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十七、旅
次の日は、悠一郎との旅行の日であった。珠生は朝から準備をしつつ、寝ぼけ眼の父親の朝食の支度もしているところである。
「旅行かぁ、あのカメラの人と?」
「そうだよ」
昨日のマスターとの会話などを含め、健介に説明しながらトーストを出す。コーヒーを注ぎながら、健介はふんふんと聞いている。
「僕の知らないうちに、いろんな知り合いが出来てたんだなぁ」
「そりゃあね、もう二年も住んでるし」
「いやぁ、頼もしいことだ」
と、なぜか健介は涙ぐみながらパンを齧っている。珠生はぎょっとして、自分のコーヒーを取り落としそうになった。
「なんで涙目?」
「いや、どんどん大きくなるんだなぁと思ってね。昨日なんか、この家に女の子がいるんだから……」
昨日はいつもより少し早く帰ってきたため、まだ湊、彰、亜樹が家にいたのである。健介は彰と湊はすでにもうよく知っている間柄であったが、健介は亜樹を見て仰天し、一歩後ずさるほどであった。
亜樹も初めて見る珠生の父親をしげしげと見つめていたが、そこはそつなく丁寧に挨拶をしていた。
「学校の友達じゃん」
「いや、びっくりしたよ。それに、可愛い子だったじゃないか」
「え!? どこが?」
「あれ? そうか?」
「あいつ本当に小憎たらしいんだよ。すぐに俺のことエノキだもやしだって……」
ふくれっ面でそんな事を話す珠生が珍しく、健介は声を立てて笑った。
「あはははっ、なんだ小学生みたいだな」
「ええ? なんで」
「気になる子を苛めたいんだろうな」
「気になる子って、俺のこと?」
「そうじゃないかな」
「まさか」
「でも結構、楽しそうだったじゃないか」
「うん……まぁね」
ああやってぽんぽんと言い合いができる相手も珍しい。珠生は亜樹の顔をしっかりと思い出そうとしたが、意外に思い出せないことに驚いていた。きゃんきゃんと文句をいう姿はなんとなく思い出せるものの、顔までしっかり思い出そうとするとはっきりしないのである。
「可愛い子、ねぇ……」
「父さんはいいと思うぞ、ああいう気の強い子」
「やめてくれよ。だから母さんと結婚したの?」
「う……」
健介はやや顔を青くして、黙り込んだ。さく、とパンをかじる音が響く中、珠生は苦笑した。
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悠一郎からメールを貰ってマンションから外へ出ると、そこに見慣れた黒いSUVが停まっている。珠生は目を丸くした。
運転席の窓が下がり、舜平がいつになく青白い、やつれた顔を出す。
「よう、珠生」
「え、なんで?」
すると今度は後部座席の窓が下がり、悠一郎が顔を出した。
「おはようさん」
「あれ? どうして?」
とりあえずトランクに荷物を載せ、珠生は空いている助手席へ乗り込んだ。舜平とまともに会うのは、二週間ぶりであった。
「水曜にフットサルで舜平と会ってな。車出してもらおうと思って」
「あ、なるほど……」
「一人二人増えるくらい、なんてことないって宿の人も言わはったし、どうせなら大人数もいいかなと思ってな」
「うん、それもそうだね」
悠一郎と舜平は幼馴染であり、ここ一年は二人でもよく飲みに行く仲であると聞いていたため、珠生は納得したように頷いた。
「一人二人ってことは、まだ誰か来るの?」
「ああ、美来ちゃんつながりで仲良うなった恩田芙二子って友達が来ることになった」
「へぇ、女の人なんだ。悠さんの彼女?」
「いやいや、そんなんちゃう。覚えてへん? クリスマス展の時、美来ちゃんが連れてきてた子」
「あぁ〜……はい、なんとなく」
「あの子、大学やめて美容の方へ進んだらしいねん。だから彼女にも気晴らしさせたってくれって、美来ちゃんが」
「そうなんだ」
何も言わずに運転している舜平の横顔を、珠生はちらりと見あげた。美来のことに一体どうやってけじめを付けたのか、まだ知らないのである。
「あの子は今神戸に住んでるから、最寄りまでは電車で行くって言っとったから、合流はもうちょい先やで」
「そうなんだ。神戸かぁ」
淡々とした二人の会話を聞きながら、舜平はひたすら前を向いて運転していた。すると、珠生が舜平のうでをつついた。
「なんや」
「論文はいいの?」
「……今はそれを言うな」
舜平は珍しく浮かない顔をして、そう言った。
「え?どうしたの?」
「珠生くん、こいつにも気晴らしが必要やねん」
「そうなの? 父さん、何も言ってなかったけど」
「いや、先生は関係ないねん。ちょっと、方向性が見えにくくなってきて手が止まってしもうて」
「へぇ、なんか皆大変だな……」
自分が一人お気楽な高校生であることに、珠生はやや気後れを感じながらそう言った。
昨日も夜中までバイトだったという悠一郎は、高速に乗ってしまうとすぐに眠りはじめた。舜平もどことなく浮かない顔のままだし、珠生はどう声をかけていいかも分からなかったため、黙っていた。
涼しい車内は、カーラジオから流れる、えらくいい声の男性DJが観光情報を情緒たっぷりに語っている声だけが満ちている。
「……安西のことやねんけど」
「あ、……うん」
「ちゃんと断ったから。……もう、なんも気にせんでいいからな」
「う、うん……」
前方を見つめたまま、舜平はいつもよりやや低い声でそう言った。珠生はそんな舜平の横顔を見つめながら、「別に、気にしてなかったし」と強がった。
すると舜平は口元を引き締めつつ、もう一度「ごめんな」と言った。
「……別に、分かってたけどさ。舜平さんにその気がないってことくらい」
「う、うん……でも。やっぱな、こういうことはちゃんとしなあかんし」
「まさか俺とのこと、喋っちゃったとか?」
「いや……それは言うてへん。何となく、な」
「うん。……そっちの方が俺も助かる」
「人には言えへん関係やけど、お前はそんなんでもいいんか」
「……いいよ。舜平さんが俺のものでいてくれるなら、それで」
珠生がそう言うと、舜平はちらりと横目で珠生を見た。そして、わかりやすく頬を染めて咳払いをする。
「そういうこと言われると、手ぇ出したくなんねけど」
「……ちょ、そういうこと言わないでくれる。悠さんもいるのにさぁ」
「お前がエロいこと言うからやろ」
「はぁ? エロいことなんか言ってないし」
「うーん……」
悠一郎がかすかに呻き、頭のポジションを変えてまたいびきをかき始めた。珠生と舜平は同時に黙り込む。
そして珠生は、わざと話題をがらりと変えた。
「……そ、そういうえば。昨日先輩に会ったよ。うちでの勉強会で」
「あ、ああ、彰か。元気やったか?」
「うん。いつもと変わらず。同じ大学でしょ? 会わないの?」
「うちはでかい大学やからなぁ。学部が違うとあんまり会わへんねん。それに、俺はずっと研究室に引きこもりやからな」
「大変だね、研究って」
「まあな。なかなか先生のようにはなれへんな」
「先生って父さんのこと?」
「ああ。あの人はほんまに研究が好きやし、頭の中では多分いつもそのことを考えてはる。だからあんなええ論文がいっぱい書けんねんな」
「父さんの論文か……」
「まぁ、お前は読んでも分からへんかもな」
舜平はははは、と笑いながらそう言った。珠生はむっとしつつ、「読めるかもしれないじゃないか」と言った。
「せやな、お前は賢いから。すまんすまん」
舜平の手が珠生の頭の上に乗り、ぽんぽんと撫でた。久しぶりに感じる舜平の体温が心地良くて気が緩みそうになったため、珠生は敢えてツンとした口調で言った。
「ぽんぽんしないでくださいよ」
「はははっ、ごめんごめん」
舜平はそんな珠生のことなどお見通しのように、楽しげに笑っている。舜平の笑顔を見て、珠生もそっぽを向きながら微笑んだ。
サービスエリアで昼食を取るために停車したところで、悠一郎はようやく起きだした。
久しぶり晴れ渡った空を見上げ、悠一郎は大きなサングラスを掛ける。そして、思いの外自然の多いサービスエリアを見回すと、ごそごそとカメラを取り出して肩にかけた。
悠一郎が珠生を見ると、うーんと伸びをしながら顔をしかめているところである。
朝羽織っていた長袖のシャツを脱いだ珠生は、白いTシャツにジーンズを履いているだけなのにとても絵になる。本当に美しい人間は、何を着ていても美しいのだなぁと、改めて悠一郎は思った。
カシャ、と一枚そんな珠生を撮影すると、珠生が音に気づいて悠一郎の方を見た。
「サービスエリアだよ?」
と、珠生が笑うのを、もう一枚写真に収める。
「いいねん。今日、天気もいいからええ感じや」
「はよ行こうや。俺、ハラ減ったわ」
と、芸術については興味関心のない舜平はさっさとサービスエリアの方へと歩いて行ってしまう。悠一郎はサングラスでほとんど隠れた顔でため息をつくと、
「まったく、これやから美術2の男は」
と言った。
「え? 舜平さんのこと?」
「そうやで。あいつの絵、小さい頃からまぁ下手でな」
「へぇ、そうなんだ。見てみたいなぁ」
悠一郎の話に笑いを零しつつ、二人は舜平の後を追った。
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