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22、寝ぼけ眼

 湊は、ブースが徐々に完成していくのを見上げながら、看板の位置などを指示していた。脚立に乗った男子が看板の両端を上げ下げしている。隣のブースは二年生のポップコーンの店、その隣は三年生のフランクフルトである。校門から昇降口にかけてのレンガ張りの道に、ずらりと店が並び始めている。  女子たちは教室でチラシやポスターの作成だ。  調理室では斗真が祖母からもらってきた秘伝の技で、美味しいわらび餅を作ると言い張っていた。湊はその首尾を気にしつつ、各クラスのブースを見て歩いていた。校門寄りのベストポジションには3−E、つまり彰のクラスのブースが設けてあった。脚立に登って飾り付けをしているのは、ほかならぬ彰である。  周りには女子が四、五人集まって、飾りを手渡したりおしゃべりをしたりと、かなり賑やかで華やかだ。その中には、空井斗真が恋している女の先輩の姿もある。彰はそつなく女子たちの相手をしながら、手際よく電飾を取り付けていた。  この間、葉山さんに抱きついて泣いていたとは思えへん……。湊はそう思いつつも、帰ってきた完璧男の姿を見てホッとした。 「柏木くん」  ぽんと背中を叩かれて後ろを振り返ると、三角巾を頭に巻き、エプロン姿の三谷詩乃が立っていた。湊は彼女に向き直る。 「なに?」 「空井くんが、試作品を食べに来て欲しいって言ってんねんけど、時間ある?」 「ああ、もうできたんや。行くわ」 「うん、来て。めっちゃ美味しいから」 「へぇ、やるやん」  二人が調理室へ入ると、女子ばかり十人が作業する中、空井斗真は男子一人で粉まみれになっていた。湊を見て、いつもの様に元気な笑顔を見せる。 「おう、柏木。食ってみろ食ってみろ」 「へぇ、本格的やな」  うっすらときな粉をかぶった半透明のわらび餅が、透明な器の上でぷるると揺れている。いかにも涼しげで美味そうだ。甘いものが好きな湊は、それを一口食べ、口の中でとろける上品な甘さのわらび餅に舌鼓を打った。 「おお、めっちゃ美味いやん」 「そうやろ! 良かったぁ」  斗真は周りにいた女子たちときゃっきゃと歓んでいる。一緒になって三角巾をしているすらりとした斗真の姿は、えらくそこに馴染んでいた。調理に回った女子たちは大人しいタイプの女子生徒ばかりだが、皆慣れてきているのか、手際が良い。詩乃もその中に混じって作業をしていた。 「ま、これで明日は大丈夫やな」 「あとで皆にも食べてもらおうね」 と、ふちなしの眼鏡をかけた丸っこい女子がそう言った。 「うん、そうしよそうしよー」  つられて女子っぽい口調になっている斗真を見て、湊は笑った。  教室へ戻ってきた湊は、えらく室内がきゃぴきゃぴと賑やかなことに気づく。すでにクーラーの時期は終わっているため、開け放した窓から教室の中を覗くと、珠生が女子十人ほどに囲まれて何やら作業をしている背中が見えた。 「沖野くん器用やなぁ」 「ほんまほんま。めっちゃ上手。うちらより上手なんちゃう?」  湊が教室に入ってその手元を覗きこむと、珠生は縫い針でちくちくと売り場カウンターの下を飾るカーテンを作成していた。すいすいと動く珠生の白い指に、女子たちがうっとりと見とれている。 「お前ら、ポスターは書けたんか」  見かねた湊が女子たちに声をかけると、皆がじろりと湊を見上げた。 「うっさいな、柏木。できてるわ」 「うちら沖野くんの手伝いしてんねん」 「は? むしろ邪魔してるようにしか見えへんけど?」 と、湊はどちらかというと派手目な方に分類される女子たちを見下ろして、眼鏡を押し上げながらそう言った。すると女子の一人が目を三角にして立ち上がり、束になっているポスターを湊の方へぐいと突き出した。 「ほれ、見てみ」 「お、なかなかええやん。ほんならこれ、貼ってこい」 「何でお前に命令されなあかんねん」 「そうやそうや! お前が貼ってこい」 「うっさいうっさい。とっとと行ってこい! ブース出来てきてるからついでに見て来たら良いやん」 「え? そうなん? 行ってみよっか」 「うん、見に行こ」  がやがやと女子達はポスターを持って教室を出ていく。珠生は湊のよく回る口を見て、笑った。 「大変だね、副会長も」 「五月蝿い女どもめ。しかしお前、ほんまに器用やな」  湊は机をいくつかくっつけた上で作業している珠生の手元を見ていた。二人女子が座って、飾りを縫いつけている。 「うちらが手間取ってたら、沖野くんがやってくれるって言ってさ」 と、珠生に負けず劣らず茶髪の古田春美がそう言って楽しそうに笑う。いつもは無愛想な春美だが、今日はえらく機嫌がいいようである。 「女子よりずっと上手いから、もう皆うっとりやで」 と、ロングヘアを可愛らしいシュシュで後ろに一つでまとめている大井瑠衣もにこやかだ。湊はあまりこの二人と話したことはなかったが、とりあえず機嫌よく作業をしている様子を見て、珠生を褒めてやりたいと思った。   「でもこの飾り、二人が作ったんだろ? すごい上手だよ」  珠生がにっこり笑って二人の手技を褒めると、二人は頬を染めて照れたように笑い、ちくちくとうつむいて手を動かし始めた。  珠生の顔色は優れないが、作業をしていると気が紛れるのか、目はしっかり開いているようだ。程なくして作業が終わり、三人はすっきりしたようにため息をつくと、顔を見合わせて笑っている。 「よし、それじゃあこれ、取り付けに行こうか」 「あぁ、それは二人で行ってくれ。珠生は生徒会の方へ来て欲しい」  湊がそう言うと、春美と瑠衣は素直に応じてカーテンをたたみ、下へと降りていった。珠生は疲れた主婦よろしく肩を拳でポンポンと叩くと、湊を見た。  「生徒会の用事?」 「いや、それは放課後やねん。終礼まで時間あるから、お前はちょっと保健室でも行って寝とけ」 「え、大丈夫だよ?」 「お前思ってるよりひどい顔やで」 「え……そうかな。確かにまぁ、ちょっと頭痛が」  珠生は目元を押さえてため息をつく。 「一時間は寝れるやろし。放課後は生徒会の会議やからな」 「そうだね、そうしようかな……」  がた、と椅子をずらして立ち上がると、珠生は眠たそうにしながら湊を見て、少し微笑む。 「文化祭って、結構楽しいね」 「あぁ、ほんまやな」 「人間も悪くないな」 「なに言ってんねん。はよ行け」  湊が微笑しつつそう言うと、珠生は軽く手を上げて、重たい足を引きずりながら保健室へと向かった。  +  +  保健室の中年女性教師は、珠生の表情を見るとすぐにベッドで眠ることを許してくれた。賑やかな校内で、保健室はえらくしんとしており、他には誰もいない。賑やかな声が窓や壁の向こうに聞こえるのが、珠生の心を落ち着ける。  消毒液の匂いが微かにする布団に入ると、珠生はカーテンで仕切られた空間を見上げた。保健室で眠るなんて、小学生の時に一度熱を出して以来だ。  女性教師がパソコンで何やら仕事をしている微かな音と、守られた空間の中で、珠生はふと昨日の晩のことを思い出した。  キッチンの壁に押し付けられ、ズボンを下ろされ、立ったままで舜平に喘がされた。珠生の体重など物ともせず、舜平は珠生の脚を小脇に抱えるようにして脚を開かせ、立ったまま奥の奥まで突き上げてくるのだ。たまらず舜平にしがみつくと、耳元で卑猥な言葉を囁く舜平の低い声に、甘く甘く責められて……。  珠生がたまらず果ててしまうと、舜平は珠生を抱えたままベッドに押し倒した。脳髄まで溶けてしまいそうになるほどの快感に、珠生は気が狂いそうになったものだった。  いや、もう狂っていたのかもしれない。うつ伏せにされて後ろから責め立てられた時も、珠生はただ涙を流しながら舜平に抱かれることを悦んでいた。昨夜の舜平は、それほどまでに情熱的だった。  ふと気づくと肌は清められ、心配そうに自分を見つめる舜平が枕元に座っていた。意識を失っていたらしい。  優しい舜平の瞳を見ていると、何故だかまた涙があふれた。訳も分からず、珠生は舜平の手に涙をこぼした。  ――どうした……?  流れ込む、舜平からの愛情。  彼方の時を経て、再び結び合う身体と身体。絆という奇跡……。    舜平の気に満たされ、極まる感情に身を任せていると、不思議と涙が溢れるのだった。  舜平の手、額に寄せられる唇が暖かい。  珠生はいつしか、眠りに落ちていた。     昨日のことを夢に見ていた珠生は、ふっと自分の額に触れる誰かの手によって、意識を引き戻された。  重たい瞼を持ち上げて、はっきりしない焦点で世界を見上げると、誰かの顔が直ぐ側にあることに気づく。遠慮がちに触れる誰かの唇が、珠生の中の昨日の感覚を呼び覚ます。  ――舜平さん……なの?  無意識のうちに、珠生はその唇を自分からも求めた。相手が少し驚いて身を引きかけるのを、珠生は嫌だと思った。手を出して相手のネクタイを掴むと、すがるように引き寄せる。  ぎし、とベッドが軋んで、誰かが身を乗り出してくる。そして、さらに珠生と深く唇を重ね合わせるのだ。 「舜平……さん……」 「……えっ」  不意に自由になった唇で、珠生は瞼の裏に浮かぶ人物の名を呼んだ。しかし、相手は戸惑ったように身を離し、困惑した声を漏らす。  珠生は頑張って瞼を持ち上げ、自分の上に覆いかぶさっている人物を見上げた。 「……空井……くん?」  空井斗真が、ばつが悪そうな顔をしてそこにいた。珠生は状況が飲み込めずぼんやりとしたまま、ワックスで立ち上げた斗真の頭や、左耳に一つだけきらめく小さなピアスを見上げている。 「……なんで……?」 「あ、その……俺……」  珠生はなおも眠たそうに目をこすって、開き切らない目をぱちぱちと動かしてみた。眠りに落ちたところで起こされたためか身体がひどく重く、いったいここで何が起こっているのか分からない。  一方斗真は、今自分がしでかしてしまったことに呆然としていた。  あまりに体調が悪そうな珠生のことが、気になって気になって仕方がなかった。そんな時、わらび餅の試作品を教室に持ち帰ろうとしている時、ふらふらと保健室へ入っていく珠生を見つけたのだった。  保健室の前で、見舞おうかどうしようかとうろうろ迷っていると、保健室の女教師が保健室から出てきた。「留守番頼むわ」と頼まれ、珠生の様子を見てみようとカーテンの中を覗き込んでみたのだが……。  眠る珠生があまりに美しく魅惑的で、斗真は吸い寄せられるように、横たわる珠生に近づいた。  球技大会の時に気づいた珠生の長い睫毛が、すぐ目の前で伏せられている。透き通るような薄茶色の髪の毛はつややかで柔らかく、ずっと撫でていたいと思うほどに心地良い。  気付けば斗真はベッドに手を着いて、珠生に唇を重ねていた。少し乾いた珠生の唇の弾力は殊の外心地よく、目眩がしそうになほどに官能的だった。  心なしか、珠生も下から柔らかく斗真の唇をついばんでくるような気がして、嬉しくなる。珠生の動きは熟れていて、唇を触れ合わせているだけで身体が高ぶるようなキスだった。絡め取られるように、斗真の身体が更に珠生に近づく。 「舜平……さん……?」 「えっ」  そのときふと、珠生がぼんやりと目を開き、斗真の知らない男の名前を呼んだ。はっとして身を引きかけたが、目を覚ましてぼんやりとしている珠生もまた愛らしく、斗真は本来の目的など忘れ去り、無我夢中で珠生にもう一度キスをしていた。 「ん……っ」  ――やばい、めっちゃ気持ちいい。意味分からへんくらい……気持ちいい。  ――あかん……勃ってきた……。どうしよう、あぁエッチしたい。でも、こいつは……こいつは……。  斗真は時折目を開いて、少し頬を染めている珠生を見下ろした。心臓ごと持っていかれる程に、珠生のことをきれいだと思った。眠るときに緩めたのか、珠生の襟元はネクタイがなく、第三ボタンまで開いている。珠生の白い首元は艶かしく、斗真は無意識のうちにそこに唇を触れていた。 「ぁ……」  色っぽいため息をこぼす珠生に、今度こそ目眩を感じた。もっともっと珠生の肌を求めようと身を乗り出したその時、シャっとカーテンが開く音が響き、斗真の襟首をぐいと引っ張る者があった。  珠生から引き剥がされ、開かれた仕切りカーテンの向こうにある隣のベッドに、斗真は思わず腰をぶつけた。  そこにいたのは、斎木彰だ。彰の表情の読めない目つきに、斗真はぞっとした。 「……君は、何をやってるんだか」  呆れたように彰はそう言って、右手の中指と人差し指を、斗真の額にぴたりと当てた。斗真はぎょっとして、彰の目を見上げる。 「……もう忘れろ。君にはまっとうな道が似合う」 「……あ」  ぼうっとした光が見えた途端、斗真の頭の中で光が散った。  鴨川の夜の風景、湊と珠生の常人離れした動き、眠っている珠生の白い肌に触れたいと思った感覚、重なった唇の快感……それらを一瞬のうちに回想した後、斗真はそのままベッドに倒れこんで意識を失った。  彰が斗真から指を離すと、上半身を起こしかけている珠生を見る。珠生はぼんやりした目つきのまま、斗真と彰を見比べている。 「……あれ、先輩?」 「湊に事情を聞いて、様子を見に来てみりゃこれだ」  彰は呆れたように肩をすくめて、斗真の上履きを脱がせてベッドに横たえてやる。カーテンを引いて斗真の姿が見えなくなると、彰は珠生のベッドに座ってため息をついた。 「全く、どうしたっていうんだよ」 「……舜平さんの夢、見てて……」 「それで?」 「そしたら、誰かが俺にキスしてくるから、てっきり舜平さんだと思って……」 「やれやれ、あんまりおかしなことはしないでくれよ。先生にでも見られたら、また色々と面倒だ」 「……すいません」 「君は千珠以上に色魔なようだ」  彰は眉を下げ、呆れた顔をしながらため息をついた。珠生はばつが悪そうな顔で、そそくさとシャツのボタンを留めている。 「僕が止めなきゃ、どうなってたことか」 「……うう。すみません」 「まったくもう! ほら起きて。会議だよ」 「あ。はい……」  彰に引きずられるようにして、珠生はベッドから起きると、ふらふらと後を追った。 「無茶をした舜平のことも叱っておかなきゃ」  彰はそう、ひとりごちた。  

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