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15、彰の涙

 二人はぶらぶらと帰路につきながら、先ほどの件について話し合っていた。 「でも早く先輩には知らせなあかんなぁ。……さっきから電話繋がらへんねんけど……」  湊は、何度掛けても”電源が入っていないためかかりません……”という応答しかしてくれない彰の携帯電話番号を眺めながら、そう言った。珠生は嫌な予感がしてきた。 「何かあったのかな。それこそ、あいつらに狙われて……」 「まさか。そんなん返り討ちにしてるやろ、あの人は」 「うん……でも、こんな事初めてだよね」 「せやなぁ。藤原さんか葉山さんに連絡しよか」 「そうだね。葉山さんかな、やっぱり」  電話のしやすさから考えると、そこは葉山である。今度は珠生が携帯を取り出して、彼女の番号にかけた。  しばらくコール音が鳴り、葉山の声が聞こえてきた。 「葉山さん、ちょっとお伝えしたいことがあって……」 『珠生くん、ごめんなさい。今ね、お通夜に向かってるところだから、少し待っててくれるかな』 「え? どなたか、お亡くなりに?」 『あのね……言っていいのかな。……彰くんのお母様が、亡くなられたのよ』 「えっ……!?」 『日曜日に亡くなられて、今夜がお通夜で明日がお葬式。私と藤原さん、今そちらへ向かってるところなの』 「そんな……。先輩、だから学校来てなかったんだ……」 『まだ彰くんにも会ってないから、様子は分からないんだけど……。お通夜の後、話しましょう、何かあったんでしょ?』 「はい。……俺らも行っていいですか?先輩のところ……」 『そうね……ええ、きっと心強いと思うわ』 「分かりました……はい」  葬儀場の場所と時間を聞いて、珠生は通話を切った。珠生の困惑しきった顔を見ていた湊は、何事かと表情を固くしている。  珠生の話を聞いて、湊は静かに頷いた。 「今から行こうか」 「……ちょっと早いけど、そうやな」  二人は彰のことが気になって仕方がなかった。  いつも余裕たっぷりの彰だからこそ、心配になった。  +  教えられた告別式会場には、すでに数人の喪服姿の大人たちがいた。立看板に小さく”斎木家”と書かれているのを見て、現実だと思い知る。  自分たちがひどく場違いな感じがしたが、珠生達はおそるおそる自動ドアをくぐる。建物の中は新しく清潔で、まるで死の匂いなどしない明るい空間だった。あえてそうしてあるのかもしれない。  寒いほどに空調の効いた広いロビーに佇んでいると、係員らしき年配の男が二人に近づいてきた。 「ご親族の方ですか?」 「あ、いいえ……僕ら、息子さんの友人です」 と、湊が丁寧に一礼してからそう言った。 「そうでしたか。只今納棺の儀を執り行っておられますので、しばらくこちらでお待ちください」 「分かりました」  現実なのだ。  珠生は、まだ彰と出会って間もない頃、家族のことを話す彰の笑顔を思い出していた。  ――こんな僕を気味悪がらずに、よく育ててくれているものだ……  ――彼らに恩返しをするのが、礼儀だろうーー  まるで人事のようにそう言っていた彰だったが、その横顔には優しい笑顔が浮かんでいた。佐為の人格を持っているとはいえ、斎木彰という高校生の生みの親なのだ。  珠生は待合室のソファに座っていても落ち着かず、うろうろと窓の外を眺めたりしていた。湊も何も言わなかった。 「……珠生、湊」  彰の声がした。  弾かれたように二人は振り返り、きっちりと制服に身を包んでいる彰を見た。 「来てくれたのかい? ……ありがとう」  そう言って微笑む彰の表情は、一見するといつもと変わらないようにも見えた。しかし、いつもピンと張ったみずみずしい彰の気はそこにはなく、吹いたら消えてしまいそうな弱々しさがあった。 「先輩……なんて言ったらいいか」 と、湊が俯きながら、一礼する。珠生もそれに倣った。 「やめてよ。君たちが気を遣わなくてもいいよ」  二人の座っていたソファに座った彰は、よく見ると疲れた顔をしていた。白い顔はいつもよりも白く、目の下には影があった。 「……ご病気だったんですか?」 と、珠生は尋ねた。 「いいや、突然のことでね。脳梗塞だった。人の生とは、あっけなく終わってしまうものだね……」 「先輩……」 「はは、君のほうが泣きそうな顔してるじゃないか。馬鹿だなぁ、珠生」  彰はそう言って笑うと、隣に腰掛けた珠生の頭をぽんと撫でた。いつものように気丈に振る舞う彰を見ていると、余計に辛かった。 「父のほうが参ってしまってね……母さんがいないと、何も出来ない人だから」  彰の口から、母さんという言葉が出たところを初めて聞いた珠生は、ぐっと胸を絞られるような思いがした。  その時、かすかな電動音と共に、自動ドアが開いた。三人が顔を上げると、そこには黒いスーツ姿の藤原修一と葉山彩音が立っている。  彰はふらりと立ち上がって、二人に丁寧に一礼した。 「ありがとうございます。わざわざ東京から……」 「佐為、いいんだよ。こんな時までちゃんとしなくていいんだ」  藤原は彰に近づいて、ぽんとその肩に触れた。優しく微笑んでいる修一の顔を見て、彰はため息混じりに目を伏せた。 「……業平様。身内の死というのが、こんなにも堪えるものだとは、知りませんでした」 「そうだね。……良い方だったからね」 「……はい。こんな僕を産んで……ここまで……いつも優しく見守ってくれて……何で、母さんが……」  ぱたぱた、と彰の目から涙がこぼれ、冷たいタイル張りの床に落ちた。彰は右手を上げて目を覆う。小さく震えて唇を噛む彰を、藤原はしっかりと抱きしめた。 「業平様……なんで……なんで僕じゃなくて……母が死ぬんでしょうか……。僕はあんなに、沢山の人を殺めたのに……なんで、僕じゃなくて……母の命が奪われるんでしょうか……」 「佐為。お前の行いは関係ない。人には、定められた寿命があるんだ。お前のせいじゃない」 「でも……こんなに突然……何もまだ、恩返しもできていない……のに」 「お前が幸せに生きることが、お母様への恩返しになるはずだ。我々にとって、死は遠いものじゃない。(ちか)しいものだ。ここにいる我々を見てご覧。かつて死を共にした仲間が、今こうしてここにいる。これからは、お母様も天からお前のことをずって見守っていてくださる」 「……はい」  彰は涙に濡れた目を上げて、藤原を見た。藤原の穏やかで暖かい目を見ていると、段々と心が凪いでいく。彰は指でぐいと涙に濡れた頬を拭い、息を整える。 「私たちはしばらくこちらに滞在する。難しいことは考えず、私たちに頼りなさい」 「……はい。ありがとうございます」  彰はふと、藤原の背後に立っている葉山を見た。葉山も、じっと彰を見つめている。葉山の目に吸い寄せられるように、彰はふらりとそちらへ歩み寄った。 「葉山さんも。遠路はるばる、ありがとうございます」 「そんなこと、いいのよ」  葉山の指が、尚も流れる涙で濡れる彰の頬を拭った。その暖かい指先に触れ、彰の気がまた緩む。 「葉山さん……」  彰は葉山を抱きしめた。珠生や湊の目の前であるということも構わず、葉山に縋るように抱きしめる。葉山はそんな彰の背中に手を回して、震える彰の身体をそっと抱き返した。 「不安だったでしょう? ……もう大丈夫よ。私達がいるから」 「はい……」 「もう大丈夫よ……」  小さな子どもをあやすように彰の背中を撫でる葉山の表情は穏やかだった。藤原も何も言わず、そんな二人を見つめて少しだけ微笑んだ。  珠生と湊は、ただただ、見ていることしか出来なかった。    + +  藤原に言われ、珠生たちは明日の告別式から出席することになった。  しばらくして落ち着きを取り戻した彰であったが、泣いている所を見られた上に、葉山に抱きついている所まで見られたせいか、ややバツが悪そうな照れ笑いを浮かべていた。 「ごめんよ、今日はバタバタするから、明日ゆっくり来てくれるかい?」 と、彰はいつもの微笑みを見せて言う。そして「せっかく来てくれたのに、悪いね」と、目を伏せた。  二人は黙り込んだまま夜道を歩き、気づけば今出川の辺りまで歩いてきていた。御所のこんもりとした木々を見上げて、珠生は息をつく。 「……ああして見るとさ、やっぱり業平様はすごいね。先輩のこと、ちゃんと分かってる」 「せやな……。俺らじゃ、なんもできへんかったな」 「だよね……」  今出川の地下鉄の駅前に来た二人は、道路脇の鉄柵により掛かってしばらく御所を見上げていた。 「先輩と葉山さんって……どうなってんのかな」 「できてるやろ、あれは」 「やっぱり?」 「何もない女の人に、先輩があんなふうに接するなんて考えられへんわ」 「だよね……。でも、葉山さんなら分かるな」 「うん、しっくりきた」  珠生は息をついて、身体を伸ばす。 「でもさ、ちょっと安心した。葉山さんがいてくれるなら、きっと先輩は大丈夫だ」 「うん、そうやろうな。……それに、俺らかていんねんから、大丈夫や」 「あはは、そうだった。自分たちのことを忘れてた」  二人は少し笑って、何となく同時に深いため息をついた。なんとも言えない気分だった。 「舜平さんにも連絡しないと。あと、天道さんにも」 「あ、せやったな。忘れてた」 「何を忘れてたん?」  不意にそばで女の声がして、二人は仰天した。見ると、そこにはホットパンツにサンダル履きという、えらくラフな格好をした亜樹が立っていた。コンビニ帰りなのか、小さなビニール袋を下げている。驚きすぎて何も言えず、二人はしばらくぽかんと亜樹を見ていた。 「……なに? キモいねんけど」 「あぁ、びっくりした」  珠生は心臓を押さえてため息をつくと、腕時計を見る。時刻は十九時だ。 「あ、帰って晩御飯作んなきゃ」  そんなことを言う珠生を見て、湊が吹き出した。 「何やそれ、主婦か」 「五月蝿いなぁ。我が家には手のかかる父親がいるから大変なんだよ。面倒くさいから、今日はカップ麺食べといてもらおう……」 と、健介が聞いたら涙に暮れそうなことを言って、珠生は口をとがらせる。 「……沖野、あんた身体……もうええの?」  珍しく神妙な顔つきをして、亜樹は珠生を見た。珠生は不意に、昨日の舜平との交わりのことを思い出した。 「うん、治療済み」 「へぇ、すごいな」  左袖を上げて傷のあったらしい場所を見せる。亜樹は目を丸くした。 「舜兄、すごいな」 「……」  珠生と湊は何とも言えず、黙った。ふと、湊は震える携帯電話を取り出して、ため息をつく。 「おかんからメールや。……」  そう言ってから、湊は黙った。彰のことを思い出しているのだろう。 「沖野、うちで御飯食べて行ったらいいやん。柚さん喜ぶで」 「え? ああ……」 「そうせぇ、珠生。先輩のことも、話しといてや」 「あ、うん……」  湊はポケットに携帯を収めると、手を上げて角を曲がっていった。亜樹は怪訝な顔をして、「先輩のことって?」と尋ねる。  珠生は宮尾邸に向かって歩きながら、たった今しがたのことを話して聞かせた。すでに両親のない亜樹は、黙って静かに頷きながら珠生の話を聞いていた。 「……そっか。そうやんな。あんな不気味なくらい完璧な先輩も、人の子やもんな」 「そうなんだよね……」 「かといって、あんたが暗くなっててもしゃーないやん。先輩に気ぃ遣わせるだけやろ」 と、亜樹はぶら下げたコンビニの袋で、珠生の尻を叩いた。 「いてっ」 「ちゃんと支えてくれる人もそばに居るわけやし、先輩なら、大丈夫やろ」 「うん、そうだね。……天道さん、たまにはまともなこと言うんだな」 「はぁ? うちはまともなことしか言わへん」 「よく言うよ」 「……まともなことついでに。あのさ、沖野」 「なに?」  不意におとなしくなった亜樹の横顔を、珠生は見た。 「……霧島で、うちのこと庇ってくれたやろ。ほんまに、ありがとう……」 「え?ああ……別に……」 「あと、球技大会の時のことも、ありがとうな……」  亜樹はそれだけ言うと、珠生を置いてさっさと前に歩き出した。顔が火を噴くように熱かったが、ずっと言わねばと思っていたことがすんなりと言えて、心は軽い。夜道で顔がよく見えないことも良かったのかもしれない。  追いついてきた珠生の顔をちらりと見る。その唇は微笑んでいた。 「どういたしまして」  珠生は歌うようにそう言った。亜樹は緩みそうになる唇を、必死で押さえつける。 「久しぶりだね、こうやってちゃんと話すの」 「……せやな」 「最近、学校じゃ全然話しかけてこないじゃないか」 「前からそんな話すほうちゃうやん」 「そう? あー、腹減った。いいなぁ天道さんは、柚さんのおいしいご飯、毎日食べれてさ」 「あんたも、作るんめんどかったら食べに来たらいいねん」  亜樹は、自分の口からこぼれたそんな台詞に驚いていた。しかし珠生は嬉しそうに笑っている。 「珍しい、そんな親切なこと言ってくれる日もあるんだな」 「……あほ、取り消すで」 「ごめんごめん。おじゃまします」  二人は宮尾邸に到着し、玄関のドアを開けた。美味そうな食事の香りと、快適に整えられた空間。柚子の心配りが行き届いた雰囲気にほっと安堵しながら、珠生はふと、彰のことを想った、  先輩は、ちゃんとご飯を食べたのかな……と。  

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