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三十四、優征の憂鬱とちょっとした恋

 夏休みが終わって、新学期がやってきた。ざわざわといつもの賑わいを取り戻した校舎に、活気が漲る。  登校してきた珠生は、いつものようにちらちらと浴びせられる遠慮がちな女子生徒たちの目線を感じながら、靴を履き替えていた。すると、本郷優征がぬっと現れ、珠生を見てぎょっとしたように足を止めた。 「……おはよう」  優征を無視するわけにもいかず、淡々と挨拶をする。優征は、アイドルのようなはっきりした顔にどことなく不機嫌な色を載せ、「おう」と言った。 「お前、天道と付き合ってんねんな」 と、先に教室へと行きかけた珠生に向かって、優征はそう言った。珠生が振り返ると、優征はにやりと笑って続ける。 「宇治川の花火、行ったんやろ? なるほどね、せやからあん時も、ムキになって俺にあんなことしたんや」 「ああ……花火か」 「良かったやん、おめでとさん」 「え、付き合ってないよ? ただ花火に行っただけ」  珠生のドライな発言に、優征はやや面食らったような顔をした。ならば、あの文化祭準備の日、組み付き押し倒してきた珠生の気迫はなんだったのだ……そんな表情をしている。 「ほんなら俺、天道のこと狙ってもええねんな」 と、優征が挑むような目をしてそう言うと、珠生はちょっと首を傾げた。 「うーん、それは駄目だよ」 「は? 何でやねん!」 「だって天道さん、本郷のこと嫌いだし」  珠生は悪意のない顔で、優征を見上げながらそう言った。何となく歩調を揃えて、仲良くE組まで向かっているものの、どうにも反応に困る。 「……なんでお前にそんなん言われなあかんねん」 「だってそうなんだからしょうがないじゃん。だからやめとけって。本郷ならいくらでも彼女作れるだろ?」 「お前に言われると妙に腹立つな」 「そう?」  珠生は文句のつけようのない整った顔に、きらりとした笑顔を載せてそう言うと、先に教室へ入っていった。完全に負けた感の否めない優征は、多少イライラしながら教室へ入った。 「おう、沖野。おはよう」 「おはよう」  空井斗真と梅田直弥が、例によってトランプをしながら珠生に挨拶をする。二人の間の流行らしい。  珠生は鞄を置いて席につくと、二人のジジ抜きを眺めた。 「沖野お前、天道さんと花火行ってたらしいやん。噂になってんで、付き合ってんちゃうかって」 と、直弥がニヤニヤしている。 「あぁ、さっき本郷にも言われた」  珠生が苦笑いするのを、斗真はじっと見つめながら問う。 「で、どうなん? ほんまに付き合ってんの?」 「ううん、付き合ってないよ。それに、花火は湊と戸部さんと四人で行ったんだ」 「ふーん。なぁんだ」  斗真がややホッとしたような声でそう言うと、直弥は不審なものを見るような目つきで斗真を眺めた。 「なんで安心してんねん」 「え、あ、いやさ。先越されんのも寂しいやん」 「なるほどね」  珠生はまた苦笑した。そこへ百合子が鞄を肩に引っ掛けて登校してきた。 「おはよう、みんな」 「ああ、戸部さん。良い所に」  直弥が珠生と亜樹の噂について百合子に話すと、百合子は楽しげに笑って、斗真をべしべしと叩いた。 「そーんなに噂になってんだ。あーあ、亜樹のやつ、また不機嫌になるね」 「沖野は目立つからな」 と、斗真が痛そうな顔をしつつトランプを片付けている。 「ま、いいじゃん別に噂くらい。悪い事してるわけじゃないんやしー」 「まぁね」 と、珠生は意外と平気そうな顔をしている。 「俺は慣れたからいいよ」 「お、さすが。モテる男は言うことが違うねぇ」 と、百合子は人差し指で珠生の肩をつついた。 「つんつんしないでよ」  珠生がくすぐったそうに身をよじって笑っているのを見て、また斗真はぼうっとしている。直弥が呆れたように斗真の頭をトランプケースの角で叩くと、こつんと軽い音がした。 「いってぇ!!」 「お前、大丈夫かいな」 と、直弥が本気の心配顔をしている。斗真は頭を撫でながら、涙目だ。 「何がやねん。大丈夫に決まってるやん。てか殴ることないやろ」 「なにやってんの」 と、百合子が呆れたような顔をしつつ席に戻っていくと、珠生は改めて斗真の行く末を心配した。  +  本郷優征は、窓際の席から珠生達を眺めていた。  自分と同じバスケ部の斗真とえらく仲がいい様子を若干鬱陶しいと思いながら、優征は少しため息をついた。  去年の球技大会で完膚なきまでに負け、さらに文化祭で亜樹に迫っているところを邪魔された上に押し倒されてからというもの、珠生は目障りな存在だ。  恵まれた体格とはっきりとした目鼻立ち、そして機転の効いた話術のおかげで、優征は自分が女子たちに絶大な人気を誇ってきたと自負している。しかし、珠生が入学してきてからというもの、その人気も下火である。特にあの忌々しい昨年の球技大会から、珠生の人気は急上昇だ。気に入らない。  今まで敬うように自分を見上げていた女子生徒たちの目線は、今はほとんど珠生の方へ向いているといってもいい。  どちらかというと女性的で親しみやすい容姿と、涼しげに整った美しい顔立ち。背が伸びて、表情も豊かになった珠生からは取っつきにくさが消えている。そりゃモテるだろ、と理解できる。  優征から見れば、あんななよなよした男のどこがいいのかと言いたくなるが、自分のようにがっしりとした大柄な男よりも、可愛いかわいいといって近づきやすい珠生のほうが、女子生徒にとっては親しみやすいのかもしれない。  優征はぼんやりそんなことを考えながら、じろじろと珠生を観察していた。  その日は、優征と珠生は日直だった。  珠生は相変わらず淡々とした表情で、優征がサボっている黒板消しや提出物集めを文句も言わずにこなしている。そしてそんな様子を、うっとりしながら眺めている女子達を見て、優征は仕方なく立ち上がった。  黒板の端から端までびっしりと文字を書くという日直泣かせの物理の教師が去った後、珠生がそれを消し始めた。黒板の上の方に消し残しを見つけた優征は、珠生の背後からひょいと手を伸ばし、安々とそれを消してやった。そうすることで、身長差を見せつけてやろうと思ったのだ。  珠生は自分よりも一回り大きい優征を、振り返って見上げている。こうして間近で見ると、珠生は思ったよりももっと小柄だった。 「ありがとう」  そう言ってにっこり笑った珠生の笑顔に、優征は不覚にもどきりとしてしまった。ひょいと自分の下をすり抜けて、下の方を消し始めた珠生の肩に、チョークの粉が着いているのが目に付く。   手を伸ばしてそれを払ってやると、珠生はまたびっくりしたように優征を見上げ、きょとんとしている。 「今日は親切なんだね」 「いや、別に。ちょっと気になっただけや」  そう言いつつ微笑む珠生の笑顔を間近で見ると、ああ、こりゃモテるはずだわと完敗した気分である。斗真がぼうっとなる理由も何となく分かった。とにかく、可愛いのである。 「じゃあついでに、これ職員室に持って行ってよ」 「お、おう……」  ちゃっかり提出物のノートを手渡されたが、優征はぼうっとしたまま思わず頷いていた。  引き受けてからはっとする。  +    結局学級日誌まで書かされることになり、優征は放課後に一人教室に残って、かったるい作業をしていた。  明日は新学期最初のテストだが、すでに進路も決まっているのだ、あまりやる気にはなれない。  優征は中学入学時からバスケットボールのスポーツ推薦入学だったため、学力試験は適度に頑張っておけばそれで良かった。中学高校とキャプテンまで歴任した優征は、大学でもそのままバスケットボールの選手としてやっていけることが決まっている。  あとは問題を起こさず、淡々と高校生活を終えていけばいい。それで、名門校の卒業資格がもらえるのだ。  優征はふと、その先の未来のことを考える。大学でもバスケット、その先は、きっと企業に入ってバスケをやる……のだろう。  自分にはそれだけだ。  もちろんバスケは好き。でも、それが仕事となっていく未来を、優征はまだ考えたくはなかった。かといって、今まで名門校の傘の下でぬくぬくとスポーツにだけ励んできた自分が、いったいこの先どうなれるというのだろうか。  最近、そんな事ばかり考えてしまい、優征は憂鬱だった。  がら、とドアが開く音がして、優征の思考が停止する。そちらを見ると、沖野珠生が立っていた。不覚にも、ドキリとしてしまった自分に腹が立つ。 「……あれ、まだ書いてたの?」  一体何をしに戻ってきたのか、珠生は優征の方へ近づいてくる。優征は適当に今日一日の流れを書いてしまうと、ぱたんと日誌を閉じた。 「今終わった」 「あ、そう」 「何しにきたんや」 「忘れ物だよ。数学の教科書」  珠生は机からテキストを取り出して鞄に収めると、優征を振り返った。 「本郷も帰る?」 「え?ああ」  先に帰ればいいものを、珠生は優征が荷物を片付けるのを待っているようだった。何となく並んで教室を出ると、横を歩く珠生を見下ろした。  薄茶色の髪が、さらりと陽の光に助けて揺れている。それと同じ色のまつ毛の長さに、優征は少しばかり見蕩れてしまった。 「なに?」  そんな視線に気づいたのか、珠生が目を上げて優征を見た。優征はぎょっとして目をそらすと、ツンと前を向く。 「それ、地毛?」 「うん、そうだよ」 「よう目つけられへんかったな」 「つけられたよ、真壁先輩に」 「……何もされへんかったん?」 「いや……まぁ、されてないことはないな」  珠生は淡々とした顔でそう言うと、優征を見あげた。 「本郷くらい大きかったら、俺もあんな目に遭わなくてすんだろうにな」 「何されてん?」 「内緒」  珠生は仏頂面でそう言うと、職員室に日誌を届ける優征を置いてさっさと下足室へいってしまった。慌ててその背中を追っておいて、なんで自分は珠生の後を追っているのかと不思議になる。  まだまだ高い太陽の光に溶けこむような珠生の白い背中を、優征は走って追いかけた。追いついてきた優征を、珠生は不思議そうに見上げている。 「本郷はどこから来てるの?」 「俺は北山や」 「へぇ、いいところだよね」 「お前は?」 「松ヶ崎」 「大して変わらへんやん」  そんな淡々とした会話をしながら、二人は同じ方向の地下鉄に乗り込む。確か珠生は、離婚した父親の家に転がり込んでいると聞いたことがある。優征の両親は健在だし、夫婦仲もいい。親の離婚など経験したことも想像したこともない優征にとって、珠生の日常は謎だらけだ。 「北山のどのへん?」 「駅から走って五分やな。鴨川の近くやねん」 「へぇ、いいなぁ、水辺かぁ」 「松ヶ崎は田舎やもんな」 「まぁね、何にもないね。ていうかさ、走ってってのは本郷の脚で走って五分てこと?」 「せやなぁ、普通に歩いたら二十分くらいちゃう?」 「毎日走ってるわけ?」 「おう、手っ取り早いやろ」 「ははっ、さすがバスケ部主将だね」  楽しげに笑う珠生の顔は、驚くほどに可愛らしかった。性懲りも無くどきりとしてしまった優征は、慌てて珠生から目をそらした。

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