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ひと結び

 それは物心ついた時にはもう見えていた――  歩道の横を一組の学生カップルが通り過ぎていく。「待って」と女性が男性に伸ばす手の小指の先からは糸のようなものが出ていて、捕まえた男性の手の小指からもそれが見え、その糸はお互いへと結び合っていた。  そう、俺が見えるのは『赤い糸』だ――――と、言っても赤い糸がくっきりと見えているわけではない。それはピアノ線みたいに透明に近く、光のようにも見える――。  小さい頃からの経験でわかったことは、強く思う相手が存在する人のみ、それは現れ、自分に見えるということだ。  だけど昔から、自分のだけは一度たりとも見えた試しがない――。  そのせいで何度恋をしても自分は本気じゃないような気がして、踏み出すことも出来ずに、自分の恋は常に成就することはなかった。  朝の校門で前を歩く、すらっとした長身の自分がよく知る背中を見つけた。俺は自然と出る満面の笑みで駆け寄り、元気よく声をかけた。 「先輩!おはようございます!」 「おはよ、千暁(ちあき)」  そう俺を呼び、振り返ってくれたのは二学年上の赤穂(あかほ)先輩――。体育祭実行委員会で初めて五月に知り合った、明るくて優しい皆のリーダーだ。  陸上部の部長をしていて、日に焼けたその肌はまさに健康的。清潔に短く揃えられた黒い髪も、凛々しい眉もその濃くハッキリした瞳もまさに先輩の凛とした人となりを現しているようだった。  俺は頭ひとつ分違う赤穂先輩を隣りに立ってまじまじと満足気に見上げる。 「あ、先輩、持ってきてくれました?」 「信用ねえなあ~、持ってきたよ」  赤穂先輩はそう苦笑いしながら自分の学生鞄の中から一冊のノートを取り出し、俺に渡す。 「やった!」 「俺の一年の時のノートなんてアテになんないからな」 「またまた、ご謙遜を」 「赤点取ってもしらねーぞ」 「あ!それ、取った時の言い訳にしますね!」  こいつめ!と赤穂先輩は俺の鼻をくいと摘まみ、大きな口いっぱいに笑っていた。  皆が平等に貰えるその優しい笑顔に、俺は少し物足りなさを感じている。  赤穂先輩。俺の、大好きな人――。  いつ眺めても、その小指の先からは何も見えなくて……。 ――ねえ、先輩。その先には誰がいるの――――? 「しつこいな~!いねえっての!」  面倒そうに声を上げるのは赤穂先輩の親友であり、同じ陸上部に籍だけは置いている幽霊部員の久野(くの)だ。先輩とは対照的で長く伸びた茶髪にだらしなく着られた制服。  なんでがあの人と親友なのか全く理解出来ない、見た目は完全なるチャラ()だ……。  そして俺はこの男を買収した――。  コイツは実行委員会を授業をサボる手段として選んだような男だ。もちろん仕事はロクにせず、度重なる俺へのセクハラの数々を働き、それを赤穂先輩にチクらないかわりの引き換えとして俺に赤穂先輩の恋愛事情を流す約束になっているのだ。 ――久野曰く、「赤穂は善人ではない」  それが親友の発言かと腹が立つ。 「お前もモノ好きね~。ああいう、いつも笑っている奴に限って腹の中じゃどんなに末恐ろしいことを考えているか……」  定期報告は昼休憩の図書室、一番奥にある本棚前。久野は本棚に凭れかかり腕を組み、面倒そうに目を瞑ったまま今日も先輩の悪口を話している。  俺はジロリと一瞥し、「ソレが親友のセリフか?」と吐いた。久野は閉じていた瞼を開けて俺を見る。 「だから俺は敵に回さないの」   赤穂先輩とは違って爽やかの欠片もない、含みのあるいやらしい笑みを浮かべている。色素の薄い茶色く明るい瞳が、長い睫毛の下で細くなる。 「なあ、千暁、お前は憧れの人と付き合えたとして、一生その羊の皮を被って隣で微笑み続けるわけ?」  久野は人差し指で俺の顎を持ち上げわざと哀れむようにそう告げた。癇に障るその指をペシリと払いのけると小さく「いて」とわざとらしく漏らしていた。 「あの人の前だと自然に笑えるんだ。羊じゃない」  久野の胸を片手で突く、赤穂先輩とほぼ身長の変わらないコイツに対してこんなのは、何の威嚇にもならない。 「わかってねーな、お前」 「何?」 「アイツがいい奴過ぎるからお前もいい奴でいなきゃって必死になってるだけだろ。それをただ特別とか勘違いしてんだよ――」  久野が俺の顔を舐めまわすようにじっとりと攻め寄る。俺はそんな脅迫に屈したりしない。 「意味わかんないことゆうな、ハゲ!」 「俺は先輩だぞっ!てか禿げてねーわ!」 「それ以上近付いたら写メを赤穂先輩に今すぐ送るからな!」  忠犬のように久野の動きはピタリと止まった――――。   「一年生にセクハラしたって?」  猫のように大きな目をきらりと光らせ(くれ)は久野の前の席に着き問いただす。傾けた頭のせいでふわふわな栗毛色の天然パーマが揺れる。ますます猫っぽい。 「は?」 「実行委員会の子」 「お前は千里眼か」  何言ってんのと呉は呆れるが「赤穂が怒るよ」と付け加える。 「だから黙ってて」  久野は頼む態度とは到底思えない不貞な態度でそう告げる。 「楽しんでんのか、趣味悪い」 「酷いなあ、違うって。俺はね、3日つついて1日無視。7日つついて2日無視。15日つついて3日無視してだなあ」  バシリと強い力で久野は頭をはたかれた。いてて、と漏らしながらよろめく。 「このドSめが」 「呉にも伝授してやるよ、この久野戦法」  全く懲りていない様子の久野はガバリと呉に抱きつき、嫌がる相手を無視してぐいぐいと大きく揺らす。 「いらねーよ!変態!離せっ」  久野より明らかに小柄な呉は力では到底久野には及ばないようで、必死に暴れていはいるものの全く効果がないようだった。ひひひと嫌な笑いを久野はあげるが、そこへ一人の男が突然横槍を入れる。 「呉」  この場にそぐわないほどの冷淡な声を発する主をふたりはピタリと動きを止めて見た。するりと久野の腕がすんなりと解かれ、何もなかったかのように呉は立ち上がりその男に笑いかける。 「赤穂、鍵だよね。預かるよ」  怒るわけでも笑うわけでもない赤穂が部室の鍵を呉に差し出す。 「今日16時半。よろしく」 「うん、わかった」  ジロリと赤穂は久野を見る。久野はダルそうに机に片肘を突いている。 「久野、お前も今日こそは来いよ!」 「風が止んだらね」 「お前はどこの旅人だよ。呉、久野(コイツ)のことも一緒によろしくな!」 「うーん、あんまりアテにしないで?」  ははは、と呉は乾いた笑いを返すと、赤穂は全くと漏らしながら教室を後にした。はぁ〜と溜息ついて呉はヤル気のない顔の久野を見る。 「カッコイイお前もたまにはその一年生に見せれば?」 「え?毎日カッコイイだろ?」  あほかと呉は軽いデコピンを久野にお見舞いしてやる。額をさすりながら久野はしみじみした。 「似てんなぁ、なんか」 「なに?誰の話?」 「さあね」  久野は小さく笑って誤魔化した。呉は腑に落ちない表情で首を傾げている。 ――いい子はみんな赤穂のことを好きなのかねえ――――?  全く、嫌になるなと、久野は椅子にダラリと凭れかかる。  呉はストップウォッチを持ち、笛を咥える。短距離専攻の男子部員が二人ラインに並び、腰を下ろす。 「位置についてー」  一拍開けて笛を吹く。空いたライン前にまた次の部員が二人立ち、呉は同じ動作を再度繰り返す。一年生から二年生、三年生と続き、最後に赤穂もラインに立つ。その姿を少し遠くからフェンスに指を掛けた千暁が真剣な眼差しで見守る。  背後から急に大きな手が伸び、俺の掛けてあった手の上に重ねられる。いきなりのことで驚く俺の背中をさらに厚い胸で押しつけられた。 「わっ!」  振り向かなくてもそんなことをするのは一人しかいない。 「なー、メシ行こー」  ほらな、そのヤル気のない声。久野だ。 「ちょっと!何で部活行ってねーの」 「風が強いと跳べないから」 「強くねーわ!微風だわ!」  抑えられた手は振り上げると外れたものの、体格差のせいで馬鹿デカイ胴体は簡単には動かなかった。グリグリと肩で押しても久野は平気な顔をしている。短く諦めの溜息をついて俺は久野を睨んだ。 「たまにはいいトコ見せろよ!先輩なんだろ?」 「――そんなんじゃ、ダメだろ?お前には」  思いの外弱々しい久野の返答に俺は戸惑い、眉をひそめた。 「え、なに?」  言葉の本質を知りたくてその眼を覗こうとするが、身体が振り向かないせいで久野の顔をちゃんと見ることが出来ない。もう一度口を開こうとするがそれは次の瞬間失敗に終わる。 「久野!堂々と何してる!!」  フェンスを叩くように掴み鳴らす大きな音と共に、すぐ向かいで赤穂先輩が怒号をあげた。聞いたこともないような声量と迫力に俺は身体が(すく)んだ。恐る恐る視線を向けると眉根を寄せた先輩が、不穏な顔で久野だけを見据えていた。 「早く着替えろ」  その声色は怒ってはいるものの、静かだった。  身体を抑えられていた力が弱まり、俺は思わず久野を見るが、奴は動じることなく、顔色ひとつ変えずに先輩を眺めているようだった。まるで遠くにある何かを見つめているような、覇気のない顔だった。  俺は二人の空気がいたたまれなくて、逃げるように地面に視線を落とす。歩き出す久野の足音が聞こえた。先輩は暫く久野の背中を追っているようだったが、俺に視線をやると、いつもの優しい笑顔を作り、優しく声をかけてくれた。 「大声出して、ごめんな、千暁」  俺の唯一知る、先輩の優しい声色だ。その声に安心して俺は先輩の顔を見ながら「いいえ」と短く返す。 「千暁、良かったら見て行ってよ。貴重なあいつの姿。惚れるよ」  俺は愛想笑いのような返事しか出来なかった――。  先輩はじゃあねと笑い、颯爽と部活の輪に戻っていく。その離れて小さくなっていく背中を俺はただ見つめた。 「俺が好きなのは、先輩なのに……酷いよ……」  フェンスに頭を付けてはぁあと溜息を溢らす。  暫くぼんやりしていると、リズムを取るような手拍子が耳に入り、顔を上げると久野が助走しはじめていた。  入学してから一度も見たことがないジャージ姿といつものだらしない髪は後ろでしっかりと、ひとつに縛られていた。驚いて眼を見開いたと同時くらいに久野は勢いよく、高く跳んだ。素人目に見ても普段授業で見れるような平均的な高さでないことがわかる。跳んでからも上から何かに引っ張られたかのように身体が反り上がり、白いバーの上を背中が通過していく。驚いて開いた口か閉じぬままに久野は大きなマットに身体を落とした。  まわりからワッと上がった歓声に久野の記録のすごさを理解した。陸上部の生徒たちが久野を目で追っているのがわかる。それが憧れの眼差しなことも簡単に想像がついた。  だが、当の本人はシラけた顔のまま、後輩たちや同級生たちに声を掛けるわけでもなく、マットから降りてからもただどこか遠くを眺めていた。そして、誰もそんな久野には声を掛けられない。 「なんで……、そんな顔……」  なぜか俺は、酷く胸が痛んだ。 「久野!珍しいね、今日最後まで残るなんてさ」  制服に着替えた呉は明るい声で、着替えている途中の久野に声を掛けた。久しぶりの友人の活躍に興奮している様子だ。  シャツのボタンを留めながら久野は呉を見ることなく声を掛ける。 「赤穂に用あるから、呉、先に帰ってて」 「えっ」  困惑した表情の呉に赤穂は明るく笑い掛ける。 「俺が鍵しめとくよ。おつかれ」 「……うん、おつかれ。お先」  後ろ髪が引かれるのか、呉はドアを閉め切るまで中の様子を見つめ、諦めたように最後は閉めた。それが閉じ切るまで赤穂は笑顔を続け、久野は沈黙を続けた。  ドアが閉まると先に口を開いたのは久野だった。 「お前って得だよな」 「え?」  ベンチに腰掛けたままの久野は、赤穂に背中を向けたまま話しかける。 「お前みたいな残酷な奴をみんな優しい奴って言うんだから」 「なんだよ、急に」 「誰にでも平等、誰にでも親切。一番みんなが傷付かないやり方だよな」  久野はようやく赤穂に目線だけ送ると、静かな口調でそう告げた。 「お前……、何が言いたいんだよ」  友人が何を言わんとしているのか理解できないようで、赤穂は少し苛立っていた。 「俺、呉と付き合おうかな――」 「え……っ?はあぁっ?!」  赤穂の全くもって想像していなかった突然の発言に、思ったよりも大きな声が出て自ら驚く。 「千暁もかわいいんだけど、ちょっと面倒になってきたし」 「お前!呉は代わりかよ!」  親友を軽んじて扱われ、カッとなり、赤穂は声を荒げた。それでも久野は平熱のまま、一切動じなかった。そしてゆっくり赤穂に手を伸ばしてきたかと思うと急に胸倉を掴み引き寄せた。バランスを崩し赤穂はベンチに両手を着き、前に倒れるのを耐える。冷たい視線の久野と正面から目が合う。 「呉はお前のじゃねーだろ?お前は……、呉を振ったんだから」  赤穂は言葉を失い、その目は驚きで見開かれていた。 「な……、知っ……」 「わかるよ。残酷なお前はどうせこう言ったんだろ?これからも友達として仲良くしたい。部員とマネージャーとしての関係を失いたくないって。呉は涙も出なかったろうな」  口の端をあげてわざと嫌な笑みを作っていた久野はすっと真顔に戻る。 「呉がどんな気持ちでいるかなんて――自己中のお前には見当もつかねーんだろう?」  掴まれた胸倉を押すように離すとよろよろと赤穂は余韻で数歩後ろに下がる。その顔は驚きで固まったまま、一言も話さない。 「お先。戸締りよろしく」  背中のまま久野は赤穂に淡々と告げると勢いよくドアを閉め姿を消した。  赤穂はしばらく立ったまま一人残された部室の中、動けずにいた――――

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