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ふた結び。

 校門のそばにある街灯の下に人影を見つけた。  こちらに気付いたらしく、壁に凭れさせていた身体を起こし、身体の前で小さく手を振っている。 「なんで帰ってねーんだよ」と久野(くの)は呆れた声を相手に向ける。 「心配だったから」  街灯が(くれ)の、あの猫のように丸々とした大きな瞳を照らした。 「赤穂ならまだ」 「久野が。心配だったの」  久野が最後まで言い終わる前に呉はそう遮り、柔らかい表情と声で続ける。 「久野はお人好しで、お節介だからね」  はぁーあ、と顔を横向け久野は大袈裟にため息をついてみせ、呉の方をまた向き直す。 「お前なんで、俺にしなかったんだよ」 「うーん、本当にね」  ひゃははと呉は呑気に笑ってみせた。 「でも久野は俺を好きにならないよ」 「なんでだよ」 「わかるよ。友達だもん」  目を細めてにっこりと潔く言い放つ。久野は再びため息をつくとボソリと呟いた。 「――なんか、腹立つ」 「なんでっ!」 「ヤッホー!千暁!」  朝から妙にテンションの高いその声に俺が振り返るよりも先に、デカイ手がナデナデといやらしく尻を触って来た。俺はバシリと思い切りよく(はた)いてその手を制御する。アデッ!と久野の間抜けな声に俺は短くため息をつく。 「俺――フラフラしてるアンタより、跳んでるアンタのが好きだよ」  目線も合わせない俺は隣に並ぶ久野に独り言のようにそう告げた。ちらりと横目で見ると、その顔は少し驚いているようだった。 「――けど、もういいんじゃない?陸上部なんて辞めちゃいなよ」 「……千暁」 「辞めてナンパ部でも作れば?」 「お前な」  がくりと久野の肩が下がる。何か思うところがあったのか久野の視線は一点に下がったままだ。 「なに?どーかした?」  いきなりデカイ手が俺の頭を目一杯撫でる。勢いが良すぎて髪の毛がぐしゃぐしゃと音を立てていた。 「ちょっ!やめろよ!なに!」  久野の手で無茶苦茶にされた髪を触ると、見事に乱れていて、俺はイライラしながら必死に直す。睨んで見上げた久野の顔は、なぜか見たこともないような満面の笑みだ。 「ありがと」 「はぁ?」  俺は久野が言わんとしている言葉の意味が読めなくて首を傾げる。じゃあなと背中を向けて先を歩く久野を目で追い、俺はギクリとした。  久野の左小指からが見えた――。  俺は自分が想像する以上にそのことに動揺していた。  横から誰かが久野の側に駆け寄って来て声を掛ける。あの陸上部のマネージャーだ。久野の肩を笑いながら叩くその細い手からは久野と同じようにあの糸が出ていた。  久野の、糸の相手は――あの人――?  必死に目を凝らし二人の糸の先を追うが、ボヤけ霞んで見えない。頭の中の毛細血管がチリチリと過敏になって、体内の血がグルグルと早く流れるような錯覚を起こす。  不意に後ろから肩を叩かれ身体が大袈裟にビクリと反応した。 「おはよう、千暁」 「――赤穂、先輩」  突然のことで俺はうまく笑顔を作れなかった。 「どうした?ボーッとして」  呆然とする俺を不思議に思ったのか、先輩は心配そうに俺を伺っている。なんでもないですと、ようやく笑顔を作って返し、俺は先輩の両手を凝視した。けれど、先輩からは相変わらず何も見えない。 「昨日見てた?久野の高跳び。すごかったろう?」  ゆっくり歩き出した先輩に沿って俺も進む。 「あ、はい」 「けど――全然、楽しくないみたいでさ――勿体無いよ、本当……」  先輩はとても悲しげだ。俺はその表情に苦しく切なくはなるものの、先輩の話す言葉にはなぜかピンとこなかった。それでも「本当ですね」と薄っぺらい返事が勝手に口から出ていた。 「赤穂、今日も16時半でいい?」  いつものように教室に現れた赤穂に笑顔で呉はそう告げ、鍵を受け取る。 「呉」と、ぼんやり赤穂は名を呼ぶ。 「なに?」  真っ直ぐ赤穂を見つめる呉とは反対に赤穂の視線は はどこか別のところをウロウロと泳がせている。呉は様子のおかしい赤穂を少し黙って待ってみるが、痺れを切らした別の男が離れたところから声を上げる。 「呉!先に行くぞ!」 「あっ!少しくらい待ってよ!久野!」  赤穂はその声に急かされたのか、身体の前で手の平を呉に見せる。 「いいや、引き止めてごめん」 「そう?じゃあ、また放課後ね」  呉は笑顔のまま赤穂にそう告げると小走りで背中を向けてどんどん前を進む久野に追いつく。呉が久野の腕をぐいぐい振って何か冗談交じりに揉めているようだった。  その遠くなって行く二人の姿を見ながら赤穂は昨日の久野の言葉を思い出していた――。 『――呉は涙も出なかったろうな』  久野の言った通り、、呉は決して泣くことはしなかった。唇を噛んで必死にそれを堪え、紅潮した顔は俯き、小さく震えていた――。  呉の明るい笑い声が次第に遠くなって行く中、赤穂はまた一人その場に取り残されたように立ち尽くしていた――。  教師の合図とともに俺は走り出し、片足で踏み切り跳び上がる。  頭の中では昨日見た久野のあの姿が浮かんでいた。あの空を泳ぐように優雅に高く伸び上がり、スローモーションみたいにバーの上を越えていくあの綺麗な姿。  気がつくと俺の身体はマットの上にドサリと落ちていた。クラスメイトたちがその記録に驚いているようだが、俺にはその声はどこか遠くのものに感じた。そよ風が髪を掠めていく。俺は頭の上に広がった大きな空をぼんやりと仰いだ。 「なんだ……、悪くないじゃん」  アンタが、あんなにつまんなさそうにしていたから――。 「今日も久野来なかったねー。昨日久しぶりに跳んだのに」  制服のシャツボタンを留めながら呉は残念そうに呟いていた。アイシング用のスプレー缶を握ったまま赤穂は一点を見つめ、ぼんやりとしている。 「赤穂?」 「……あ、ああ」  呉に言われて赤穂は今日一日、久野のことを忘れていたことにようやく気付いた。 「呉、今日時間、ある?」 「え?うん」  明らかにぼんやりとした赤穂を少し心配しながら呉は制服の上着に袖を通す。 「今日、倉田(くらた)の調子良かったねー、どんどん速くなるといいなぁ。三国(みくに)も中距離のが向いてるって本人も話してたし……」  後輩のコンディションに喜ぶ呉をよそに赤穂のリアクションはとても薄く、学校を出た時からずっと話しているのは呉ばかりだ。 「赤穂、聞いてる?」  少し拗ねたように呉は問う。 「あ、うん」 「いや、聞いてなかったろ!」 「聞いてたよ。倉田と三国な」 「赤穂、どうかしたの?大丈夫?」  あからさまに普段と違う様子の親友に呉は落ち着かない。言ったそばからまた視線はどこか別のところを見ている。  赤穂は昨日の夜からずっと考えが止まらなかった。  久野に言われ、半年前、自分に告白して来た親友のことを――。  本当はあの日から毎日呉は苦しんでいたのだろうか――?  本当は陸上部なんて辞めて、自分の顔も二度と見たくなかったのか――。  本当は――――もう――――。 「赤穂!!危ない!!!」  背後からロードバイクのブレーキ音が歩道に響いた。赤穂は力の入っていなかった身体を手前に引かれ、簡単にバランスを崩すが、自分を包む相手の身体の中で前に倒れたため何の痛みも衝撃もなかった。  ただ、同時に、人が何か固いものに当たったような鈍い嫌な音が聞こえた。ロードバイクのタイヤがカラカラと倒れて回る音がする。  突然のことに赤穂は現状が理解できないでいた。 「す、すみません!大丈夫ですかっ!!」  運転していた若い男が青い顔をして近寄り、叫んでいる。どうやら携帯画面に目が行き、前をちゃんと見ていなかったようだ。 「赤穂!足は?!痛めてない?!」  赤穂は呉の必死な声に驚き顔を上げる。自分を包んでいた身体は他でもない、呉だった。白い顔をしてこちらを心配そうに伺っている。 「痛いとこない?赤穂?!」  白い顔に赤いものが滴っていた。先ほどの音の正体は呉が頭をどこかにぶつけた音だった。こめかみから頰へと血が伝う。  胸が締め付けられると同時に目頭が熱い。奥歯を噛んで赤穂はその衝動を堪え、自分を守ってくれた自分より小さな身体を反対に今度は抱き締め返す。 「うん……、大丈夫、ありがとう。ありがとう、呉――」  思ったより力強いそれに呉は少し戸惑うが「大袈裟だよ」と笑ってみせた。なんとなく濡れた横顔に自分で手をやり呉はピタリと動きを止める。 「……呉?」 「あああああ!!!血!!!!痛い!!!!!」 「――今?」  赤穂は思わず、出かけていた涙が引っ込みそうになっていた。

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