250 / 533

三十五、違う教室

 九月も終わりに近づいた頃、学期始めの試験結果が貼りだされた。  柏木湊は、いつものように人だかりのできた掲示板前に歩いて行き、掲示を見る。  ”一位 柏木 湊 四九八点”   ここのところ定位置のようになってきた一位の座に、今回も収まっているようだ。なんとなく亜樹の名を探してみると、”十位 天道亜樹 四八八点”、とある。  宮尾邸にすっかり落ち着き、学問の成績のみでその存在を判断されるようなことがなくなってからというもの、亜樹はそのあたりに名前を落ち着けるようになってきていた。それでも十分上位なのであるが。  ついでに珠生の名を探してみようと視線を巡らせると、思いの外早く珠生の名前が見つかったので驚いた。  ”二十一位 沖野珠生 四七六点” 「天道に追いつきそうな勢いやな」 と、湊は一人呟いた。  そういえばここ二週間ほど、珠生と会ってない。そろそろ始まる球技大会及び文化祭の準備で、生徒会長である湊は非常に忙しい。珠生は書記だが、大きな会議があるわけでもなく、まだ取り立ててクラスと生徒会の間を行き来する必要もない時期であるため、生徒会室には姿を見せないのである。  去年は毎日のように一緒にいた事を思うと、やはり少し寂しい。  珠生の顔を見に行こうと、湊はE組の方へと足を向けた。   「珠生、おる?」  湊がE組の教室を覗きこみ、近場にいた女子に声をかけると、眼鏡をかけた真面目そうな女子生徒が、ぽっと頬を染めた。 「お、沖野くん?」 「なんで照れてんねん」 「や、別に……。てか自分で行ったらいいやん」 と、珠生の名に一瞬ときめいたものの、読書を邪魔されたことに改めて不機嫌な顔を見せるその女子生徒にそう言われ、湊は肩をすくめてE組に入った。  違うクラスというのは、どうしてこう、入っただけで異空間に迷い込んだような気持ちになるのだろうか。去年まで同じクラスだった面々も、なんだか急に違う世界の人間になったかのように感じられる。  珠生は、窓際の一番前の席で、例によって梅田直弥と空井斗真とともにトランプをしていた。珠生はいち早く湊に気づくと、嬉しそうに笑った。 「湊」 「おう、なんか久しぶりやな」 「どうしたの? 珍しいね」 「お前の順位がえらい上がってたから、からかってやろうと思って」 「ひどいなぁ、そこは素直に褒めてよ」 「へいへい、偉かったな」 「へへっ」  わしわしと湊に頭を撫でられて喜んでいる珠生は、まるで湊のペットのようだと直弥は思った。そしてまた、そんな珠生をぼうっとして見つめている斗真を見て、本気で心配になる。 「いってえ!」  トランプケースの角でまた頭を叩かれた斗真が、悲鳴を上げる。湊は笑って、「何やってんねん」と言った。 「最近、斗真は沖野が好きすぎてやばいねんな」 と、直弥が湊にそう言うと、真っ赤になった斗真が大慌てで否定する。 「ばっかやろう! そんなわけないやろ!」 「見とれすぎやろ、きもいねん」 「俺は沖野の顔が好きなのであって、別に沖野を好きなわけではない!」 と、斗真は大まじめに言った。 「それはそれでへこむな」 と、珠生が苦笑いするのを慌てて取り繕っている斗真を見て、直弥は大きくため息をついた。 「こんな調子や、お前がおらんから、ボケがちらかってしゃあないわ」 「ははっ、苦労してんな」 と、湊は直弥の肩を叩いた。 「球技大会、何でるん?」 と、斗真は気を取り直して湊にそう尋ねた。 「今年は野球にでも出てみようと思ってな」 と、湊。 「あれ、バスケじゃないの?」 と、珠生が驚いている。 「去年は吉良に無理やり入れられたんやからさ。珠生はバスケ?」 「うん。空井も梅田も、あと本郷も一緒だよ。もう一人は、本郷の友達のサッカー部の子」 「え! お前、本郷とバスケすんのか? できんの? いじめられんで」  去年あれだけ折り合いが悪かったのに……と思いつつ、湊はそう言っていた。 「おい、失礼なこと言うな」  がし、と湊の首に腕を回してきたのは、当の本郷優征だった。湊よりも更に背の高い優征に、じろりと睨まれる。 「俺はすっかり珠生とは仲良しや。なぁ?」 「うん、まあ」  珠生も淡々と返事をしているところを見ると、もう二人の間に確執はないらしい。 「びっくりやな」 と、湊は素直に驚いた。 「つーか優征さぁ、なんでお前が珠生って名前呼びやねん」 と、斗真が突っかかる。 「はぁ? 別にいいやん、呼び方なんかなんでも」 と、優征は湊から腕を離して、ポケットに手を突っ込んだ。 「お前も名前で呼んだらいいやん」 と、優征はどこか勝ち誇ったような表情でそう言った。 「うん、別にいいのに。俺も斗真って呼ぼうかな」  珠生がそう言うと、斗真はきらきらとした笑顔を珠生に向けて、こくこくと頷いている。まるで忠犬がしっぽを振っているようだと、直弥は思った。 「さて、俺は行くかな」 と、湊が床に置いていた鞄を持ち上げると、珠生は少しばかり淋しげな目をして湊を見あげている。  何か話したそうな珠生の表情を汲み取って、湊は去り際にこう言った。 「今日、生徒会室寄れるか? ちょっと見といて欲しいもんがあんねんけど」 「うん、大丈夫。行く」  珠生はちょっとホッとしたような顔をして、微笑んだ。  +  京都大学北山キャンパスでは、すっかり秋の様相を見せ始めた木々が、さわさわと涼しげな音を立てて揺れている。  そんなさわやかな季節であるが、四回生たちにはそんな季節の移ろいなど目にも映らない。  卒業論文提出まで、あと二ヶ月を切り、そろそろ皆の顔に余裕がなくなってくる時期だ。青白い顔でキャンパス内をうろつく学生が増え、締め切りという言葉に異様に敏感になる学生も増えてくる。  彰はそんなキャンパス内の風景を観察しながらベンチに腰掛け、缶コーヒーを飲んでいた。 「……そう、ようやく行方が分かったか」  そんな彼の隣りにいるのは、小柄な少女だった。タータンチェックの短いスカートに、白いシャツと紺色のカーディガンを羽織った、いかにも今時の女子高生風の少女である。さらりと艶やかな黒髪を肩の下あたりで揺らし、どういうわけかローファーを脱いで綺麗に揃え、ベンチの上に正座をしている。 「はい、富山に赴いていた弓之進殿が確認したとのことでございます」  えらく時代がかった口調でそういった少女は、紙コップに入った暖かい牛乳を両手で持って啜った。まるで茶道の動きである。  「ふうん……。やはりまだ能登にいたか。雷燕の封印は?」 「そちらにはまだ異常はないとのことですが……藤原様はもっと能登に人員を向かわせるとおっしゃっておられます」 「……なるほどね」 「墨田様もそちらへ向かわせると」 「敦か」 「はい」 「……深春の方は?」 「宇治政商には、私の手下(てか)を潜り込ませております。人形(ひとがた)ではないため、目立たず気づかれておりませぬ」 「そうか。変化はない?」 「一時期のような気の乱れはありませぬ。千珠さまがお宥めになったとか」 「そうなんだけどね……。珠生は珠生で心配だし……」  彰と並んで正座しているその女子高生を、通りすがる学生が訝しげな目線をやりながら通りすぎていく。姿勢が良すぎるために目立っているのである。 「蜜雲(みつくも)、きみは明日から、明桜高校へ行って珠生たちのそばにいろ。何かあったらすぐに僕に連絡するんだ」 「承知致しました」 「制服くらいは調達しようか?」 「いいえ、お気遣いなさらず。私、変化は得意中の得意でございますゆえ」 「……変化するのはいいんだけど、もう少し現代人の動きを勉強したほうがいいんじゃないかな」 「そうでございますか?」 「いやまぁ、いいんだけどね」 「私、こう見えましてももう齢八百をとうに過ぎておりますゆえ、難しいですなぁ」 「まぁ、前世からの付き合いの君がまだ現役で、僕も頼もしいよ」 「佐為様にそう言っていただけると、私も勤めに励みが出ますな」  蜜雲、と呼ばれたこの女子高生風の少女は、実は化け狐なのである。  彰が一ノ瀬佐為であったころから、使い魔として彼が育てていた妖である。  大学へ通うようになり、珠生や亜樹、そして深春のことを間近で見ることのできなくなった彰は、使い魔を再び使役することにしていた。これは藤原しか知らないことである。  妖は長命だ。実際の姿は、乳白色の長い毛をした大きな狐なのだが、今は人間の姿に変化している。 「今日の君の姿、一体何を見て変化したんだ?」 「これは、落ちていた書物に、このような若いおなごが写っておりましたので。いかがですかな」 「まぁ、可愛いけど……」  きっとアイドルか誰かだろう。余り目立つ人物に変化されても困るのである。  「すかーとというのは、股ぐらが涼しくていいものでございますなぁ」  ぺら、とタータンチェックのスカートをつまむので、前を通りかかった男子学生がぎょっとしている。彰は慌ててそれを止めた。 「いいかい、現代人というのは、なかなか作法にうるさい人種なんだ。しっかり勉強しておくんだぞ」 「そうですか。わかりましてございます」  蜜雲は両手をついて深々と頭を下げた。彰はそれもやんわりと遮りながら、苦笑してため息をつく。 「……珠生たちには紹介しといたほうがいいかなぁ」 と、彰は牛乳をすすっている蜜雲を見ながらそう呟いた。 「まぁ、怪しまれて祓われてもかないませぬから、一言お伝えいただく方がいいかと思いますな。何しろお相手は千珠さまでございましょう? 妖の世界でもあのお方のお名前を知らぬものはおりません。私など一瞬で消されてしまいます」 「……それも可哀想だしな。まぁ、時期を見て伝えるよ。それまでは少し離れて見てやってくれ」 「あいわかりました」  蜜雲はゆっくりと頷くと、紙コップを恭しくベンチに置いた。

ともだちにシェアしよう!