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十八、お宿にて

 恩田芙二子は、えらく鄙びた駅にいた。  当然のように無人駅であり、駅舎はえらく古めかしく、あちこち苔むしている。この平成において、こんな駅がまだ機能しているということに、芙二子は驚いていた。  安西美来から電話をもらったのは三日前のことだった。あの写真家の卵、北崎悠一郎とその友人・相田舜平が気晴らしに旅行に行くというので、行ってみないかという誘いの電話だった。  美来の幼馴染である悠一郎のことは覚えているが、相田舜平という名前にはピンとこなかった。きっと会えば思い出すのだろう。  男だらけの中に女一人ということに、若干の抵抗を覚えたが、美来の幼馴染だし、人の良さそうなカメラマンだ、きっと大丈夫だろうと思い直した。それに、そこから何か発展してもそれはそれで歓迎である。今、芙二子には恋人がいない。  大学を中退し、美容専門学校へ入り直したことで、芙二子の生活は大きく変わっていた。美来と会うことも減っている。  周りから見れば、大学をやめて専門学校というコースは、歓迎されたものではないということは分かっている。  昔から、ファッションや美容に興味はあったが、それを深く学びたいとか、仕事にしたいということは思ったことはなかった。しかし、あのクリスマスの日、プロのカメラマンを目指す悠一郎を見て、彼を心底羨ましいと思った。  悠一郎には今後、華やかな世界に触れる機会が待っている。そして彼は、迷わずその道を進んでいる。そんな姿に刺激を受けたのだ。  芙二子はその後、三回生が終わるのをまたずに大学をやめた。美来にも相談はしなかった。自分一人で全て決めたのだ。  それでも美来は、そんな芙二子のことを応援してくれている。就職が決まった彼女は、芙二子の引越しを手伝ってくれたり、新しい学校で苦労している芙二子の話を何時間も聞いてくれたりした。とても、ありがたかった。  芙二子はボストンバッグを地面において、今にも朽ち果てそうな木の階段に腰を下ろして迎えを待った。待ち合わせの時間には、まだ少し時間がある。  携帯電話を見ると、なんと圏外である。これでもし彼らと合流できなかったら、一体どうなるのだろうと、一瞬不安がよぎった。  しかし、軽いクラクションの音がして、美来の言っていた通り黒いSUVが芙二子の前に停まった。窓は全て開いており、見たことのある男と悠一郎が顔を出す。 「芙〜二子ちゃん! こっちこっち」  サングラスを上げて、後部座席からルパンよろしく芙二子を呼ぶ悠一郎が、笑顔で手招きをしている。芙二子は苦笑いで立ち上がると、そちらへ向かって小走りにかけていった。 「久しぶりー、って……ああ、相田くんってあなたのことか」  相田舜平の名前と顔が一致して、芙二子は笑った。 「ああ、クリスマス展示で……」 「そうそう、美来の友達です。……って、あれ? 珠生くん?」 「こんにちは」  助手席に座る珠生を見て、芙二子は目をまん丸にした。あまりの美少年ぶりに驚いたあのクリスマスの日を思い出す。  「何で珠生のことは覚えてんの?」 と、舜平が笑う。 「いやだって、すごい美少年だなと思ってたから……」  珠生が苦笑している。芙二子は急にテンションが上がってくるのを感じていた。      +  +  到着した宿は、かなり情緒あふれる秘湯であった。宿の周辺の風景はとにかく美しいものであったが、宿自体はとにかく古い。  敷地面積はかなりのものがあるのだろうが、木造建築物であろうこの宿は、ゆうに築百年は過ぎているであろうし、どことなく重苦しい雰囲気を醸し出している。そばを流れる清流は清々しくて美しいが、その湿気によってかなり痛みがきている様子も見て取れた。  宿泊費が無料というのも頷ける、と悠一郎は思った。他に客はいないらしく、静かなものであるし、一番広い部屋を都合してもらえた。奥まった広い部屋に入ると、意外と部屋は清潔で畳も真新しいものが敷いてあることにホッとする。 「温泉はちょっと離れとるけど、浴衣で出てもらったらいいから」と、マスターの友人であるという番頭がそう言った。 「夕食は六時半ね。マスターには世話になってるから、ゆっくり寛いでいってな」 「ありがとうございます」  悠一郎が代表して番頭に礼を言うと、番頭はニカッと笑って姿を消した。どことなく妖怪じみた怪しさのある男である。  芙二子は隣の部屋を一人で広々と陣取っているが、荷物を置くとすぐに悠一郎たちのいる部屋へとやって来た。 「なんだか不気味と思ったけど、中は結構きれいでいいねぇ」 と、芙二子は川の見える窓辺に置いてある応接セットの椅子に腰掛けた。 「さてと。俺、温泉入ってくるわ。運転で疲れたし」 と、舜平は伸びをして座椅子から立ち上がると、押入れから浴衣を取り出し始めた。 「お前らはどうする?」 「うーん、ちょっとこの周辺見て回りたいねんなぁ。珠生くんは行ってきたら?」 「えっ、あ、うーん。俺は夕飯の後にしようかな……」 「そうか? ほな、俺が一番風呂もらってくるわ」 と、若干残念そうな顔をする舜平を見送りながら、珠生は人知れず頬を染めた。舜平とふたりきりで温泉に入るなど、想像しただけで身体が疼いてしまいそうになる。悠一郎や芙二子もいるというのに、温泉に浸かるだけで済むはずがない。  座椅子で寛いでいる悠一郎と珠生は、まだ腰を上げる気配がない。芙二子も座椅子から立ち上がり、「あたしも温泉入ろっと」と行って部屋を出た。    二人が温泉に行ってしまうと、悠一郎は景色を見るべく立ち上がって窓を開けた。夏だというのに涼しい風が、ふわりと部屋の中に入り込んでくる。  悠一郎は深い緑と、豊かな水の流れを見下ろして、深呼吸した。 「気持ちいいね」  隣に立って景色を眺めはじめた珠生がそう言って息をつく。悠一郎は頷いた。 「生き返るって感じやな」 「確かに、顔色戻ってる」 「そう?」 「うん、ひどい顔してたもん、悠さん」 「はは、そっか」  悠一郎はふと思い立って、 「なぁ、下に降りてみようか」と言った。窓の外には申し訳程度にベランダのようなものがあり、その下には非常用の梯子のようなものが見える。悠一郎はそれを伝って川べりへ行ってみようと言っているのだ。 「うん、いいよ」 「よし、行くで」  身軽な珠生はいいが、カメラを持って移動する悠一郎はかなりおっかなびっくりである。梯子はつるつると滑る上に、いったいいつ作られたのかわからないほどに古い。帰るときは回り道をしようと、悠一郎は心に決めた。  梅雨時のためか、川の水量はかなりのものだ。岩や砂利に覆われた川沿いの道を、二人は恐る恐る滑らないように歩いた。   「もっと開けた場所があればなぁ……」 と、悠一郎がサングラスを上げてぶつぶつと言っている。結局心休まっていない様子を見て、珠生はまた苦笑した。 「水は綺麗やし……ええんやけど……」 「悠さん、また眉間にしわ寄ってるよ」 「あ、しもた」 「いいじゃん、ただ散歩しようよ」 「お、おお。せやな」  悠一郎はカメラのレンズにカバーをはめて、ぶらぶらと珠生の後をついてきた。身軽に岩の上を飛び跳ねるように歩く珠生を見て、悠一郎は驚いていた。 「珠生くんて意外と身軽なんやな」 「意外?」 「ああ、君大人しそうやから」 「ははっ、そうだよね」  何なら三メートルはある対岸まで飛び越えることもできるが、珠生はそれはしないことにした。ひょいと大きな岩の上に登った珠生を見て、悠一郎ははっとしたように思わずカメラを構える。  太陽を背負い、岩の上に立つ珠生の姿が、何とも神々しく見えたのだ。やはり珠生は、自然の中にいてこそ本来の美しさを発揮するように見えた。 「そこにおって」 「え?」 「その岩の上、立っててくれるか」 「はい」 「ちょっと、周り見回す感じで動いてみて」 「オッケー」  悠一郎は角度を変えたり、場所を動いたりしつつ珠生を撮影した。珠生は自然な表情で川を見下ろしたり、深呼吸してみたり、片手を腰に当ててみたりと好きに動いている。  カシャカシャと音を響かせてシャッターを切り、悠一郎はファインダーから目を離した。 「ありがとう。ええ感じや、神々しい」 「こ、神々しいの?」 「おお、なんか今の光の加減と合わさってな。表情も良かったで」 「それは良かった」  珠生は微笑んで、ひょいと身軽に岩から降りてきた。

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