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三十六、巫女を守る

 葉山は咄嗟に目を閉じた。  今の衝撃で結界は大きくたわみ、あちこちに小さな亀裂が入ってしまった。葉山の作る結界はもう限界だ。あんなにも禍々しい瘴気をもろに浴びては、葉山自身も、今葉山の背後で守られている雅楽隊の人々も、ただでは済まない。 「葉山さん、落ち着いて」  彰の声がして、葉山はぎゅっとつぶっていた目をうっすらと開いた。目の前に、黒い袴がはためいているのが見える。  葉山の結界を保護するように、彰が防御結界を張っているのだ。両手の人差し指と親指で三角形を描く印を結んだまま、彰はちらりと葉山を見下ろす。 「術を解いてもいいですよ。僕が代わろう」 「……彰くん」 「土毘古の相手は珠生に任せる。……山の気が不安定な今、少しでも防御を固めておかないとここは危ない」 「い、いいわよ。私が……」 「もう大して霊力が残ってないでしょう? 誰の治療に当たるか分からないんだ。温存しておきたまえ」 「でも……」 「僕を頼れって、言っただろ」  彰は葉山に背を向けたまま、強い口調でそう言った。葉山は印を解いて、脱力する。あと数秒遅かったら、きっと葉山の結界は崩れてしまっていただろう。 「……すみません。……ありがとう」 「謝罪は不要だ」  彰はそう言って、じっと土毘古と対峙する珠生を見つめた。  +  +  先ほどの爆発を受けて、拝殿の天井と壁が一部崩れている。むき出しになった拝殿の内部を土毘古がちらりと窺う一瞬を、珠生は見逃さなかった。 「おい、どこ見てる。お前の相手はこっちだ」 『……貴様はなぜ、人間に(くみ)するのだ』 「お前には関係ない」 『鳳凛丸といい、お前といい……その美しい姿、忌々しい』 「……それが?」 『鳳凛丸は、この山を統べていた高名な妖・日向埃(ひむか)姫が、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)と契りを結んで生んだ存在だ。そしてその日向埃姫は、この我の母でもある』 「……兄弟、ってことか」 『……あいつは神の力をその身に宿し、母に似た美しい姿、自由な身体……我の欲するもの全てを持っているというのに……我は、この(ざま)』 「欲しいもの……?」 『……あの空を見ろ、美しい星空だ。美しい太陽に、青空……我がどんなに手を伸ばしても、そこに手は届かない』 「……」  珠生は刀を構えたまま、じっと土毘古の般若の面を見ていた。 『この地に縛り付けられることでしか、生きて行けぬこの身。そして、この醜い姿を見ろ……神から授かった命は同じというのに、この扱いの違いは何だろうな。鳳凛丸の光、自由な翼、眩しくて眩しくて……我のいる世界がどんどん闇に呑まれていくような気がして、憎らしい』  静かにそんなことを話していた土毘古の目が、微かに凶悪な光を宿す。 『だから、殺したくて殺したくて仕方がなかった……でも、叶わなかった……何故なら、あいつは神によって封じられてしまったからだ! 手の届かない場所へ、幽閉されてしまったからな!!』  珠生が攻撃態勢をとる。土毘古の笑い声が地面をゆらす。 『その隙に、巫女を喰ってさらなる力を得るのだ!! これから神を宿す身だ、さぞかし美味だろうなぁ……あっはははは!』 「ふざけるな。そんなことをさせるものか……!」  ふっと、珠生の姿が消える。  一瞬で間合いを詰め、土毘古の頭上に跳び上がった珠生は、その茶色く巨大な身体を袈裟斬りに斬りつけた。身動きすら出来なかった土毘古の身体から、どす黒い血が吹き出す。恐ろしい悲鳴と、血が地面に飛び散る湿った音が響く。  珠生は地面に降り立つと、踵を軸にぐるりと身を翻しながら刀を逆手に持ち替え、銀髪をなびかせて刃を土毘古の腹に突き立てた。刃を抜きざま地を蹴った珠生は、刀を横一文字に振り抜いて、土毘古の胸に深手を負わせた。大量に噴きあげる血を避けるように珠生は土毘古から距離を取り、砂利の上に身軽に降り立った。  傷を負いながらも、土毘古は己を鼓舞するかのように、空に向かって咆哮を上げた。  +  +  敦は、物語で読んだ世界が目の前に広がっていることに、ただただ言葉も無く見ていることしか出来なかった。  長く美しい銀髪をきらめかせる舞のような戦い方といい、血を浴びて尚も美しさを増す神々しいまでの姿といい、敦が想像していた以上にそれは見事なものだった。  気づけば巫女装束の亜樹も、崩れた壁の向こうから、その姿に惹きつけられていた。普段の穏やかな珠生からは想像もつかないような強さは、まさに鬼神の如き猛々しさ。それなのに、銀色の光を纏う珠生は、まるで神の使いのようにも見える。  ――すごい……。  亜樹の鼓動が高まるにつれ、その身に宿る霊力が高揚する。そに呼応するように、土毘古の目が、ぎらりと光った。  傷つき、血で汚れた身体をぐるりと拝殿の方へと向け、巫女を食わんと拝殿に踊りかかっていく。  そこを護っている敦と舜平たちは身構えた。しかし、我を忘れて猛然と拝殿に突っ込んでくる土毘古の身体を止めきれず、拝殿の結界は硝子が割れるような音と共に脆くも崩れ落ちてしまった。 「く……!!」  咄嗟に土毘古の拳を結界術で受け止めた舜平であったが、あまりの力量の違いに体中の骨がきしみ悲鳴を上げる。 「くっ……そぉおお!!」 『巫女……巫女だ……食う……食うぞォォォ……!!』  涎をまき散らしながら突進してくる土毘古に怯えた亜樹は、拝殿の壁にぴったりと背をつけて震えていた。このままでは、あの鋭いかぎ爪が亜樹の身体を引き裂くだろう。恐怖のあまり動くこともできず、亜樹はただただ呆然と、悪夢のような光景を瞳に映すことしかできないでいた。  しかし次の瞬間、土毘古の額に破魔矢が突き立った。崩れかけた拝殿の天井の上から、ひらりと湊が拝殿の床に着地し、亜樹の前に立った。そして舜平も、すぐさま湊の隣に立つ。  一旦足を止めた土毘古は、破魔矢を引き抜き床に叩きつけると、憎々しげに湊を睨みつけている。 『邪魔をするな……!! 貴様らまとめて食ってやる……!!』  土毘古が咆哮とともに、舜平と湊を蹴散らして亜樹へと突進してきた。そこからの風景は、まるでスローモーションのようだった。  湊に撃ち抜かれた般若の面が、ぴしぴしとひび割れていく。  面の下から覗いたその顔は、当たり前の人間のような顔だった。  鋭い鉤爪が亜樹を襲わんと振り下ろされる。  その瞬間、亜樹は懐かしい匂いと優しい体温を感じていた。  銀色の髪が、ぱらりと亜樹の頬にかかる。  そして目の前で閃く鮮血と、青緑色の明るい光。 「陰陽五行・百花繚乱!! 急急如律令!!」  彰の凛とした歌うような声と、眼を見張るほどに輝かしい術。  倒れ伏した土毘古の上に光り輝く槍が降り注ぎ、その巨体を地面に縫い付けた。  ずん……という地響きが、あたりを静かに包み込む。

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