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三十一、猫かぶり
雅楽隊の奏でる音が、広間の中から聞こえてくる。つい一時間ほど前から始まった音合わせの稽古だった。
五名から成る編成の雅楽隊は、鳳笙、楽琵琶、振鼓、和琴、楽筝の五つの楽器で音楽を奏でるのであるが、それらを操る面々のほとんどが高齢であった。
鳳笙を担当する一人だけが代替わりしており、帯刀瑠璃花の同じ研究室に所属する男子学生が担当している。
そんな様子をしばらく見学していた珠生と舜平であったが、亜樹の着付けが終わり、稽古が始まると同時に廊下へと出てきた。
休憩を取るのか、着付けを終えた帯刀瑠璃花が廊下へと出てきた。そして、そこに立っている黒装束の珠生たちに気づくと、やや頬を染めてペコリと会釈し、そそくさとロビーの方へと駆けて行く。
「結構様になってるやん、亜樹ちゃん」
「うん、そうだね。なんか顔つきも変わってきたような気がする」
「厳島の巫女の血かぁ……俺は厳島へは同行せぇへんかったから、緋凪殿には会わずじまいやったな」
「結界術のために睦月島にいたんだよね。……あれはすごい術だった」
月夜の瀬戸内海を覆い尽くす、氷の結界術。その術があったからこそ、千珠は海神を退けることが出来たのだった。
舜平は廊下の先に見える大きなロビーの窓を見やり、微笑む。
「お前のための術式やなんて知らへんかったからな。気づいたときはびっくりしたわ。……まぁ、龍を退けるなんて、お前にしかできひんかったやろうけど」
「まぁね」
珠生はすこし微笑みかけて、ふと、隣に立つ舜平をちらりと見上げた。何事もなかったかのように、腕組みをしてそこに立つ黒装束の舜平を、珠生は改めてしげしげと観察した。
……背、高いなぁ。俺も少しは伸びたのに……。
不意に今朝のことが思い出されて、珠生は人知れず赤面した。そして、舜平からぷいと目をそらし、廊下の床板を見つめる。
「あの……よろしかったら、これ」
ふと、女の声がした。そして、すっと二人の前にペットボトルのお茶が差し出される。見ると、そこには瑠璃花が立っていた。
「ずっと立っておられるみたいだから……」
「あ、すいません。いただきます」
舜平は笑顔でそのお茶を受け取ると、珠生にも一本渡す。珠生も微笑んで、ぺこりと会釈した。
なんとなく三人並んでお茶を飲むことになった。するとすぐに、舜平は瑠璃花に話しかけ始める。
「九大の人なんやってね。何回?」
「あ、三回生です……」
「ほんならタメやわ」
「あ、そうなんや」
同級生とわかってすこし緊張がほぐれたのか、瑠璃花の表情が緩んだ。こぶりな目鼻をしており、地味な顔立ちをしているが、肌は白くマシュマロのようだ。少しだけ茶色く染めた髪が、肩の下あたりでゆれている。ジーパンにポロシャツというラフないでたちのためか、ふくよかな体つきや胸が大きさがとても目立っている。
「京都から……来たんよね?」
「そうやで」
「どこの学校行っとると?」
「京大。こいつの親父さんのゼミ生やねん」
「へぇ……すごいねぇ、頭よかねぇ」
二人が各々の大学について話をしているのを、珠生はなんとなく聞いていた。初対面の人とこんなに話ができるなんてすごいなぁと、社会性の豊かな舜平のことが少し羨ましく思った。
「ほんまに、変わった力があると?」
と、瑠璃花は舜平と珠生を見比べながらそう尋ねた。
「うん、まぁ多少な」
「へぇ……すごかねぇ。嘘みたい」
「気づいたときは、頭おかしなったんかとおもったけどな」
「そうっちゃろうねぇ」
舜海と楽しげに話をして、徐々に笑顔の増えてくる瑠璃花を見ていた珠生は、徐々に瑠璃花の眼差しがきらめいてきていることに気づいた。珠生の目から見ても、舜平は爽やかで見目がいいし、この気さくで明るい性格と喋り方は、誰とでもすぐに距離を縮めることができるだろう。千秋や亜樹を始め、女性たちがすぐに舜平に懐く理由もわかる。
これがモテるってことか……と珠生は笑顔の舜平を見上げた。
「じゃあ、うちまた亜樹ちゃんの衣装直しに入るね。珠生くんも、またね」
と、最初とは打って変わって明るい笑顔になった瑠璃花が、珠生にも笑顔を見せて広間へと入っていく。珠生は舜平を見上げた。
「……何や?」
「舜平さんって、社交的だよね」
「そうか? まぁ、お前より数年長く生きてるからな」
「舜平さんって、ほんと意外とモテるよね」
「はぁ? 何を言い出すねん。ほんで意外とってどういう意味や」
「千秋といい、美波さんといい……さっきの瑠璃花さんだって、目つき変わってたよ」
「喋りやすいだけやろ」
「あれから彼女、いなかったの?」
と、珠生は吉田梨香子のことを思い出しながらそんなことを尋ねた。佐々木猿之助に憑依され身体を操られた、舜平の元恋人だ。
舜平は少し気まずげな顔をして、珠生から目をそらした。
「そら、な。梨香子をあんな目に遭わせたんやし」
「あ、ごめん……」
あの事件については、舜平の中でも傷になっているということを悟った珠生は、それを掘り返したことを申し訳なく思った。謝る珠生を見て、舜平は微笑む。
「そんな深刻な顔すんな。お前が気にすることちゃうしな。それに俺はお前のお守りで手一杯やで」
舜平がぽんと珠生の頭に手を置く。
「……お守りって言うなよ」
「お前は世話が焼けるからな」
「うるさいな」
珠生がぷいとそっぽを向くのを見て、舜平が笑う。その足元で、にゃあと猫の声がした。
二人が驚いて足元を見ると、鳳凛丸が小さくおすわりをして二人を見上げていた。
「鳳凛丸さま……どうしたんです」
珠生が跪いて恭しくその名を呼ぶのを、舜平は尚も違和感を覚えつつ見つめていた。相手はどうあれ、見た目は子猫なのだ。ほとんど妖気も感じられない小さな猫に敬語で話をしている状況は、異様である。
『腹が減ったぞ。魚が食いたい』
「魚ですか? 分かりました」
「お前、女どもの前では猫かぶりよって。その生意気な口はきかへんのか?」
と、舜平は鳳凛丸にそう言った。
『猫が猫をかぶって何が悪いというのだ。お前ら、あの髪の長い女には逆らえぬと見て、あの女を味方にしておけば損はないと判断したのだ』
「……さすがです」
「亜樹ちゃんにもか?」
と、舜平。
『あれは巫女だろう。私はあの霊気がどうも苦手でならん』
「天道さんに触られれて、固まってましたもんね」
と、珠生が笑いながらそう言う。
『やかましい。……しかし、ここはなかなか快適だ。しばらく世話になるぞ』
珠生に甘えるように、鳳凛丸は身を擦り寄せてそう言った。珠生は鳳凛丸が可愛くてしかたがないという笑顔を浮かべると、その小さな体を抱き上げた。
「可愛い」
「……」
白い子猫をかわいがっている珠生が可愛らしく、舜平は少し赤面する。いつになく幼い笑顔を浮かべている珠生を、ついつい抱きしめたくなってしまう。
『……なんだ、貴様も私に触りたいのか』
と、鳳凛丸が舜平を見上げてそんなことを言った。舜平ははっとして、鼻を鳴らす。
「ふん、そんなわけあるか」
『いやらしい目をしよって、そんなに愛らしいか、この私が』
「お前を見てたんとちゃうわ」
『私以外に何を見ていたというのだ』
「それは……」
舜平の言わんとする事に気づいた珠生が、舜平を生温い目で見上げた。
「……舜平さん」
「やかましい! 俺は何も言ってへんやろ!」
「鳳凛丸さま、行きましょう」
珠生に抱えられた鳳凛丸が、再び勝ち誇ったような目つきで舜平をちらりと見る。舜平はむっとして、厨房の方へ歩いて行く珠生の背中を見送った。
猫と張り合うなど、馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
「あ」
そういえば、さっき彰もこんな顔をしていたっけ。
舜平はそんなことを思い出しながら、腕組みをして廊下に立っていた。
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