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二十七、空を彩る

 電車の中からすでに混雑していたが、電車を降りると更に混雑していた。  しかし、そこにいる若者たちや家族連れの表情は皆明るく楽しげで、立ち並ぶ屋台の列や賑やかに交わされる呼び込みの声などで、祭りのような活気にあふれている。  珠生はそういう陽気な人々の気を感じ取って、少し楽しくなってきていた。きっと今までは、人ごみの中から苛立ちや焦燥感といったものばかりを感じ取ってきていたから、あんなにも混雑が苦手だったのだろうと、珠生はふと思う。  亜樹を見ると、その活気にやや気圧されているようにも見えた。慣れた感じで先を歩く湊と百合子は、しっかりと手をつないで楽しげに屋台を見物したりしている。 「大丈夫?」 と、珠生は亜樹に声をかけた。亜樹は珠生を見上げて、「大丈夫や」とだけ言った。 「慣れない人ごみでびびってんだろ」 「あほか、びびってなんかないわ」 「本当かなぁ」  珠生にからかわれて、亜樹はむっとふくれっ面をした。すると亜樹は、子どもを肩車した大柄な男にぶつかって、「あ、すいません」と謝っている。 「前見て歩かないと危ないよ」 「あんたがごちゃごちゃ言ってくるからやん」 「あ、ほら、危ない」  再び人にぶつかりそうになった亜樹の肩を、珠生がぐいと抱き寄せる。亜樹の心臓が、どきんと大きく跳ねた。 「……な、な、な、な何すんねんスケベ!!」 「あっ……ごめん。ってか手助けしたのにスケベはないだろ!」 「うっさいねんスケベスケベ!!」  ぱっと二人は離れると、めいめい前を向いて歩き出す。赤面しっぱなしの亜樹は、火照った頬を押さえようと、かき氷屋の前で立ち止まった。 「かき氷食べよっと」 「お、いいやん」  湊たちもかき氷を購入し、四人は人の流れから少し離れてかき氷を食べた。食事はすでに簡単に済ませてきているため、デザートだ。 「何やその青いの」 と、湊がブルーハワイを食べている百合子の手元を見てそんなことを言った。 「ブルーハワイやん。食べたことないの?」 「なんやそれ、不自然な色やな」 「おいしいで。ほら、あーん」  百合子にかき氷を食べさせてもらっている湊を、珠生と亜樹は呆然と見あげた。湊は大して照れる様子もなく、「どのへんがハワイなん?」など言っている。そんな湊の台詞にまた百合子が楽しげに笑っている顔を見ていると、こっちが照れてしまいそうだ。 「珠生のは真っ白やな」 と、湊。 「ああ、みぞれだから」 「お前はいつでも白っぽいな」 「確かに」 「そういえば、沖野くんと亜樹って、今日何となく色合ってるな。打ち合わせでもしたん?」 と、百合子が珠生が裾からのぞかせているオレンジ色のタンクトップと、亜樹の緋色の浴衣を見比べながらそう言った。ちなみに亜樹はいちご味を食べている。いつでも赤っぽいのである。 「うわ、ほんまや」 と、亜樹は初めて気がついたようにそう言った。 「たまたまだよ」 「恥ずかしいから脱いどいてよ」 と、亜樹が迷惑そうにそう言うと、珠生は「何でだよ、いやだよ」と言い返す。 「いいやんいいやん。よう似合ってるで、二人とも」 と、湊が珍しくそんなことを言った。亜樹はじろりと湊を睨む。 「あんた百合がおるからって浮かれてるやろ」 「別に浮かれてへんわ」 「贅沢やなぁ、柏木のくせに」 「はぁ、意味わからへん」  二人のやり取りを見て百合子はまた笑う。珠生も微笑んだ。  なんだかんだ、亜樹も結構楽しそうに見えたからだ。湊に文句を言うものの、そこにはいつものような毒気はない。 「ほら、川の方行こ。いい場所あるかなぁ」  百合子に促され、四人はまた歩き出す。川辺の方へ向かうにつれて、人はまた一層多くなっている。いったいつからスタンバイしていたのか、川辺にはレジャーシートを敷いて、ばっちり下準備を行なっている者たちも多い。花火にかける情熱に、珠生は目を丸くしてしまう。  歩きながら眺めたり、いい場所があれば腰掛けて見ようかという話になり、四人はうろうろと人ごみの中を歩きまわる。すると、橋のそばの岩場の上にぽかりと空いている場所を湊が見つけて、そこに皆で腰掛けることにした。 「これ、敷くか? お前、白い浴衣やし」 と、湊がポケットからハンドタオルを取り出して百合子に見せると、百合子は嬉しそうに笑って頷いた。そんな湊の男らしい気遣いを見て、また珠生と亜樹は呆然とする。 「……すごいな湊」 「あいつ、あの気遣いの百分の一でもうちに見せたこと無いくせに」  珠生たちは、自分たちの前に座った湊と百合子が、ぴったりと寄り添っている背中を眺めながらそう呟いた。  たまに顔を寄せて何やら話をしては、百合子が楽しげに笑う。そんな百合子を見ている湊の表情も、いつになく優しく朗らかに見えた。といっても、ほとんど表情は変わっていないのだが。 「人が多いと暑いなぁ」 と、横座りした亜樹が手で首筋を仰いでいる。何も言わず、珠生は手にしていたうちわで亜樹を扇いでやった。亜樹はちょっと目を見はって珠生を見ると、「苦しゅうない、もっと扇げ」と言った。  むっとした珠生が、わざと強く風を送ると、亜樹が今度は怒り出す。 「あほ! 強すぎや!」 「注文が多いなぁ、これでいい?」 「弱すぎる」 「じゃあ自分で扇げば」 「それは嫌や」 「ったくもう……」  なんだかんだと言いながら、気持ちよさそうに珠生の送る風を受けている亜樹を、かわいく思った。亜樹の和装は見慣れているつもりだったが、やはり巫女衣装をまとって表情を引き締めている亜樹と、今こうして楽しげに女の子らしく浴衣で身を飾っている亜樹は全然違う。  普通の女子高生として、楽しげに夏を過ごす亜樹を見ることができたことは、珠生にとっても嬉しいことだった。  その時、ぽん、ぽん……と上空で白い煙玉が弾ける。  いよいよ始まろうとしている花火大会に、そこにいる誰しもの意識が上空へと向かった。  空を切る音が響き、どぉん……と心臓に直接響くような轟音を上げて、空に大輪の花が咲いた。一発目の巨大な枝垂れ柳に、皆が歓声をあげて拍手を送る。  初めて間近で見る花火とその豪快な音に、珠生の心が震える。思わず笑顔がこぼれて、空から目が離せなくなる。  どぉん、どぉん……! と立て続けに明るい花火が空に舞い、あたりを昼間のように照らしだす。たまたま座ったにしてはいい場所で、花火の全体がよく見える場所だ。  立て続けに小さな花火が川から打ち上がり、きらきらとあたりを照らす。そしてまた空高くに上がった大きな菊のような花火が、辺りを揺るがす轟音を立てて弾けた。ぱちぱちと爆ぜるような音を立てながら、消え際に一層輝く花火がすうっと消えて行く。一瞬の静寂の後、また周りで皆が拍手をしはじめた。 「すごいすごい!! めっちゃきれいやぁ!!」  亜樹も空を見上げて、夢中で拍手をしている。いつになく全開の笑顔を浮かべている亜樹の黒目がちの目が、今も花火をとどめているようにきらめいて見える。 「すごいなぁ、こんなにきれいなんやな」 と、亜樹は笑顔で珠生にそう言った。笑顔で話しかけられることなど初めてである珠生は、それにまた驚きつつも、花火のあまりの美しさと迫力、そして亜樹の楽しげな顔が嬉しくて、笑顔を返した。 「うん、すごくきれいだね。来てよかった」 「まだまだこれからやで、珠生」  振り返った湊が嬉しそうにそう言うと、また花火が上がり始める。ぽんぽんと、ハート型やスマイル型の花火が打ち上がるたび、亜樹は楽しげに笑っていた。  そんな声を背後に聞きながら、百合子と湊は笑いあった。 「良かったぁ、二人共すっごい楽しそう」 「ほんまやな。こっちも嬉しくなるわ」 「今年は特に綺麗な気がする」 「うん、俺もそんな気がするわ」 「湊と一緒に見てるからかな」  百合子の言葉に、湊は花火から目をそらしてその横顔を見た。花火に照らされた百合子の顔が、尚も一層きれいに見えた。 「お前のほうがきれいやで」  湊は素直な気持ちで、花火の音に負けないように百合子の耳元でそう言った。百合子は目をまん丸にして、湊を見上げる。すぐに顔を花火の方へ戻してしまった湊の横顔を見上げながら、百合子は全身から湧き上がるような幸福感に身を委ね、湊の腕にしっかりと抱きついた。  花火に夢中で、目の前でそんな事が起こっているとは気づかない珠生たちも、ただ一心に花火を見上げていた。  皆が一体となって、空に上る花を見守っている。そして、見ず知らずの、そこに集った人々はみんなが笑顔だ。  平和な夏の夜。  美しい花火。  初めて見た、亜樹の楽しげな笑顔。  そこにいる誰もが、同じ方向を見て笑顔になっているという光景。  珠生はとても、幸せだと感じた。  珠生は空を見上げたまま、そっと目を閉じて、その場に満たされたきらめく空気を感じた。  また一層大きな花火が空に打ち上がる。瞼越しに感じる明るい光を求めて、珠生はしっかりと、その景色を記憶に焼き付けた。

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