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〈4〉

   ショッピングモールの最奥に位置する本屋は、相当な広さだった。 「好きなもん、見ててや」と言い残し、舜平はまっすぐに専門書のあるコーナーへと行ってしまった。  興味を引いた本などを軽く試し読みしたり、文房具のコーナーをうろうろしたりしていた珠生だが、舜平がどんな本を読むのかということが気にかかり、舜平の姿を探すことにした。  珠生は未だに、父の専門分野である『生物学』という学問が、一体何をどうするためのものであるのか理解していない。興味が無いと言った方が正しいかもしれない。  でも、舜平が大学院に進学してまで学ぼうとするものには興味がある。奥まった専門書コーナーの本棚を一つ一つ覗き込みながら、珠生は舜平の姿を探した。  マンガや雑誌、小説などを置いている表とは違い、専門書コーナーには人気が無い。舜平の姿はすぐに見つかった。  分厚い本を手に取り、熱心にページを繰る舜平の横顔を見つけた瞬間、珠生の胸は急激な高鳴りを覚えた。  それは、普段の舜平の横顔とはまるで異なる表情だった。正しい言葉を探すなら、『研究者としての顔』というべきものなのだろうか。  皆の前で爽やかに笑う顔、二人きりの時に見せる照れた表情、または情熱的に珠生を抱く時の色香溢れる目つき、そして敵を前にした時の猛々しい表情……それらとは全く異なる、初めて目にする舜平の顔だった。  思慮深さの窺われる静かな目つきで、いかにも難しげな(よく見ると英語である)本の文字を目で追っている。そんな舜平の姿は、いつにも増して大人だった。  ――かっこいいなぁ。  本棚の影からじっと舜平の姿を覗き込んでいる己の姿が不審者然としていることに気づいてはいたが、集中している舜平の邪魔をしたくないし、もっとそんな舜平の姿を見ていたい……そんな葛藤が珠生を苛む。  舜海であった頃の彼は、書物などまるで興味を示さなかった。読まねばならない経文でさえも長い間放置し、あまつさえ枕にしていたものだった。そのことで、青葉の寺の坊主に毎日のように小言を喰らっていたことを、珠生はふと思い出す。  性格だって、何事にも無頓着で、ずぼらだった。格好だって、坊主というよりは武者といった方がしっくりくるような荒っぽい格好を好んでいたものだった。  年をとるにつれて、より雅を愛するようになっていた千珠は、舜海のぼさぼさの髪や着崩した法衣、ずぼらな性格についてちょくちょく文句を垂れていたものである。  そんな体たらくだった舜海が、転生した今、この国の最高学府で勉学に勤しみ、お洒落な服を見にまとい、スマートに珠生に食事をおごり、難しげな専門書を熱心に読んでいる。そういう現状がなんだか面白く思え、珠生は小さく笑ってしまった。人生何が起こるか分からないものである。 「……ん?」  その声で、舜平は珠生の存在に気がついたらしい。本から顔を上げ、珠生を見て微笑んだ。 「あ、ごめん。邪魔したね」 「ううん、ええよ。これ、買って帰るわ」 「英語じゃん。読めるの?」 「まぁ、ぼちぼちな。けど先生はすらすら読まはんねんで?」 「へぇーすごいね」 「棒読みかい。たまには敬って差し上げたらどうや」 「敬ってるよ、これでも」  そんなことを言いつつも、珠生の胸は高鳴る一方だった。  このたった数時間で、今まで気づかなかった舜平の新たな一面をたくさん見ることができた。それは珠生にとって、とても幸せなことだった。  +  +  その後しばらくモール内を回った後、ふたりは帰宅することにした。  時刻は午後六時。なんだかんだと、しっかりショッピングモールを楽しんでいたのである。  珠生が助手席に座って息を吐くと、舜平が珠生にすっとミネラルウォーターを渡した。いつの間に買ったのかとびっくりしていると、「駐車料金精算してる時、小銭がなかってん。千円札崩したくてな」と言う。 「……ありがとう」 「おう。さて、帰るか。さすがに暗いな」 「うん……そうだね」  季節は秋。だいぶ日は短くなっている。  すっかり夜の雰囲気を漂わせている夜の街を走り出す車内で、珠生はふと舜平の左手に目を落とした。男らしい腕によく似合う、黒いスポーツウオッチ。大きな手と、骨ばった色っぽい手首……ふと、あのバングルのことを思い出す。 「……舜平さんて、誕生日、いつなの?」 「俺? 五月やで」 「え、そんな前なんだ」 「おう。そういえば、お前は?」 「俺は三月」 「そうか……。何かしてやったこと、なかったなぁ」 「い、いやいやいや、そんなのいいって」  それ以上、どう会話を続けていいか分からなくなった。しんとした車内に、どことなくもどかしい沈黙が満ちている。  言いたいことはただ一つ。  もっと一緒にいたい……ただそれだけなのに、その一言がうまく喉から出てこない。 「珠生」 「ん、ん?」 「……おまえんち、行ってもいい?」 「へっ……?」 「先生、教職員の宿泊研修に出てはるやろ。明日の昼前には帰ってきはると思うけど……」 「あ、うん……。知ってたか、やっぱ」 「おぅ。その……さ、泊まっても、いいか?」 「う、うん……! もちろん」  どぎまぎしながらそう返事をすると、舜平はふっとため息をつくように笑った。舜平も緊張していたのだろうか。柔らいだ表情で、ちらりと珠生に流し目を送ってくる。 「……なんか、慣れへんな、こういうの」 「うん……恥ずかしい」 「ははっ。俺もや」  舜平の左手が伸びてきて、膝の上で拳になった珠生の手を握る。珠生はどきりとして舜平を見上げた。 「好きやで、珠生」 「……い、い、いきなり、なんだよ……」 「お前がかわいくてしゃーないわ。どうしたらええねん」 「し、知らないよそんなの……そんなこと言われても」 「せやな。……うん、はぁ、カッコつかへんな、俺」 「……そ、そんなことない……」  苦笑している舜平の手を、珠生はそっと握り返した。すると目の前の信号が黄色から赤に変わり、舜平の車が静かに停車する。  珠生は舜平をまっすぐに見つめて、思っていることを言うことにした。 「……舜平さんは、かっこいいよ」 「えっ。……え? マジでか」 「うん……悔しいけど、すごく……ええと、なんていうか……戦ってない時、っていうか、何でもない時でも……舜平はさんは、すごく、かっこいいと思った……っていうか……」  もごもごと口ごもりながらそう言うと、舜平の身体が不意にとても近くなった。  そして次の瞬間には、珠生の唇に舜平の唇が重なっていた。  二、三秒そうして重なっていた唇が離れると同時に、車が道路を走り出す。青信号だ。  キスされたと気づくまで、珠生はしばし呆然としてしまった。 「……悪いけど、今夜も寝かせてやれそうにないわ」  そう言って、舜平は笑った。

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