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三十、戸惑い
珠生はふらふらと、朝食前に宿の周りを歩いていた。見廻りとも散歩とも言えない、あてどもない歩みだった。
あの後すぐに、珠生は舜平の部屋から自室へと戻り、シャワーを浴びて黒装束に着替えた。突然告げられた舜平の気持ちに気恥ずかしさを隠しきれず、逃げたと言ってもいい。
帯をぎゅっと締めると、弛緩していた気持ちが引き締まる。珠生は暗い部屋で目を上げると、朝日の漏れいる障子の隙間を見つめた。
――愛してる……
その言葉と舜平の眼差しを思い出すだけで、顔が熱くなり鼓動が速まる。気を抜けば緩みそうになる顔を引き締めて、黒装束の胸をぐっと掴んだ。
舜平の気持ちは、痛いほどに感じていた。たとえそれが言葉にならなくとも、珠生を抱く舜平の手つき、眼差し、ため息の端々で、舜平の気持ちを感じていた。それはとても心地よく、とても幸せな感触で……。
かつて千珠であった頃、何度も舜海から与えられた愛の言葉。千珠自身が抱き続けていた、舜海への感情……それをリアルに思い出す。
明確な形を求めるでもなく、求められるまま千珠を抱き、自身の感情や願望を口にしなかった舜海の献身。
そして、ただただ我儘に舜海を振り回し、溢れるように与えられる愛情に何かを返すわけでもなく、慈愛に満ちた眼差しを見て見ぬ振りをし続けた、己への後悔……。
でも、今は。今なら、珠生と舜平を隔てるものは何もない。舜平もまた、珠生に明確な関係性は求めてこなかったが、珠生自身、舜平に感じる気持ちは全く同じもの。珠生が応え、舜平の存在を手繰り寄せるならば、かつて望んでも手に入らなかったふたりの未来が、手に入る。しかし。
――……俺は舜平さんと、どうなりたいんだろう……。
これ以上、舜平さんに何を求める。俺はあの人に、何を与えられるというんだろう……。
幸せなはずなのに、つかみどころのない戸惑いが胸に浮かぶ。珠生はなんとも言えない気持ちで、朝日の眩しい森の中を裸足で歩いていた。
羽虫が目の前を通りすぎていく。朝陽とともに鳴き出した蝉の声が、わんわんと耳の中にこだまする。
『無防備だな、人の子よ』
音も気配もなく、子猫の姿の鳳凛丸が珠生の前に現れた。珠生は立ち止まって、鳳凛丸を見下ろした。
「……鳳凛丸さま」
『どうしたというのだ。呆けた顔をして』
「……い、いいえ、なんでもありません」
珠生はしゃがみこんで、鳳凛丸の頭を撫でた。鳳凛丸の金色の目が、朝日に透けて美しくきらめく。きっと千珠の眼の色も、こんな感じだったのだろうと珠生は想像した。
「何もありませんでしたか? 昨夜は」
『ああ、しっかりと結界も張ってあることだしな。なかなかいい術者じゃないか』
「ええ、当世一番の陰陽師の生まれ変わりですから」
『あの狐目だな。油断ならない目つきをしているが、お前は信頼しているのだね』
「はい、とても」
『ならばよい』
珠生は微笑んで、鳳凛丸を抱き上げる。指先で喉を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らした。
「……かわいい」
『五月蝿いぞ。本物の私は、それはそれは優美な姿なのだからな』
「きっとそうなのでしょうね」
珠生の笑顔を見上げて、鳳凛丸は目を細めた。人間ならば、ため息をついているような表情だった。
「お腹が空きませんか? 宿で何か食事をもらいましょう」
『人間どもの集う場所など、私は行かぬとも言ったであろうが』
「でも、こんな小さな子猫じゃあ、食べ物もろくに取れないでしょう? 鳳凛丸さまは良くても、この憑坐の身体が持ちませんよ」
『うむ……』
鳳凛丸はしばらくなにか考えている様子であったが、ごそごそと珠生の肩によじ登った。
『それもそうだな。お前がそこまで言うなら連れていくがいい』
「分かりました」
珠生は微笑んで、鳳凛丸を肩に乗せたまま宿へと戻った。
+ +
「駄目じゃないの、珠生くん。捨て猫なんて拾ってきちゃ」
と、ベージュのチノパンに白いブラウス姿の葉山は、珠生が猫を抱えている姿を見るなりそう言った。
「あ、いやその……この子は捨て猫ではなくて……」
「捨て猫にしてはきれいな猫ね。どこかの宿で飼われたのかしら」
葉山は腕組みをして、珠生の腕の中にいる子猫をしげしげと見つめた。鳳凛丸はじっと何も言わず、葉山を見上げて大きな目を瞬きする。葉山は怪訝な表情を浮かべ、首を傾げた。
「ん? なんだろ……この猫、猫なの?」
珠生はぎくりとした。やはり、葉山の目はごまかせないのだろうか。珠生が何か言い訳をしようとした瞬間、鳳凛丸が高くか細い声でにゃあと鳴いた。
すがるような目つきで葉山を見上げ物欲しそうににゃあにゃあと何度か鳴くと、葉山は急にがらりと目つきを変えて、愛おしげにその子猫を撫でた。
「あらあら、お腹が空いてるのね。厨房へ行って、なにかもらわなきゃ」
「え、いいんですか?」
「だってこんなに小さいんだもの、仕方がないわ」
葉山はツンとした口調の割に鳳凛丸を撫でる手つきが優しい。きっと本当は猫好きなのだろうと珠生は思った。
「ミルクでいいのかしら。それとも、何か……」
ロビーを抜けて厨房の方へと歩き出した二人の方へ、亜樹が近づいてきた。一人で着物を着られない亜樹は、まだ浴衣姿だった。
「葉山さん、広間の準備できたよ。……って、なにそれ? 猫?」
「あら、亜樹ちゃんありがとう。……そうなのよ、珠生くんが拾ってきちゃって」
「かわいい!」
亜樹は目を輝かせて、鳳凛丸のほうへ駆け寄ってきた。珠生の腕の中で、鳳凛丸がさっと緊張するのが分かった。亜樹が巫女だと気づいたのだ。
しかし亜樹は目を輝かせて鳳凛丸の頭を撫でる。鳳凛丸は強張った身体を珠生に擦り寄せて、じっとしていた。
「……怖いの?」
思わずそう尋ねた珠生を、鳳凛丸はじっと見上げて何度か瞬きをした。そんなことはない、と言っているような目つきだった。
「抱っこさせてよ」
「あ、うん……。天道さん、猫好きなんだ」
「あんまり触ったことないけど、前住んでた家の裏に来てた野良猫に、よう餌やっててん」
「ふうん」
あの巨大で寂しい家の中、きっとその猫たちだけが彼女の心の拠り所だったのだろう。珠生は鳳凛丸を亜樹に渡しながら、ふとそんなことを考えた。鳳凛丸は固まったまま亜樹の腕に抱かれている。
「よしよし……あ、ご飯あげるんやっけ」
「うん。とりあえず牛乳をさ」
「じゃあ二人で行ってきてくれる。私、女将さんに朝食の準備をお願いしてくるから」
「はい」
二人は同時に返事をして、厨房の方へと向かった。
かくして、広間の片隅に新聞紙を広げ、その上でミルクをぺちゃぺちゃと舐める小さな子猫が朝食の席を共にすることになった。
事情を知っている舜平、彰、敦は呆気にとられて鳳凛丸を見ていた。そして、鳳凛丸のそばで楽しげに餌を与えている珠生と亜樹を見て、さらに目を丸くする。
「……なんでここに」
と呟きながら、彰は葉山の隣の座布団に座った。葉山は珠生たちを眺めてため息をつく。
「お腹空いてるみたいだったし、あんなに綺麗な猫ってことはきっと飼い猫よ。女将さんに言っておいたから、そのうち誰か引き取りに来るわ」
「そうかな……」
「なんか変な感じのする猫だけど……でもほら、可愛いじゃない」
彰は葉山を見た。なにか勘づきかけている様子ではあるが、鳳凛丸はあの可憐さを利用して、葉山をたらしこんだのだろうと彰は思った。
「……葉山さん、猫好きなの?」
「べ、べつにそんなことないわよ。でも、お腹好かせてにゃあにゃあ鳴いてる子猫を見殺しにするのも気分が良くないでしょ?」
「……なるほど」
舜平と敦も目を見合わせた。
「猫をかぶるとはまさにこのことやな」
「誰に取り入ればいいか分かってやってるあたりがさすがじゃ」
「何言ってんねん、さっきから」
と、湊は訝しげにそう尋ねつつも、猫が気になるのか立ち上がって広間の窓際へと歩いていった。
「朝食べてへんやろ、二人とも」
いつになく仲良く二人並んで座り込み、鳳凛丸を眺めている珠生と亜樹に湊はそう声をかけた。
「あ、うん。食べなきゃね」
「よう飲んでるわぁ。やっぱりお腹すいててんなぁ」
と、いつになく優しい口調の亜樹を、湊は意外そうに見ている。
「ミルクだけでええんかな」
と、亜樹は珠生に尋ねる。
「あとで本人に聞いてみるよ」
「え、本人?」
「あ、いや……ネットで調べてみるよ」
「ふうん」
鳳凛丸は珠生があたふたと言い直すのを見兼ねてか、うさんくさそうに珠生を見ている亜樹の膝によじ登ってきた。亜樹は急に目つきを甘やかなものに変え、鳳凛丸を優しく撫でている。亜樹の膝の上で寛いでいる鳳凛丸が、ちらりと珠生を見上げた。
皆の食事中、鳳凛丸は珠生の膝の上で大人しく丸くなっていた。ちらちらとその姿を気にしている彰や舜平などお構いなしだ。
「ご飯あげたら、また外に出しておくのよ。今日は京都から美波と徳人さんが来るし、雅楽隊の人たちも来るから」
「あ、はい。……でも、この暑さで外に出しておいて大丈夫かな」
「そうねぇ……」
猫には甘い葉山を見かねて、「猫は大丈夫だよ。一番快適な場所を探す能力に長けているんだから」と、彰が口を挟む。
顔を上げた鳳凛丸がにゃあと鳴き、テーブルの下をくぐって葉山の膝の上へとやってきた。そしてきらきらとした大きな金色の目で葉山を見上げ、またみゃぁと鳴く。
「まぁ可愛い。ここが一番快適なの? 良いタイミングでこっち来たわね。しょうがないから、せめてロビーに置いておいてあげましょうか」
葉山が目尻を下げて膝の上にいる鳳凛丸を撫でているのを見て、彰はぴく、と眉間にしわを寄せた。鳳凛丸は隣りにいる彰をちらりと見上げて、勝ち誇ったように大あくびをした。
すると彰は鳳凛丸の首根っこを掴んで持ち上げ、じっとその顔を覗きこみ、どことなく不機嫌な顔でこう言った。
「君ね、一体どういうつもりでここに来たんだ。人間のいる場所には来ないって言ってなかったっけ?」
鳳凛丸は何も言わず、ただ彰を眺めていた。そのふてぶてしい顔に、彰はぴく、とまた眉を動かす。
「何やってんの、彰くん?」
「先輩が猫に話しかけてはる」
と、湊がびっくりしたような顔で彰を見る。
「珠生、どういうこと?」
と、彰は鳳凛丸をぶら下げたまま、今度は珠生にそう尋ねた。珠生は苦笑して、
「あ……子猫だし、餌取れないかと思って。子猫の身体が持たないかなと……」
と言った。
「まったく、甘いんだから」
いつになく不機嫌な彰の手から、鳳凛丸が身をよじって逃げ出した。そして、また葉山の膝へとよじ登ると、ちらりと彰を見る。
「……この」
珍しくこめかみに青筋を浮かべる彰を見て、葉山は笑った。舜平も吹き出して、「猫と狐が喧嘩しとるみたいやな」と言った。
「五月蝿いよ、舜平。狐って僕のこと?」
「そうや」
「まったく……。妙なことしたら、叩き出すからな」
と、彰は鳳凛丸に釘を刺す。
「先輩にも苦手なもんがあるんやな……」
と、亜樹がのんきに呟いた。
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