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四十二、お礼の言葉

 昼過ぎになると、空腹を感じ始めた若者たちがもぞもぞと起きだし始めていた。  亜樹はロビーでたまたま出くわした湊とともに、厨房へ訪ねていって女将に食事を振る舞ってもらった。厨房の隣には飲食できるスペースがあるのだが、普段はそこで客が一杯呑んだり、軽い食事をとったりできるというわけだ。二人はそこで、暖かいうどんや天ぷらにありついていた。 「天道、お前珠生の傷のこと、気にしてんのか?」  ずず、とうどんをすすりながら、湊が亜樹に尋ねた。二人はテーブルに向かい合って座り、顔を突き合わせて昼食を摂っている。 「……ちょっとは、な」 「やめとけ、あいつはこういうこと気にせぇへんから。そうお前に元気が無いと、こっちも張り合いが出ぇへん」 「でもうちさ……普段あいつにしょーもない文句ばっか言ってんのに、あんな事されたら……どうして良いか分からへんくなる」 「一回ちゃんと礼を言え。その後は、いつも通り偉そうにしとけ」 「……偉そうってなんやねん」  湊のはっきりとした言葉に、亜樹は顔を上げた。眼鏡が曇るのか、湊は素顔でうどんをすすっている。初めて見る湊の素顔を、亜樹はまじまじと観察した。 「珠生は本能的に人を助けるような優しいやつや。お前がいろいろ考えてもしゃあないねん」 「……そうかな」 「珠生に余計な気、遣わせるな。お前は神事も全うして、務めを果たした。それで充分やろ?」 「……柏木、お前……」 「なに?」 「たまにはまともな事も言うねんな」 「しばくぞ」  意外とはっきりとした二重まぶたをしている湊の顔を尚も観察していると、そのこめかみに血管が浮くのが見えた。不機嫌そうに眉を寄せて天ぷらに食いつく湊を見て、亜樹は笑う。 「……そうする。ありがと」 「お前の辞書に感謝の言葉が搭載されとるとは驚きやな」 「うっさい。あーあ、食べよ食べよ」  心が軽くなり、急にお腹が空いてきた。亜樹が少しのびかかったうどんをすすっていると、暖簾をくぐって、こざっぱりとした浴衣姿の珠生が店に入ってきた。 「女将さん、俺もなにか食べたいなぁ」 「あらあら、珠生くん。よかよ、座っとき」  女将の笑顔がことさら輝く。珠生は愛想よく微笑んで、湊と亜樹のいるテーブルに近寄ってきた。湯上りで髪をぬらしている珠生が、懐手をして二人を見る。 「若者ばっかりだね」 「育ち盛りは腹が減んねん」 と、湊が椅子をずれて珠生に席を空ける。礼を言って座った珠生は、正面で天ぷらをぱくついている亜樹を見た。 「なに、それ?」 「さつまいも」 「鹿児島だもんね。おいしそう」 「……一個くらいなら分けてやってもええよ」 「あ、そう?」  珠生は亜樹の皿から、薩摩芋の天ぷらを一つつまんで頬張った。ほっこりと甘く、暖かい天ぷらは想像以上に美味しい。 「怪我、もう良さそうやな」 と、亜樹はやや気遣わしげに珠生の身体を見て、安心したようにそう言った。 「まぁね」 「……そのお芋が、昨日のお礼」 「え?」  そう言った亜樹が、少し頬を染めて再びうどんをすすり出す。珠生は亜樹の不器用さに微笑んで、頷いた。隣で湊も、ふっと笑う。 「了解」 「お前が作ったもんでもないけどな」 と、湊が揚げ足を取ると、亜樹はむっとした顔を湊に向けた。 「いいやん別に。最後までとっといた天ぷらをあげてんから」 「意地汚い女やな」 「何やとぉ! そのダサい眼鏡かけてへんかったから、うちの善意が見えへんかっただけやろ!」 「見えてるわ、こんくらい。それに俺の眼鏡はダサないわ、おしゃれや!」  ぎゃあぎゃあと小競り合いを始めた二人を見て、珠生は笑った。亜樹がいつもの調子に戻っていることが嬉しかった。そして、それはきっと湊の計らいであるだろうということも、珠生には分かっていた。 「お待ちどぉ。亜樹ちゃん、そんなに美味しかったなら、もっと揚げるよぉ」 「ほんま? やったぁ」  珠生のうどんと天ぷらのセットを持ってきた女将が、二人の小競り合いを聞いていたのかそう言ってくれた。亜樹は素直に喜んでいる。 「美味しい。生き返るなぁ」  珠生はよく出汁のきいた、暖かいうどんを口にして息をつく。食事をこんなにも美味しいと感じたのは、ひょっとしたら初めてかもしれない。  すでに食べ終えてデザートに出してもらった杏仁豆腐をつつきながら、湊は微笑んだ。 「お前はめっちゃ動いてたもんな。千珠さまの姿、久々に拝めて俺も嬉しかったで」 「そう? 自分じゃ見れなかったからよく分かんないけどさ」 「懐かしかったな。あの人はホンマにきれいやったって、思い出したわ」  しみじみした口調で頬杖をつき、湊はそんなことを言った。亜樹も顔を上げて、二人を見比べる。 「あのさ、それ、俺はいまいちきれいじゃないみたいな言い方に聞こえるんだけど」 と、珠生はうどんを食べながらにやりと笑ってそう言った。その顔は、高慢ちきな千珠の表情によく似ている。湊は苦笑して、眼鏡をかけた。 「おー、ようよう見たら、珠生も充分美しいわ」 「どんな会話やねん」  亜樹が不気味なものを見るような目付きでそう言った。珠生を見て、亜樹は更に仏頂面になる。 「沖野って……自覚あってんな」 「自覚? ……あぁ、そりゃあね。自分の容姿については客観的にも理解してるよ」 「うわーすごい発言やな。じゃあわかってて学校では猫かぶってんのか」 「別にそういう訳じゃないよ。俺、基本的には人付き合い苦手だから、適当ににこにこしてるだけ」 「ふうん」 「へんにモテても面倒だしね」  珠生は美味しい食事のおかげできらきらときらめく瞳を亜樹に向け、にっこりと笑った。亜樹は一瞬珠生が何を言っているのか把握しかねていたが、突然ぷちんと怒り出した。 「うわー! キモ!! なんやそれキモ!! 調子乗んなやエノキのくせに!」 「エノキ……ってそれ、湊が言ってたやつじゃん」 「採用されてる」 と、湊がほくそ笑む。 「なに笑ってねん、柏木」 「あれだけかっこよく戦って見せてもエノキか」 と、湊がくくっと笑いながら珠生を見た。珠生はむくれる。 「まぁ見た目についてはしょうがないけど。もう軟弱男って言うなよ」 「なんや、気にしてたんか」 と、亜樹がぷぷっと笑って珠生を見る。 「別に」 「分かった分かった。軟弱男はもうやめといたるわ」 「そりゃどうも。これでちょっとは仲良くしてやろうって気にもなるね」 「別に仲良くしてもらわんでもええわ。スケベ」 「……それはまだ言うのか」  珠生は諦めたように、ため息をついた。

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