんちゃうんか! これくらいのことで負けてたら、あいつには一生ついていかれへんぞ!!」
千珠の名を聞いた敦の目が、微かに光を取り戻す。舜平は息を弾ませ走りながら、続けた。
「あいつの役に立ちたいんやろ!? 偽物の陰陽師の俺が気に入らへんねやろ!? 俺に勝ちたいんやろ!?」
「お前に……勝つ、やと?」
「お前は本物の陰陽師なんやろ!? これくらいのことでぴーぴー泣き言言うてる情けないやつが、千珠の力になんかなれるわけないやん! どアホ!!」
敦の額に青筋が浮かび、その大きな目にぎらりと光が戻ってきた。舜平はちょっと笑って、敦から逃げるようにひたすら前を向いて走った。
「黙って聞いてりゃお前……誰が情けないっていうんじゃ!?」
「お前以外に誰がいんねんアホ!!」
「さっきからアホアホってお前……まだガキのくせにクッソ生意気な奴じゃのお!! 社会の厳しさ教えたろか!?」
「わざわざ教えてもらわんでもなぁ、乗り越えてきた修羅場の数はお前になんか負けてへんねん! ハゲは黙っとれ!!」
「なんじゃとぉ!? このスタイリッシュな髪型が分からんのか! これやから粉モンばっか食うとる大阪人は!」
「どんな偏見やねん! それに俺は京都人や!!」
「京都も大阪も変わらんじゃろうが!! 関西弁が耳障りなんじゃ!!」
「はぁ? 関西弁馬鹿にすんなよ! それを言うならお前の広島弁も耳障りや! 何言ってるか分からへんねん!!」
二人が走りながらどうでもいいことを言い争っていると、しゅっと空気を切るような音が二人の耳をかすめた。
ぎゃぁああああ!! と、耳をつんざく叫び声に二人が後を振り返ると、二人を飲み込もうと追いかけていた影に、一本の破魔矢が突き立っていた。
「しゃがめ!! ドアホが!!」
湊の鋭い声に、二人はとっさに身を伏せた。続けざまに破魔矢がどす、どす、と影に突き立ち、さらに高くなる悲鳴とともに影は消えた。
二人の目線の先に、鳥居の下で矢をつがえてたっている湊がいる。
湊は弓を下げると、指でぐいと眼鏡を押し上げた。
「お前らがくだらんこと言い争ってるから、狙いが定まらへんかったやろ! よう当たらへんかったな、二人とも」
に、と勝ち誇ったように笑う湊を、二人は呆然と見上げた。よく見ると、舜平の衣の肩先が少し裂けている。ここをかすって、矢が突き抜けていったのだ。
舜平は少し青くなった。ちょっとでもずれていたら、きっと顔にあたっていた。
「悪運だけは今も強いようやな、舜平」
「カッコつけよって……」
そうは言っても、いつも絶妙のタイミングで降ってくる湊の矢は心強い。悔しいが、今は少しだけ湊をかっこいいと見なおしてしまう。
「……助かったわい」
敦は素直にそう言って、急いで鳥居を抜ける。舜平もその後を追って、再び拝殿の方へと戻った。
しかし、そこに彰と珠生の姿はない。
「あの二人は?」
と、舜平は湊に尋ねた。
「本殿の裏手に、鳳凛丸封じてある場所があんねんて。そっちへ向かってる」
「鳳凛丸の封印を解くつもりなんか?」
と、敦。
「ちゃう。お前らがくだらん言い争いしとる間に、土毘古がここに姿を見せたんや。二人はそれを追っていった」
「大丈夫か、それ、罠と違うとやろうか」
敦が息を整えながら、そんなことを言った。舜平と湊は目を見合わせる。
「……俺が行く。お前ら二人は、ここでみんなを守れ」
そう言い終わらないうちに、舜平は駈け出した。
珠生が心配だった。
鳳凛丸と珠生、二人揃ってその封印場所へ行く事が、妙に不安なことに思えたのだ。
舜平は砂利を跳ね上げながら、広い境内を横切って走った。
その時、木々の奥から轟音が響いてきた。
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