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二十九、夜顔の人格

 亜樹を送って宮尾邸に到着すると、柚子が心配そうな顔をして珠生を迎え入れた。  付近を探して戻ってきたところだという柚子を、亜樹がなだめて座らせる。珠生はぐっと眉を寄せて窓の外を見た。 「……大丈夫、深春の気を感じます。俺が連れて戻ります」 「……沖野」 「大丈夫。どうせまた、タバコでも吸いにふらついてるんだろ。叱ってやんないと」  不安げな亜樹に、珠生はそう言って微笑んでみせた。柚子はつかれた顔のまま、ため息をつく。 「……最近、ちゃんと話ができてなくって……。きっと深春ちゃんに、無理させてしまっててんやろうなぁ……私は保護者失格です」 「そんなことないですよ。ちょっと一人になって考えたいことでもあるんじゃないかな」  珠生は座り込んだ柚子の前に膝をつき、にっこり笑った。 「すぐ戻ります。待っててあげてください」 「……はい。お願いします……」  珠生はすぐに立ち上がると、早足に宮尾邸を出た。  匂いはあった。珠生は夜目にまぎれてひらりと民家の屋根を伝って走りながら、その匂いをたどった。  また喧嘩でもして暴れているのではなかろうかと、ふと心配になる。あの力を使えば、きっと人を傷つけてしまう。最悪の場合、相手を殺してしまう可能性だってあるのだ。  ここ最近、深春のことをあまり気にかけてやっていなかったことを悔いる。深春が記憶を取り戻してから、まだ半年も経っていないのだ。不安にならないはずがないというのに。珠生は、一見穏やかになった深春の生活面に安堵して、油断していた自分を責めた。  深春の匂いが濃くなる。珠生は辺りを見回して、ひらりと地面に降り立った。  そこは、賀茂川の上流、上賀茂のあたりである。民家も川からほど離れており、川の辺りは真っ暗に近い。道路に面して建っているコンビニエンスストアの明かりが、白く川面に反射している。  その川の畔に、深春が力なく座り込んでいる様子が見えた。ぼうぼうと茂った夏草の中、隠れるように深春はいた。  珠生がゆっくりと歩み寄ると、ざ、ざと砂利を踏む音が静かに響く。  それでも深春は、顔をあげようとはしない。 「……深春」  呼びかけても、体育座りをして膝に載せた腕に顔を突っ伏している深春は、動かない。珠生は更に近づいて、そっと深春の肩に触れた。 「深春」  どきりとした。深春は泣き濡れた顔を持ち上げて、珠生を見上げたのだった。  どこまでも心細げな深春の表情は、夜顔のものとよく似ていた。珠生は安堵の息をついて、深春のそばに座った。 「……こんなところで何してんだ? 帰ろう」 「……千珠、さま」 「え?」 「藤之助は、どこにいるの……?」 「あ……」  深春は珠生の腕をひしと掴むと、必死な泣き顔のまま珠生に詰め寄った。 「藤之助は……? なんでここにいないの? 僕……藤之助に会いたいんだ。どうして? どうして僕、こんなところにいるの?」 「夜顔?」 「……千珠さま。僕、寂しいんだ。会いたいんだよ、藤之助に。僕の、僕の家族なんだ。僕、一人はもう嫌だよ……!」 「夜顔……」  寂しさのあまり、夜顔の人格が表に出ているのだろうか。初めて目の当たりにする深春の変貌ぶりに、珠生は戸惑っていた。ぽろぽろと大粒の涙を流して泣いていると、自分よりも大きな身体をしているのに、えらく小さく儚げな存在に見えた。   「夜顔……おいで」  珠生は膝で立つと、泣いている深春を抱きしめた。深春は嗚咽を漏らしながら、珠生の白いTシャツに顔を埋めている。ふんわりとしたくせっ毛の黒髪をゆっくりと撫でながら深春の肩を抱いていると、深春の手が珠生のシャツをぎゅうっと掴む。すがりつくように。 「夜顔……ごめんね」 「……千珠さま、なんで謝るの」 「藤之助は、ここにはいないんだ」 「……でも、僕は……僕はここにいるのに……」 「うん、お前はここにいる。……藤之助は、ここにはいないんだ。でもね、きっとどこかにいるはずだから……」 「遠く……?」 「うん、遠くだ。きっとまだ、夜顔を見つけることができていないだけだよ」 「僕を……見つけてくれるかな」 「うん、きっと。見つけてくれるさ。どれだけ遠くにいても……きっと。だから待ってよう。元気な顔で、藤之助に会いたいだろう?」 「うん……」 「じゃあ、帰ろう。こんな暗闇にいたんじゃ、藤之助が夜顔を見つけることができないだろ?」 「うん……」 「いい子だね、夜顔」  自分よりも大きな身体の深春の手を引いて、珠生は川を下っていった。尚もしくしくと泣き続けている深春を連れて公共機関を利用することも憚られ、珠生たちはひたすらに川を下って歩いた。  深春の骨ばった大きな手が熱い。蒸し暑い夏の夜、河川敷がきちんと整備された辺りでは、学生が花火をしたり屯していたりと、そこそこに賑やかだ。珠生はなるべくそういう喧騒から離れ、深春を守りながら歩いた。  小一時間ほどかけて宮尾邸まで戻ってくると、時刻はちょうど日付を超えていた。珠生はふと、今日は家にいるはずの父親のことを思い出し、どう連絡をしようかと考えた。きっとひどく心配しているだろう。  深春に向き直ってみると、深春は今もしゅんとしたまま、まるで子どものように目をこすりながら宮尾邸を見上げている。 「……ここ、おうち?」 「そうだよ。夜顔、お前の今のお家だよ」 「ぼくの……?」  泣き疲れ、歩き疲れて眠たげな深春は、えらく幼児退行してしまっている様子が見て取れた。珠生は手を伸ばして深春の頭を撫でると、安心させるように微笑んだ。 「今夜は、俺も一緒に寝るから。ね? 大丈夫だよ」 「……うん」 「ほら、もう眠たいだろ?」 「……うん」  帰ってきた深春に飛びつかんばかりの勢いで現れた柚子と亜樹を見て、深春は怯えてしまったらしい。さっと珠生の背中に隠れてしまう。そんな深春の反応に、二人は仰天しているようだった。 「……とりあえず、今夜はもう寝かせます。俺、泊まっていってもいいですか? 深春の部屋で、一緒にいるから」 「あ、もちろん……。おうちの人、大丈夫?」 と、柚子も珠生の父親のことを気にかけている様子だ。 「大丈夫、メールしておきます」 「……そう。ありがとうね」  柚子は安心したように微笑み、安堵からか肩を落とした。随分疲れた様子の柚子の背中を支えて、浴衣から私服になっている亜樹が珠生を不安げに見つめている。 「……深春、一体どうしたん」 「落ち着いたら、ちゃんと話すよ。とりあえず今夜はもう寝かせるから、大丈夫」  珠生はにっこり笑った。しかし蒸し暑い夜の道を歩いてきたため、二人共えらく汗をかいている。珠生は張り付いたTシャツをつまんで、「ねぇ、なにか着替えかしてくれない?」と言った。 「え? うちの?」 「天道さんの服は入らないだろ。深春のだよ」 「ああ、浴室のタンスに、寝間着にしてるシャツがあるはず……」 「ちょっとシャワー浴びちゃおうかな、いいですか?」 と、珠生は深春の背に手を添えたまま、柚子にそう尋ねた。  柚子は頷いて、珠生と深春をバスルームへ案内する。亜樹はそんな二人を見送りつつ、「一緒に入るんやろうか……」と呟いた。  すっかり子どもに返ってしまっている深春にシャワーを浴びさせ、珠生もささっとシャワーを浴びた。深春は恥ずかしそうにそそくさと服を着替えて、珠生の裸体からはずっと目を背けている。 「別に見たっていいよ。男同士だろ」 と、珠生が言うと、深春はまたはにかんだようにうつむいた。  いつもの深春からは想像もできないこの反応に、珠生はつい笑ってしまった。      +  +  深春をベッドに寝かせ、珠生はベッドサイドに座り込んだ。そっと、まだ乾ききっていない深春の髪を撫でると、深春はタオルケットの下から目だけを覗かせ、珠生を見た。 「……千珠さまは、ここにいる?」 「うん、いるよ。藤之助が来るまで、俺がお前を守っててやるからね」 「……ほんと?」 「うん、ほら」  珠生が深春の手を軽く握ると、深春は少し安堵したように微笑んだ。そんな微笑みに、珠生はにっこりと笑みを返し、ゆっくりとした動きで深春の頭を撫で続ける。  徐々にとろんとしてきた深春の目が完全に閉じてしまうと、珠生は枕元に肘をついて深春の寝顔を見つめていた。  ふと、舜平のことを思い出す。  ――舜平さんも、舜海も、いつもこうやって俺ことを見守っていてくれたのかな……。  懐かしい夜のことを思い出しながら、珠生は深春の頭をまた撫でた。 「……夜顔」  そっと名を呼び、深春の手を握りしめたまま、珠生はうとうととベッドサイドに顔を突っ伏して眠ってしまった。  

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