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十一、卒業式
舜平は眠っている珠生の頭を撫でながら、夜が明けるまでずっとその寝顔を見つめていた。
うつ伏せになり、舜平の方に顔を向けてかすかな寝息を立てている珠生の姿を見ていると、眠らず千珠の護衛をしていた時のことを思い出す。
満月の夜。
人間の姿となった黒髪の千珠を抱いたあと、満たされた表情で微睡む千珠の姿を見ているのが、とても好きだった。人の姿となった千珠はとても非力で、ひどく幼く見えたものだ。
夜が明け始めると、朝日を吸うようにきらきらと輝きを纏う銀色の髪が蘇る。そのさまを初めて見た時、あまりの美しさに息を飲んだ。
朝日を見上げると、黒く染まっていた瞳が、再び明るい琥珀色に染まってゆく。妖力が戻り、その表情にも強さが蘇る。
そして、こちらを見て勝気に微笑みながら言うのだ。
――これで、お前に勝てる身体に戻ったぞ、と。
そんな不遜な表情をする千珠を、もう一度抱く。千珠は誘うように舜海を見上げながら、銀色の髪を絡ませながら喘ぐ。
美しい獣だった。
今、自分のすぐ横にいる珠生は、獣というより小動物のように見える。何となく、子猫の姿をしていた鳳凛丸を思い出す。
昨夜の珠生はひどく感じやすく、妖艶で、そして舜平をいつも以上に求めていた。乱れ泣く珠生の姿を思うだけで、ついさっきまでセックスに昂じていたというのに、またその身体に触れたいと思ってしまう。
舜平を貪り尽くした後、珠生はふらふらとシャワーを浴びに部屋を出ていった。文字通り精も根も尽き果てた舜平は、ただぐったりとベッドに横たわってどくどくと高鳴る心臓を落ち着けていた。
こざっぱりとして戻ってきた珠生が、そんな舜平の隣に座る。そしてそっと、舜平の額にキスをしてこう言った。
――ごちそうさま。お前は本当に美味だな。
はっとして珠生を見上げると、言葉とは裏腹にえらく満ち足りた穏やかな笑みを浮かべた珠生がいた。舜平も微笑んで珠生の頭を引き寄せ、唇を重ねる。
舜平がシャワーを浴びて戻ると、珠生はすでに眠ってしまっていた。
そのまま帰ろうかと思ったが、珠生の寝顔を見てしまうと、どうしてもそこから離れることができなくなってしまった。ベッドに横向けになって肘枕をし、珠生の姿を見つめていたのだ。
「う……ん……」
そして明け方。
珠生は眉間にしわを寄せて苦しげなうめき声を上げた。何か夢を見ているのか、呼吸が乱れ、布団をぎゅっと握りしめている。舜平は苦しげな珠生の顔を覗き込みながら、力の入った手にそっと自分の手を重ねた。
「珠生」
「うう……あぁ……」
「珠生、大丈夫やで」
手を握り、頭を撫でながらそっと囁くと、不意に珠生は目を開いた。舜平の顔を認めた珠生は、はっとしたように目を見開き、その後すぐにまたぐったりと脱力して目を開いた。
「……舜平さん……」
「おはよう」
ぼんやりと目を開いた珠生が、掠れた声をあげる。
「……いてくれたんだ」
「おう」
珠生はまた寝返りをうつと、舜平の方に身体を向けてまた目を閉じた。舜平は珠生の首の下に腕を通して、ぎゅっと抱き寄せる。すっぽりと舜平に包み込まれ、珠生は安堵するように息をついた。
「うなされてた」
「……うん。夢、見たから……」
「そうか。怖かったんか?」
「うん……。でも、舜海が出てきて……」
「へぇ」
「なんか、笑える夢になったよ」
「……どういうことやねん」
珠生がくすりと笑う。
「……すごく、安心した……」
「そうか」
珠生はもぞもぞと身体を動かして舜平を見上げる。間近で目を合わせていると、照れてしまうほどに美しい顔だ。舜平が少し赤面すると、珠生は微笑む。
「どうしたの?」
「べ、別に。あ……お前、今日はのんびり寝てていいんか?」
「あ……学校行かなきゃ」
「土曜日にか?」
「月曜日は卒業式だから、準備があるんだ。生徒会の用事なんだけど」
「そっか。彰は卒業やもんな。晴れてあいつも京大生か」
「すごいなぁ、先輩。何であんなに完璧なんだろう」
「あれは完璧ちゃうで、不気味っていうんや」
珠生は笑いながら起き上がり、部屋の寒さにぶるっと震えた。
「寒い……」
「そうか? 珠生はほんまに寒がりやな。抱き締めてやろうか」
「……もう遠慮しときます」
舜平が笑ってそんなことを言うものだから、珠生はぽっと頬を染め、逃げるようにベッドを出た。
+
明桜学園高等部、卒業式。
胸に生花の胡蝶蘭をつけた卒業生たちが、ずらりと整列して体育館に入場する。二年生は式典に出席するため、珠生と湊は並んで在校生席に座り、慣れ親しんだ先輩たちの顔を眺めていた。
穏やかなクラッシク音楽が流れる中、卒業証書の授与が終わり、二年生の代表によって送辞が読まれる。ちらほらとすすり泣きが聞こえる中、送辞を読んでいる女子生徒も涙ぐみ始める。なんとか泣き出すのを堪えて、その女子生徒は送辞を締めくくった。
次に、三年生代表による答辞が読まれる。誰が読むのかと思ってステージ上を見上げていると、軽やかな足取りで階段を登るのは彰だった。
全校生徒が見上げる中、彰はステージの上に設置された教卓の前に立ち、全校生徒をぐるりと見回して微笑む。そして、彰は原稿を持たずに話し始めた。
『在校生の皆さん、素晴らしい送辞をありがとうございました。生徒会長の斎木です。僭越ながら、僕が卒業生を代表し、皆さんへのメッセージを述べたいと思います』
マイクを通して聞く彰の声は適度に低く響き、とても心地よく耳に残る。彰は教卓に両手をついて、演説を始める政治家のように身を乗り出すような格好をした。
『ここ、明桜学園に入学して以来、僕は多くの人達と出会って来ました。僕はここに入学してすぐ、机を並べる者は皆ライバルであり、競いあう対象であると教え込まれました。
この学園は、学業成績が最優先。互いを刺激しあい、切磋琢磨しながら己の力を伸ばすべし……。当初僕は、それが当然だと思っていた。僕は他人になど関心がなかったし、信じられるのは自分の力だけだと理解していた。それはとても安寧な……孤独だった』
かつて強硬なまでに学力主義を訴えていた頃の学園理念を持ちだした彰に、教師陣が多少ざわつく。彰は涼しい顔をして続けた。
『孤独なとき、人間はまことの自分自身を感じる――これはロシアの文豪、トルストイの言葉です。
僕たちは人間だ。色々な感情を持ち、それぞれに影響し合い、時に傷つけあい、時に喜びを分かち合いながら大人になる。
しかし今、もし、目に見える成果に囚われ、自分以外の誰かを信じることが出来なくなっている人がいるなら、一旦立ち止まって周りを見てみて欲しい。そして孤独から眼を背けるのではなく、孤独を友とし、自分で考え、自分の感情を確かめてみて欲しい。
君が本当は、一番に何を望んでいるのか。一体君が、どんな大人になりたいのか。君自身を、大切にできているのかどうか。……僕が伝えたいことは、それだけです』
全校生徒がしんとして、熱っぽく訴える彰の声に耳を奪われていた。彰はもう一度微笑み、少し声のトーンを落とした。
『そして六年間、ご指導くださった先生方。僕は決して望ましい生徒ではなかったと理解しています。しかし、そんな僕を責めず、暖かく見守ってくださったこと、大変感謝しております。今まで本当に、ありがとうございました』
彰は一歩引いて、礼儀正しく一礼した。そして、すたすたとステージを降りていく。
体育館中から拍手が沸き起こる。そしてそれは、暫く止むことはなかった。
それは通り一辺倒な答辞ではなく、彰から後輩たちに向けて送られた力強いエールだった。
珠生は気づいていた。自分たちや葉山と出会う中で、彰が大きく変わって行ったことを。感情を失っていた彼が、様々な感情に心を震わせ、仲間たちを何よりも大切に感じていたことを。
だからこそ、ここで皆に伝えたかったのだろう。
何が人にとって、一番大切かということを。
隣りにいる湊を見ると、彼もずっと拍手を続けていた。
+
つつがなく卒業式は終了し、卒業生達が退場していく。
二年生たちは片付けという仕事があるため、暫く体育館で立ち働いていた。あっという間に式典から通常仕様に戻った体育館には、あっけなく、すぐに部活動の練習用のネットが張られたりしている。
珠生達はそんな体育館を見渡して、一息ついていた。「余韻のないことや」と、湊が呟くのを聞いて、珠生も苦笑して頷いた。
「ほんとだ。……それにしても、先輩カッコ良かったね」
「ほんまやで。最後の最後まであんな……。来年答辞を読む俺の身にもなってくれ」
「期待してるよ、生徒会長」
「……今から腹下しそうやわ」
湊はやや渋い顔をしたものの、晴れ晴れとした空の下に出ると、気持ちよさそうにため息をついている。
グラウンドではまだ数グループの卒業生や在校生の塊が見え、その中でひときわ生徒に群がられている彰が目に留まる。
面々を見ると、バスケ部の集まりであるようだが、写真撮影などを求める後輩女子が更にそこに加わり、えらく大きな集団になっている。珠生と湊は顔を見合わせて苦笑した。
「……さすが」
「来年のお前か?」
と、湊がニヤリと笑う。
「まさか。俺、あんなに社交性ないから」
「ま、何にせよ。俺らも高三か。早いもんやな」
「そうだね……」
この体育館の中で入学式を行なっていた時のことを思い出す。記憶も戻っておらず、まだ彰に怯えていたあの頃が遠い昔の事のようだ。入学早々猿之助の操る低級霊の竜巻に襲われたり、何となく喋るようになった湊が実は柊だったり……。色んな事があった。
「湊、来年は同じクラスかな?」
「どうやろうなぁ。二年間一緒やったし、最後は違うかもな」
「心細いなぁ」
「なに言ってんねん。もう大丈夫やろ、お前は」
なんだかんだと言って、いつも影のように珠生をサポートする湊の存在は大きいのだ。珠生は少ししゅんとして、湊を見上げた。
「俺だけ天道さんと同じクラスになったらどうしよう」
「別にいいやん。お前ら結構仲良しやろ?」
「いやいやいやいや、そんなことないですけど」
「そんな事言ってたら、同じクラスになるぞ」
「……そうだね」
二人は再び彰の方を見た。彰はバスケ部の面々と笑い合いながら、校門の方へと歩き去っていくところだった。
もう見ることのない制服姿の彰を、珠生と湊は笑顔で見送った。
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