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22、不機嫌な珠生

 珠生はなんとか午前中の授業をやり過ごした。体育や家庭科などの眠たくならない科目が多かったことも幸運だった。  しかし昼食を食べてしまうと、珠生の眠気は頂点だった。昼休みの間、ずっと机に伏せっていた珠生のそばで、湊と佳史が文化祭のことを何やら話し合っている。浴衣がコスチュームになったが、自分は持っていないので作務衣でもいいかとかそういう話をしているようだった。  そこへ斗真がやって来て、気遣わしげに珠生を見下ろした。湊は手を振って、「これはお前のせいじゃないで。単なる夜更かしらしい」と言った。斗真は何度か瞬きをして、そばの空いていた席に座る。  「……そうか?」 「お前今日、元気ないじゃん」 と、佳史が斗真にそんなことを言った。 「いや、そんなことないで」 「先輩に振られて、まだ落ち込んでんのか?」 「あ、ははは……そうやねん」  斗真は曖昧に笑って、佳史の問をごまかした。予鈴がなり、珠生がゆっくりと顔を起こす。珠生の顔色は一層白く、消え入りそうに弱々しく見え、佳史はそんな珠生を見て、「おい、大丈夫か?」と思わず声をかけた。 「だ。大丈夫……マンガ読んでただけだから……」 「ほっとけほっとけ、自己管理が足りひんだけや」 と、湊はにやりと笑って立ち上がり、席に戻っていった。佳史も肩をすくめて戻っていくが、斗真だけが心配そうに珠生のそばを離れなかった。 「ほんと、大丈夫だって。空井くんが気にすることじゃないんだ」 と、珠生は斗真を見上げてそう言った。 「……そんならええねんけどさ」 「ほら、席戻んないと。若松来たよ」 「あぁ」  今日は午後からは文化祭の準備である。本番を明日に控え、生徒たちの顔にもお祭り気分が沸き上がってきていた。  ブースの開設や、機材の搬入、材料の確認等、やることは様々だ。ぞろぞろと皆が教室を出て、持ち場へと散っていく。  珠生は眠気のせいでやや痛む頭を抱えつつ、外装を飾るための端切れや、ござなどの細々としたものを取りに家庭科準備室へと向かっていた。今日の授業中、教師にありかを確認しておいたのである。大して重いものではないため、珠生は一人でそこを訪れていたが、他のクラスの先客がいるのか、微かに話し声がする。  がらりとドアをスライドさせ、家庭科室へと入る。準備室への扉は開いていて、やはり誰かしらの話し声がしていた。男女だ。 「……ちょっと、何やねん……」 「ええやん、なんだかんだ言って、気になってんねんろ? 俺のこと」 「なってへんわ、ちょっと離してよ!」 「素直になれって、亜ー樹ちゃん」  亜樹の名前が耳に入り、珠生は咄嗟にドアの中へと踏み込んだ。薄暗い家庭科準備室の中で、天道亜樹と本郷優征がもみ合っているのが目に飛び込んでくる。亜樹の手首を掴んでキスでも迫っているのか、優征は準備室の隅に亜樹を追い込むようにして、覆いかぶさろうとしていた。 「……なにやってんだよ?」  珠生の声に、優征が弾かれたように振り向いた。そして、亜樹の怯えた顔が珠生の目に入り、珠生はざわりとした怒りを感じた。 「沖野か。今ええとこやねん、邪魔や。出て行け」 「沖野……!」  亜樹はほっとしたような顔で珠生の方へと駆け寄ろうとしたが、優征はそんな亜樹の前に立ちふさがって動きを止めた。珠生は普段感じないほどの苛立ちを感じて、アイドルのように華やかな優征の顔を見上げる。 「天道さん、嫌がってんじゃん。離してやれよ」 「お前に関係ないやろ。ドア閉めて出て行け」 「そうもいかないよ」  珠生はつかつかと優征に歩み寄ると、その手首をぎゅっと掴んだ。にやにやと笑っていた優征の顔が、はたと強張る。 「いてててて!!!」  無言で腕をねじり上げてくる珠生の動きに逆らえず、優征は身をよじって大声を上げた。その隙に亜樹はドアの方へと逃れ、胸元に布の入った紙袋を抱きしめてじっと珠生を見つめていた。 「離せや、コラァ!」 「天道さんはもう行って。ドアを閉めて」 「……え?」 「いいから行けって。通りかかる人に変に思われるよ」 「あ……うん」  亜樹の姿が消えると、腕を捻られたまま戸棚に押し付けられている優征が、憎々しげに珠生を見下ろした。 「おい! 何で邪魔すんねや! ウザいねん!」 「天道さんになにするつもりだったわけ?」 「そんなん……決まってるやん。男なら分かるやろ」  優征は珠生の腕を振り払うと、肘をさすりながらニヤリと笑った。珠生はまた、ざわっとした苛立ちを感じて目を険しくする。 「天道ってさ、口は悪いけどよう見たら結構ええ女やん? ちょっと遊んだろかなと思っただけや」 「……ふうん。なるほど、ねぇ」  むかむかと腹の底から怒りが沸いてくる。怯えた亜樹の表情が蘇り、珠生は軽く奥歯を噛んだ。  直後、珠生は優征に飛びかかって優征の脚を払うと、埃っぽい床に大柄な身体を引き倒した。目にも留まらぬ珠生の動きに、優征は気付かぬうちに床に転がされている。 「……いってぇ。何すんねん!!」  優征は肘をついて起き上がろうとしながら、珠生を睨みつけながら怒鳴った。しかし、珠生の据わり切った目を見て、はっとする。 「こんなこと、したかった?」  珠生は優征の上に馬乗りになると、逞しい肩を床に押さえつけて、その目をじっと見下ろした。珠生の怒った顔はぞっとするほどに美しく、優征は思わず声を飲み込む。すると、珠生の赤い唇が吊り上がった。 「……えっ?」  目の前にある珠生の顔が、さらに優征に近づく。ぺろ……と珠生の舌が優征の首筋を舐めた。 「お……おい!! なにやってんねん!!」  見た目は華奢なのに、珠生の腕力は驚愕するほどに強い。床に押し付ける珠生の腕から逃れられず、優征はじたばたと暴れた。珠生は馬乗りになったまま抵抗する優征を押さえつけ、片手で優征のゆるく結んであるネクタイを思わせぶりに緩め、ひとつ、ふたつとボタンを外した。 「……本郷くん、だっけ?」 「おい! な、なにしてんねんお前……!」 「何って……? いやらしいこと、したかったんでしょ?」  珠生の柔らかな唇が、優征の首筋や耳元に触れる。ちらりと合った珠生の目を見て、優征はぞっとした。 「俺と、する? ……お望みどおりのこと」   薄茶色の目の中にある黒い瞳孔が縦に裂け、まるで自分を食い尽そうとしているように見えた。優征はぞっとひて有らん限りの力を振り絞り、珠生の身体を突き放す。 「や、やめろ……!!」  尻もちをつかされた珠生は、尚も薄笑いを浮かべて優征を見ていた。そのあまりにも妖艶な表情に、優征は恐怖を覚えた。 「っ……」 「もう終わり?」 「な……何やねんお前! 変態!」  優征はよろめきながら立ち上がり、おぼつかない足取りで準備室から飛び出して行った。珠生はそんな優征の無様な姿を見て、くくっと喉で笑う。  立ち上がってズボンの埃を払っていると、おずおずと亜樹が顔を覗かせた。 「……なにしてたん?」 「あれ、見てたの? ……ま、お仕置き、かな」 「えぇ? そんなんしたらまた目付けられんで」 「大丈夫、手荒なことはしてないよ。それに、多分もう、近づいてこないと思うし」 「どういうこと?」  亜樹は首を傾げて訝しげな顔をする。珠生はちょっと笑って、必要な物を手に取ると準備室を出た。 「これからは、あんな奴と二人になるなよ」 「……ず、随分偉そうなこと言うやん」  少し顔色が悪く、機嫌が悪そうな珠生に見据えられてどきりとしながらも、亜樹は強がってそう言った。 「次は助けてやれないかもしれないよ」 「助けて……って。別にあんたに頼んでへんやん!」 「怖かったんでしょ? あんな不安そうな顔してたくせに」 「してへんわ!」 「じゃあそこであいつに何かされても良かったのかよ」 「……それは……!」  珍しく、珠生に言い負かされてしまう。眉根を寄せた珠生は少し怒っているようにも見えたし、いつになく顔色も悪く凄みがある。亜樹は何も言い返せず、抱えていた紙袋をぎゅっと抱きしめる。 「ほっといてよ」 「意地っ張り」  二人は家庭科室を出ると、ぷいとそっぽを向きあって別々の方向へと歩き出した。  

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