172 / 533

三十八、再び結ぶ絆

『馬鹿なやつ。あんなにも肥え太りやがって。あのような重い体で、空など飛べるわけもなかろうに』  時刻は午前零時十分前だ。鳳凛丸の姿が徐々にはっきりとしたものになってくる。珠生はその姿を見上げて、息を飲んだ。  たっぷりとした銀色の髪は、腰の下まで覆い隠すほどの長さ。真っ白な肌、天女と見紛うほどのまばゆい美貌。そして額にきらめく、赤い石。  千珠と鳳凛丸の顔立ちは、驚くほどによく似ている。  裾を引きずる白い長羽織には、優美な紋と赤い糸の縫い取りが色鮮やかだ。土毘古を乗せた掌を覗き込みながら、鳳凛丸は微笑んだ。 『懐かしい姿だ。土毘古』  鳳凛丸は珠生の前に跪くと、にっこりと艶やかに微笑んだ。そしてすっと手を伸ばし、珠生の頭を優しく撫でる。実態を伴っていない鳳凛丸の肉体は、ふわふわとした綿菓子のような感触である。 『珠生。傷を負わせて、すまなかった』 「鳳凛丸さま……お美しいですね」 『ふん、言ったろう? 本物の私はとても優美な姿なのだと』 「ふふ、本当だ」 『まさかお前に私の記憶が流れこむとは思ってもみなかったが……。良かった。遠い遠い昔のことを、私自身も忘れていた。私は嬉しい。数少ない(かぞく)を、ようやく取り戻せたのだから』  鳳凛丸は、肩に蛇を載せて、珠生の頬を撫でた。 『さぁ、神事を行うがいい。神々を待たせてはいけない』 「……はい」 『私はしばらく消えるとしよう。また瓊瓊杵命に叱られるのは真っ平御免だからな。そのついでに、この夜空を土毘古に見せてやろう』 「それがいいです」 『お前の矢で面も割れて、さぞかし空がよく見えることだろうさ』  鳳凛丸は、弓を担いでいる湊を見下ろして微笑んだ。湊は呆然と、鳳凛丸の美しい姿を見上げている。 『そしてお前、珠生を癒せるのはお前だけだろう? 後を頼んだぞ』  不意に鳳凛丸にそう言い渡された舜平は、はっとして、頷いた。鳳凛丸はその後ろに立っている彰と葉山の方を向き、笑顔を見せた。 『女……お前の膝はなかなか心地良かったぞ』 「……へっ?」 『みるく、というのもなかなか美味であった』 「そういうのはいいから。急いでるならさっさと逃げたら?」 と、彰がつんけんしたままそう言うと、鳳凛丸は面白そうに笑った。  ふわりと浮き上がった鳳凛丸は、最後に亜樹の前に降り立った。 『土毘古がそなたを怯えさせて悪かった。代わりに非礼を詫びよう』 「あ、はい……」  鳳凛丸は亜樹に微笑みを与え、そして、最後にもう一度珠生に向かって頷いて見せた。珠生が目礼を返すと、鳳凛丸はきらきらとした細かな光を輝かせながら、空へ溶けるように消えていった。    鳳凛丸が消えた数秒後、亜樹はハッとしたように珠生を見た。  鳳凛丸が消えたことで一気に気が抜けてしまったのか、珠生はがっくりと舜平に身をもたせかけて青い顔をしている。 「お、沖野……!! しっかりしぃよ……!!」 「天道さん……」 「……な、なに?」 「神事を、やるんだ……! もう時間がない。神々を待たせるなと、鳳凛丸様が言ってたろ」 「あ……」  神楽殿から、鼓の音が響いてくる。亜樹を呼ぶように、楽筝の調べが響く。  亜樹は立ち上がって、篝火の焚かれた神楽殿を見やった。奇蹟的に崩れることもなく、神楽殿は無傷だ。雅楽隊はすでに能舞台に上がって一列に座し、音楽を奏で始めている。  亜樹は歩を進めた。   呼ばれている。神の呼び声が、聞こえてくる。  一歩一歩、裸足で砂利を踏みしめながら進む亜樹の背中を、珠生は霞ゆく意識の中で見つめていた。 「近くで見よう」 と、彰が皆を誘う。 「五十年に一度だ。次は、見れるかどうかわからないよ」 「……そうね」  葉山は、そう言って微笑んだ。  ふと、五十年後も彰と過ごしている自分の姿が、脳裏にひらめいてはっとする。  彰の横顔は、いつもの様に余裕たっぷりで憎たらしいほどだ。それでも、そんな顔をずっとそばで見ているのも、悪くないと思えてきた。 「俺は珠生の気を高めてから行くわ」  ぐったりとしている珠生を抱き寄せて、舜平がそう言った。  一瞬、敦がちらりと舜平を見る。しかし、すぐに目をそらすと、大きな伸びをしながら神楽殿の方へと歩を進めていった。  彰が気を利かせて、さっさと皆を促して拝殿を出ていってしまうと、珠生と舜平は静かな空間に二人きりとなった。  苦しげな呼吸を繰り返す珠生を抱いたまま、舜平は微笑んだ。 「お前は、優しいんやな」 「……え?」 「土毘古と鳳凛丸を仲直りさせるなんてな」 「あぁ……だって、鳳凛丸様の気持ちが流れ込んできてさ……なぁんだ、そういうことかって……」 「ようやったな、珠生」 「へへ、まぁね……」  珠生は笑った。重たい瞬きをしながら、舜平を見上げる珠生の目が、微かに潤んで揺れている。 「長生きすると、大変だね……」 「はは、せやな」 「舜平さんも……転生なんかしなきゃ、また俺に縛られることなんかなかったのにね……」 「え?」 「俺と再会しなきゃ、きっと、普通の、幸せな人生が歩めていたかもしれないのに」 「阿呆か。お前と会われへん人生なんて、幸せなわけないやろ」 「……」  舜平の言葉に、珠生の拍動がひときわ高まる。舜平は珠生の頬に付着した土毘古の血の跡を、そっと拭った。 「俺はお前とまた会えて、ほんまほんまにに嬉しかったんやで」  舜平は優しく微笑んで、珠生をぎゅっと抱きしめた。力強い体温と鼓動が、珠生の心を溶かしていく。 「ほんと……?」 「あぁ、ほんまや。ずっと探してたんや。お前のこと、ずっとな」 「へ、へへっ……ストーカーだ」 「やかましい」  からかい口調の珠生を怒ってやろうと思ったが、顔を見るとそんな気が失せる。  珠生の目からは、ぽろぽろと涙が溢れていたからだ。  ――愛おしい。心の底から。  舜平は突き上げてくる思いを押さえながら、柔らかく微笑んでみせた。珠生も、にっこりと笑みを返す。  やがて唇から注がれる舜平の熱い霊気が、気持ちを伴って珠生に流れ込む。珠生は、舜平の襟をぎゅっと掴んだ。  だ応えたい。舜平さんの気持ちに、応えたい……。  ――俺だって、舜平さんのことが愛おしい。この人は、俺にとって何よりも必要な存在なんだ。そばにいたい。ずっと、これからも……。 「舜平さん……っ……んっ……」  舜平のとろけるような口づけに、珠生は息を漏らした。袴の裾を割って這い上がってくる舜平の手のひらが、珠生の太腿を撫でている。 「ちょ、なにして……」 「治療や、治療」 「みんな……そこにいるんだよ。神事……してるんだよ……っ」 「……お前の身体のほうが大事や」 「やっ……駄目だって……! こんなとこで……!! また、湊とか……覗きに来るっ……」  何かにつけ良いタイミングで現れる柊のことを思い出す。珠生を押し倒しながら着物を開こうとしていた舜平は、はたと手を止めた。 「……確かに」  舜平は珠生を抱き起こすと、座ったまま珠生を後ろからぎゅっと抱きしめる。背中に負った傷に、舜平の体温がじんわりと暖かい。珠生は目を閉じて、舜平にもたれかかった。 「暖かい……」 と、珠生は呟いた。 「うん……」 「舜平さん……」 「ん?」 「もう一回……唾液が欲しいな」 「またそれか」 「うん……」 「もっと他の言い方、勉強せぇよ」 「うーん。じゃあ……ええと」 「おう」 「キス……して欲しい」  躊躇いがちに珠生がそう訴えると、舜平の頬にさっと朱がさす。そして舜平は、はぁと重たげなため息をつきながら、ゆるゆると首を振った。 「え、なに、俺、変なこと言った?」 「……ちゃう。お前……どんだけかわいいねん。天使すぎるやろ」  舜平が大真面目にそんなことを言うものだから、ついつい珠生は笑ってしまった。背中を通じて、舜平が照れている様子が伝わってくる。珠生は首をひねって、舜平と目を合わせた。 「天使とかほんと気持ち悪い。引く」 「もう何とでも言え」 「ふふ……。舜平さん……あのさ」 「ん?」 「あの……このあいだのこと、なんだけど……」 「え? あー……うん」 「俺も、俺もさ……あの。ええと……舜平さんのこと……」  舜平の気持ちに応えたい、ただそれだけの気持ちを伝えることが、珠生にはどうしても難しい。気恥ずかしさもあるし、珠生の気持ちにしっくりとあてはまる上手い言葉が見つからないということもあるが、何より珠生には、自分の気持ちを人に伝えるという経験が極端に少なすぎた。  もどかしさに唇を噛みながら自分を見上げている珠生を見て、舜平は思わず笑ってしまった。珠生が不器用で口下手であるということは、よくよく理解しているからだ。  言葉よりも、こうして珠生が舜平の想いに応えようとしてくれていることが何よりも嬉しくて、舜平は珠生の下唇を柔らかく食んだ。 「……分かってる、お前の気持ち」 「……ほんとに?」 「おう。だから、無理して何も言わんでええ。俺はただ、お前が笑っててくれたら、それで満足やねん」 「舜平さん……」  珠生は舜平に向き直り、ぎゅっと舜平に抱きついた。舜平もすぐに珠生の身体を抱き返し、少し緩んだ黒装束の首元に、優しく唇を寄せる。  ――出来れば前世(むかし)よりも、もっと俺のそばにいてくれたら……めっちゃ、嬉しいんやけどな……。    本音では、珠生にそう伝えたかった。でも今はただ、珠生が全身で訴えてくる声なき好意を受け止めているだけで、舜平は幸せだった。舜平は大きな手で、傷ついた珠生の背中を優しく撫でる。    そして自然と重なる、二人の唇。  互いの体温を感じながら、二人は何度も、何度も、唇を重ねた。

ともだちにシェアしよう!