166 / 530

三十二、神事当日・昼食

 細く水の流れるじめじめとした沢の辺りで、土毘古(つちひこ)は思うように動かない身体を必死で蠢かしていた。  己の分身である影の妖を使い、この山で勝手を働こうとする人間たちを脅かして山から追い出してやろうとしたが、逆に深手を負わされてしまった。土毘古が巣に戻り身体を休めていた所を、陰陽師によって封じ込められてしまったのある。  しかし、これは急ごしらえの簡単な結界術だ。もう少し力が戻れば、こんなものは容易く破れる。そう思っていた。  土の中を這い回る低級妖怪たちを喰らいながら、土毘古は時期を待っていた。しかし、妖気はなかなか高まらない。  この強力な妖気。大地を震わせるのは、神気と妖気のないまぜになった鳳凛丸の力。それが少しずつ目覚めつつある……。  ――あの忌々しい、美しい妖。我を蔑み、我を踏みにじる高慢な鬼……。  先の神事によって封じられた鳳凛丸を見て、土毘古は大いに笑った。自分の天下がやってきたと思った。  土毘古は、自分の醜い土気色の手を見つめた。くろぐろとした長い鉤爪と、かさかさにかわいて皮膚のめくれた茶色い手足。大きく曲がった鼻も、落ち窪んだ瞳も針のような黒い髪も、忌々しかった。  鳳凛丸の輝くばかりの美貌を見るにつけ、その強大で涼やかな妖気を感じるにつけ、土毘古は我が身の醜さと宿命を呪った。未来永劫、この茶色く重たい土の中から羽ばたくことなどできない。地に縛り付けられ、光り輝くものを羨むことしか出来ない。あの青く青く高い空を見上げながら、そこに手を差し伸べることしかできないのだ。  ――鳳凛丸など、ずっと暗い地の中で眠り続けていればいい。さすれば、この山は我のもの。誰にも邪魔だてされることなく、神聖なる山を支配することができるというのに……。  恐らく、今回の神事を期に鳳凛丸は再び空へと放たれるだろう。それは土毘古にとって、喜ばしい事態ではない。  神事を邪魔し、神聖なる霊気を持った巫女を食えば、きっと自分はもっと高貴な存在になれる。土毘古は夢想的にそう信じきっていた。  そうすれば、あの鳳凛丸と並ぶ力と美しさを手に入れる事ができると信じていた。  そのためにも、この結界を破るのだ。  土毘古は有らん限りの力を込めて、自分を取り囲む透明な硝子の箱を攻撃し続ける。    + +  帯刀譲二、瑠璃花、そして珠生、舜平、湊、敦、亜樹。さらに、もうすぐ到着する予定の藤原徳人と葉山美波たちの食事が支度された広間は、いつもよりも賑やかである。  てきぱきと仲居たちの準備を手伝う湊と珠生は、仲居達にすっかり気に入られていた。  舞の稽古でへとへとの亜樹にうちわで風を送ってやりながら、舜平はそんな二人を眺めている。 「マダムキラーやな」 と、舜平。 「ほんまや。あいつら同年代にはいまいちもてへんけど、ああいう構いたがりのおばちゃんらにはほんま人気あるな」 と、亜樹も頷く。 「いまいちなん? 亜樹ちゃんはああいう奴らはタイプじゃないんか」 と、舜平はからかうようにそう言った。亜樹はぶすっとする。 「沖野みたいな男女、いやや。柏木も、小うるさいから嫌」 「あははは、そうか。そうかもな」 「学校でも沖野は観賞用ってポジションやねんで。柏木はよう分からへんけど」 「観賞用ねぇ。まぁ、珠生はきれいな顔してるからな」 「顔はな。うちはあんな猫かぶった男いやや」 「猫かぶってんのか? 学校で?」 「うちにはめんどいことめっちゃ言い返してくるくせに、他の人らにはニコニコニコニコ。ほんま腹立つ」 「ふうん。まぁ確かに、あいつは結構生意気やしなぁ」 「そうやろ?」  亜樹は舜平が同意してくれたことが嬉しいらしく、笑顔を見せた。  とそこへ、葉山美波と藤原徳人が現れた。見たことのない顔に、亜樹が少し警戒しているのが舜平に伝わってくる。舜平は亜樹に、二人のことを説明してやる。 「へぇ、葉山さんの妹!? 全然似てへんな!」  葉山美波は相変わらず、華やかな出で立ちである。ふわふわとしたパーマをかけていた頭は、長いストレートヘアになっており、幾分落ち着いているようにも見えたが、惜しげも無く晒したショートパンツから見える脚や、ゆるく肩をのぞかせたかぎ針編みのニット姿は、こんな山奥よりもリゾート地が似合いそうな格好である。対する藤原徳人は当たり障りのないポロシャツにチノパンという、いたって地味な格好だ。  舜平を見つけた美波は、ぱっと表情を輝かせて駆け寄ってきた。舜平はぎょっとして、辺りを見回して隠れるところがないか探した。しかしそんな場所があるはずもなく、すぐさま舜平の前に座り込んだ美波は、長い睫毛をぱちぱちと上下させた。 「舜平くん! 久しぶり! 元気だったぁ?」 「あ、どうも……」  亜樹が驚いて美波を見ていることには頓着せず、美波はじりじりと舜平ににじり寄っていく。 「あの後、結局デートできずじまいだったしさ、今度こそしようね!」 「いやだから、俺は……」 「なに、もう新しい彼女出来ちゃった?」  「いや、そうじゃないけど……」 「ちょっと、いきなり現れて何やねんあんた」  ずい、と亜樹が美波の前に立ちはだかる。美波は驚いて、四つ這いで舜平に迫っていた姿勢から正座に直る。 「……あら? あなた。こないだの子とは違うんだ」 「誰やねん、こないだの子って」 「俺の双子の姉だよ」 と、珠生がテーブルに茶を並べながら口を挟む。舜平は冷や汗をかいて珠生を見ると、女二人から逃げ出そうと立ち上がった。 「舜平くん、年下にえらくモテるわね」 と、美波がしげしげと和服姿の亜樹を見てそう言った。 「葉山さんの妹か誰か知らんけど、舜兄にべたべたせんといてよ」  ふくれっ面で美波を睨む亜樹の言葉に、珠生や湊が驚いていた。 「舜兄やって。舜平お前、いつの間にあのややこしいやつを手懐けたんや」 と、湊がテーブルの端に座っている舜平を肘で小突いた。 「手懐けたって……そんなんちゃうし」 「はいはい、喧しいよ、君たち」  最後に部屋に入ってきた彰が、手を叩きながらそう言った。何度見ても、黒装束の彰は様になっている。  皆が慌てて机につくのを見て、彰は少し微笑む。 「さて、まぁ皆知らない顔じゃないだろうが、藤原さんの弟君、徳人さんと葉山さんの妹君、美波さんが応援に来てくれた。二人は神事の際、あの山の上にある拝殿及び神楽殿周辺の結界を張ってもらうことになっている。初日にあんなことがあったからね、防御系の術式はできるだけ施しておきたいと思う」  引き続き、彰はその日の午後のことを話し始めた。  午後の稽古の後、亜樹はしばらく休息を取る。そして、午前零時より、禊の儀として拝殿へと入ることになっていた。  本来は滝などに打たれて俗世の垢を落とすのがならわしであるが、今回亜樹が山に一人でいることは非常に危険であるため、拝殿での瞑想に切り替えることになった。  要するに、拝殿に備えられたシャワーを利用した後、じっと座っていればいい……と彰は簡単に言った。 「皆も、午前零時までは交代で眠るんだよ。まぁ皆若いから、多少起きてても大丈夫だろうけど」 「上の社殿まで、無事にいけるでしょうか」 と、湊がそう言った。 「この間のように、僕が道を付ける。なんとかなるよ」 「いよいよ今夜か。見廻りの陣形は?」 と、舜平。 「能力のバランスから、珠生と湊。舜平と敦、僕と葉山さん、と言ったところかな。徳人さんと美波さんも僕についてきて」 「はい」 と、徳人。 「はーい」 と、美波は軽い口調だ。  敦はちらりと舜平を見た。舜平も、その視線に反応して敦を見る。二人共、好意的な目つきではない。  皆が昼食を食べ終える中、ずっと説明しながら喋っていた彰は遅れて食事を取り始めた。正座している彰の元へ、鳳凛丸が近寄ってきた。  珠生や湊は、徳人や美波との再会を懐かしみながら、色々と話をしていた。舜平も亜樹と話をしている。そんな皆の目を盗むように、子猫は彰の膝の上に乗った。 「……なんだい。お腹すいてんの?」  ふわふわとした毛並みを膨らませて、鳳凛丸は不服そうな目つきをした。そんなことを言いに来たのではない、という顔だ。 『加勢してやってもいいぞ。飯の礼だ』 と、鳳凛丸は低い声でそう言って、器用に魚をつついている彰を見上げた。 「……どういう風の吹き回しだい? 君は人間が嫌いなんじゃないの?」 『人間はな。でも、可愛い子孫にも会えたし、お前も私に近しい匂いがする』 「猫に同じ匂いとか言われたくないんですけど」 『黙れ。それに何より、神々は私の祖でもある。その神事を邪魔立てはされたくないからな』 「ふうん……。ま、そうかもね。君は珠生のそばに居てくれ。ここへ来てから気が安定しないからな」 『いいだろう』  ひょい、と白猫は再び珠生の方へと歩いていった。猫と喋っている彰をしげしげと見ていた敦は、平然と食事を続ける彰にこう言った。 「お前ってさ、ほんと変な奴じゃけど、やっぱすごいんじゃな」 「なんか素直に喜べないな」 「あの猫、一応ここいらを統べる大妖怪とやろ?」 「そうだけど……猫だし。それに……」  鳳凛丸がさっきから葉山にひっつきもっつきしていることが気に入らない。彰はぱく、と白飯を口に運びながらそう思った。  鳳凛丸もわかってやっているのか、今も珠生たちといる葉山の膝の上に寝そべっている。ぴき、と彰のこめかみに青筋が浮かんだ。 「終わったら、祓ってやろうか」 「やめとけやめとけ。これ以上面倒はごめんじゃ」  敦は顔の前で蝿でも払うかのように手を振って、彰の膳から漬物を摘んだ。

ともだちにシェアしよう!