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三十九、神の光

   篝火の灯火は、あやしく揺らめく猩猩緋(しょうじょうひ)。  神楽殿を深い紅色に染め上げ、龍帝冠の金色(こんじき)を、艶やかに煌めかせる。  神楽殿の中心に座す亜樹の左手に五人並んだ雅楽隊の面々が、それぞれに楽器を手に取った。細く、頼りなくありながらも存在感のある笙の音が、神事の開始を高らかに告げる。  白い長羽織を身に纏った亜樹は、笙の音色に合わせてすっと立ち上がる。閉じた檜扇(ひおうぎ)を恭しく眼前に掲げ、閉じていた目を静かに開いた。朱で縁取られた目元には、もう動揺の欠片も見当たらない。黒く艶やかな睫毛の下には、黒曜石のような色味を帯びた、凛とした瞳がある。  ――すぐそばに、神の気配を感じる。  扇を開き、すり足で静かに前へ。雅楽の音色に身を任せ、亜樹はしずしずと神降ろしの舞を舞い始めた。  篝火の灯火の色を映した白い羽織が、くるり、くるりと優美に翻る。  檜扇をはら、はらと閃かせると、雅やかな扇の飾り紐がゆるやかにしなる。  ――聞こえる……神の吐息が。  亜樹は静かに、丁寧に、神に未来を問いかけた。  ――この国に平穏をもたらす為に、伝えるべき言葉を託して欲しい。  ――導き給え。……精霊も、妖も、人間も、等しく護られる美しき世界へ……。  しゃん、しゃん……と鈴の音が聞こえる。  雅楽隊の中に鈴を持つものはいないはずなのに、どこからともなく、澄んだ鈴の音が聞こえるのだ。  それは山全体から響いてくるようでもあり、神事を見守る皆の頭上から聞こえてくるようでもある。鈴の音が鳴るたびに、ゆら、ゆらと篝火の炎が揺らめいた。  ざぁ……、と強い風の音が降り注ぐ。社殿の周りを取り囲む霧島杉の樹冠がざわざわと騒いでいる。しかし、山全体はどこまでも静けさを保ったまま。その風は神楽殿の上空でだけ渦巻いているようだった。  しゃん、しゃん、しゃん……。  鈴の音が一層大きく、近くなる。しかし周囲には何も見えない。  上空で渦を巻く風の音もより一層激しくなり、雅楽の音色も激しさを増していく。  亜樹は羽織をその場に落とし、扇を閉じて懐に差し、腰に帯びていた太刀を抜いた。  朱色の袴を履いた脚を大胆に前後して、大きく足を踏み出しつつ、太刀を空に翳すように回転させる。  篝火の光を照らしながらくるくると閃く太刀を操りながら、亜樹は堂々たる動きで身を翻し、太刀を突き出し、夜闇の向こうに横たわる墨色を見据えた。  ――来る……!  その時、夜空を引き裂くほどの白光(びゃっこう)が辺り一帯を包み込んだ。  その場で神事を見守っていた者全員が思わず目を覆い庇うほどの、眩い閃光だった。  しかし亜樹は目を覆うことも細めることもしなかった。ただまっすぐに前を向き、太刀を胸の前に掲げて片膝をつき、神の降臨をひたと待つ。  その光は一瞬のうちに収斂し、一条の細い光となった。  神楽殿の屋根を射抜くように落下してきたその光は、まるでいかづちのように亜樹の全身を捉え、包み込む。  ぴたりと雅楽が止み、あたりがしんと静まりかえった。風がやみ、妖の気配も、人の吐息も、何もかもが遠ざかる。  ただ鈴の音だけが、この世界を包み込むかのように鳴り響き続けている。  その時、白い平安装束を身に纏い、面で顔を覆った人影の列が、鈴の音に合わせて夜空から降りてくるのが見えた。それらは、衣冠を身につけた男の姿に見える。頭には黒い冠、手には尺、白い布に摩訶不思議な紋の描かれた面で、皆が顔を隠している。  その数は数百にもなるだろうか、神楽殿の真上を円形に覆うように、一歩一歩と足並みを揃え、ゆったりと下界へと降ってくるのだ。  そして、その隊列の向こうに見えるのは、溢れんばかりの金色の光。その光の中に、誰かがいる。  輪郭も霞むほどの後光に彩られながら、まっすぐに亜樹を見据えているその存在こそが、この世の源となった神であった。  ――これが、神の力……。  どこか意識は遠のいているというのに、肉体の中に漲る涼やかなエネルギーは、ひどく心地の良いものだった。  呼吸するごとに力が漲り、世界が美しく、美しくきらめいて見える。  そして亜樹は、神の声を聞いた。

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